第1話 魅力的な女の指南書
そこに躍っていたのは、淑女教育の教科書には絶対に載せられない、男性を誘惑するための、魅惑的で刺激的な手練手管の数々だった。
「――ふぇっっ!?」
レーベン子爵家の長女マリアンヌは、喉から変な音を漏らして固まった。
冊子に描かれた挿絵――男性の胸元にしなだれかかり、上目遣いで思わせぶりな笑みを浮かべる女性の姿に、頭の芯がカッと熱くなる。
「こ、これ、本当に? ……世の女性たちは、これを実践しているの……!?」
「ええ! もちろんですよ、お嬢様!」
興奮気味に身を乗り出してきたのは、長年、マリアンヌに仕える専属侍女のアンナだ。
レーベン家と同じく財政難に苦しむ貧乏男爵家の出身で、マリアンヌにとっては五歳年上の、気さくで頼れる姉のような存在である。
「これは王都の平民街でいま大流行中の『男を落とす秘密の指南書』でございます! 『視線は唇から瞳へ』、『囁くときは、相手の反応を見ながら距離を詰めるべし』、『男性をその気にさせる、秘密の誘い方』……ふふふ、これさえ読めば『男が求める女』になれて、どんな男性も《《イチコロ》》だそうですよ!」
「《《イチコロ》》って……アンナ、あなたどこでこんな、ふしだらな本を……!?」
マリアンヌは震える手でそっと本を閉じ――そのまま、耳たぶを真っ赤に染めて固まった。
(……でも、待って……?)
ふと、マリアンヌの脳裏にひとつの考えが浮かび上がった。
自分は卒業したら『家のため』に富裕な方へ嫁ぐつもりだ。
だからこそ、せめて卒業までの最後の1年だけ、一度でいいから誰かと『恋』をしてみたい。
しかし、もし普通に告白して本気の恋をしてしまったら、自分はどうなってしまうのか?
(卒業するとき、私はきっと未練を残してしまうわ。それに、もし、お相手の方に本気で引き止められでもしたら……私は家族を取るのか、その人を取るのか、選ばなくてはいけなくなる。家族を選べば、その人を裏切ることになるし、その人を選べば、家族を捨てることになる……)
そんなことは絶対にできない。誰の負担にもなりたくはないし、誰のことも傷つけたくないのだ。
(なら……最初からお互いに本気にならない『割り切った関係』なら……?)
手の中にある、ふしだらで魅惑的な指南書を見つめる。
(そうよ。私が指南書通りに男の人を翻弄する『遊び慣れた女』を演じればいいのだわ! 私が遊びで誘惑したのだと思わせれば、相手だって本気にならずに済む。卒業が来たら『遊びは終わり』と冷たく別れを告げれば、誰も傷つかずに綺麗に終わらせられる……!)
真面目すぎるがゆえに、的外れな方向へと辿り着いてしまった完璧な計算。マリアンヌは胸元で本を強く抱きしめ、心の中で静かに、けれど彼女なりの覚悟を固めた。
(家族を守るため、そして最初で最後の我儘を叶えるために……私は、『遊び慣れた女』になるわ)
レーベン子爵家の領地経営は、いまや厳しい局面を迎えている。
事の発端は一昨年の長雨だった。
レーベン家の主要な収入源である葡萄畑が壊滅的な被害を受け、収穫量は例年の二割以下に落ち込んだ。真面目で領民思いな父ビクターは、自分たちの生活を極限まで切り詰めて領民への補償を優先したため、子爵家の蓄えは底をついた。
母キャサリンの実家である名門・ジオン伯爵家から金銭的な援助を受け、なんとか首の皮一枚で繋がっている。それでも、これ以上いつまでも親戚の好意に甘えるわけにはいかない。
何より、マリアンヌには守るべき幼い弟妹がいた。十歳になる嫡男の弟トーマスと、八歳の妹メリッサである。
(あの子たちに貧しい思いをさせたくない。トーマスが立派に家を継ぎ、メリッサが幸せな結婚をするまで……私が子爵家を支えなきゃ)
その結果、三年前から続いていたカーメル伯爵家嫡男・ノーマンとの婚約も、昨年、静かに解消された。マリアンヌに、ノーマンを恨む気持ちはない。彼もまた、家の利益を最優先しなければならない貴族の当主教育を受けてきたのだから。
『私が富裕な家に嫁げば、レーベン子爵家は救われる』
学園卒業後、マリアンヌは恋ではなく『家のため』の結婚をする覚悟を決めている。
持参金を用意することなど、今のレーベン子爵家には到底無理だ。ましてや、家同士の条件を整えた政略結婚など望めるはずもない。
年の離れた裕福な家の後妻でも、平民の商家でも――家を救えるだけの財力があるなら、何でも受けるつもりだ。
だからこそ――最初で最後の、我儘。
(家のために結婚する前に……せめて一度くらい、自分で選んだ、素敵な方と恋をしてみたい)
誰の負担にもならず、後腐れなく、卒業と同時に綺麗に終わらせられる関係。そのためには、本気になられても困るし、相手を傷つけてもいけない。
(遊び慣れていて、余計な揉め事を起こさず、一年限りの関係だと割り切れる、口の固い人……)
マリアンヌの頭に浮かんだのは、学園屈指の美貌を持ち、数々の令嬢と浮名を流す侯爵令息――フレデリック・ドーソンだった。
「アンナ」
「はい、お嬢様!」
「この『指南書』……借りるわね」
「はっつ!? えっ!?」
真面目な優等生マリアンヌ・レーベン、十七歳。
家族を守るための決意と、ほんの少しの乙女心を胸に秘め、彼女は『遊び慣れた女』としての一歩を踏み出したのだった。
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