饗応と胸奥
精神がぶれれば処方するコトノハも精妙を欠き、効能が薄まる。
相手が成人にも達しない年少者であり。
清らに整った面立ちであり。
それらと矛盾して殺伐とした瞳であっても。
思い描く〝処方箋〟に惑いは禁物であると、秀一郎は知っていた。
相対する少年には微塵の躊躇も見受けられない。それを証明するように、色の芳しくない唇が素早く動く。
「衛士のたく火の夜はもえ」
百人一首の、秀一郎にも馴染みのコトノハだった。
音ノ瀬に馴染みの。
それでコトノハの間合いを把握する。
襲い来る火炎が秀一郎の前髪を炙る前に、彼もコトノハを処方した。
「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」
コトノハに招かれ宙に生じた無数の白露が火炎をくるみ、コトノハが相殺される。
じゅわっという音が上がり両者間の空気が静穏を取り戻す前に、秀一郎が動いた。
少年のパーカー腹部を目掛けて掌底を繰り出す。
大振りで目立つ動きはすぐにかわされるが、秀一郎の右脚は相手の身体の軌道を追って外回し蹴りを放っていた。掌底はフェイントだ。
弧を描く脚線が少年に追いつく間際。
「切っ」
苦し紛れに発せられたコトノハが締め付けの少ない秀一郎のズボンの裾を裂いた。
衝撃は軽減されたが、蹴りを喰らった少年の細い体躯は吹っ飛び、薔薇の繁みに落ちた。
秀一郎はそれを目で追い、コトノハによる自身の切り口を一瞥する。
少年のコトノハは表皮を浅く薙いだだけだ。厚いジーンズであればもっと防げたかもしれないが、固い布地は動きの妨げにもなる。
格闘技を嗜む身で一戦交える際にジーンズを穿く人間など、余程自信があるか、油断し切った者だ。秀一郎はそのどちらでもない。
瞬きの油断が命取りだということも熟知していたが。
「斬、斬斬斬斬斬!!」
明るいオレンジが真紅や濃いピンク、純白の花弁から視界に現れる前に、怒気を籠めて響いたコトノハには、咄嗟の対応が遅れた。
「壁!」
コトノハで防ぎながら両腕を前面で交差させるが、無傷では済まなかった。
防寒を兼ねた厚いジャケットをも破り、痛みが肉を噛む。
「…………っ」
地に伏せる手前で辛くも体勢を立て直した。
薔薇の繁みから引っ掻き傷を作りながら戻った少年は、べっ、と血と唾を地面に吐いた。
線描画や色鉛筆で描かれるのが似合いそうな面差しが、悪鬼、明王を思わせる如くに歪んでいる。
こうなればもう作りとは切り離され、美よりも淀んだ印象を与える。
「隼太が曲がりなりにも、って言った意味が解ったよ。おじさん」
「光栄だな」
「ほざけよ」
「青いね、君は」
「すげえむかつく」
秀一郎は喜びに笑う。顔面のどこかがぴりぴりした。
挑発に乗る相手ならばまだやりやすい。
深く呼吸する。全身に汗の気配を感じる。
冬とは思えぬ陽射しが暑気を思わせる。
難解な思考を無にしてコトノハを紡ごうとして、再び顔の皮膚が痛み、どこかが切れているのだとそれで知覚した。
両手を閉じたり開いたりして握力の確認をしながら、次に処方するコトノハに頭を巡らせた。
青と緑。紫。臙脂。
色が渦巻き、どよめいている。
渦状星雲を思わせる澄んだ煌めきは無い。
だが醜悪とも一線を画する気違いじみた空間に、聖は浮かんでいた。
右手には行き場を失った物差し。
明らかに異常と判る現況に彼が狼狽えも慄きもせずに済んだのは、ふるさとという、現世から離れた環境で生まれ育った耐性の賜物だった。
赤い目に険しさはあるものの、常の静謐を完全に失ってはいない。
〝外道祭文キチガイ地獄〟
たった一つのコトノハが、彼をこの異常な空間に堕としたのだ。
光明の兆しも無い。
有名な書物に登場する知ったコトノハではあったが、まさかあの場所であのような形で処方され、それがここまでの威力を発揮するなど、聖でさえ思いもしなかった。
尋常では有り得ない。
音ノ瀬の直系であるなしなどの問題でもなく、この事態を成さしめる要因、元凶とも言うべきものに聖は思い当たったが、残念ながら現状打破の鍵には繋がらない。
(こと様)
倒れ、知らぬ男の腕に納まった姿が焼きついている。
知らず握り締めた物差しの角が掌に喰い込み血流を阻む。
(……秀一郎君がいる)
彼は信頼に足る男だ。懸念は残るものの、今は現実世界への帰還にのみ集中すべきである。
死ぬことなど許さないという甘美なコトノハの響きが、聖を呪縛している。
不意に、甘美を散らすような冷風が吹き、白髪を乱した。
『その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ』
唐突に響いたコトノハは、聞き覚えのある声だった。
しかしその声の持ち主は――――――――。
冷たい声音がわんわんわん、と反響して聖の身を包む。
うねりに圧迫され、閉じていた目を見開くと、一つの映像が混濁した色彩の中央に映し出された。
独りぽつねんと佇む幼い少女。
懐かしの姫君。
風に耳を澄ませている彼女に、聖は手を伸ばした。




