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THE EDGE(ジ・エッジ)  不可視の防壁   作者: sora_op


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8/12

Case 07:9番目の席と、消えた世界(The Seat 9B)

第1部:ヒグマの部屋


1


金曜日の夜。


亀之助とケアラは、最上階の社長室に呼び出されていた。


「……お入りなさい」


重厚なドアを開けると、**猪熊(ヒグマ)**が一人、窓の外の東京タワーを見下ろしていた。


部屋の照明は落とされ、間接照明だけが彼の横顔を照らしている。いつもの冷徹な経営者の顔ではない。どこか遠く、ここではない場所を見ているような目だった。


「社長、お話とは……」


亀之助が恐る恐る尋ねる。


先週の「物理スパイ事件」以来、社内の警戒レベルは最高潮に達していた。また新たな敵の予兆だろうか。


「今日は、ビジネスの話ではありません」


猪熊はゆっくりと振り返り、デスクの上に置かれた一枚の古い写真を指差した。


そこには、猪熊の若い頃と、もう一人、筋肉質で知的な笑顔を浮かべるアメリカ人の青年が写っていた。


「彼の名前は、ダニエル。アイギスの創業者の一人であり、私の友人でした」


猪熊は静かに語り始めた。


「彼は天才でした。MITで数学を学び、『コンシステント・ハッシング』という画期的なアルゴリズムを発明した。それが今のアイギスの、そして今のインターネットの基礎になっています」


ケアラが息を呑む。彼女はその名前を知っている。


「……ダニエル・レヴィン。Akamaiの共同創業者」


「ええ。……亀之助くん、君は2001年9月11日、何をしていましたか?」


亀之助は不意を突かれた。


「え……当時はまだ中学生でした。テレビで、信じられない映像を見ていた記憶しか……」


「ダニエルはその日、ボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便に乗っていました」


部屋の空気が、急激に冷えた気がした。


アメリカン航空11便。


ワールドトレードセンター北棟に、最初に突入した機体だ。


「彼の座席は、ビジネスクラスの9B。……ハイジャック犯のリーダー、モハメド・アッタのすぐ後ろの席でした」


猪熊の声は淡々としていたが、その奥には押し殺した慟哭があった。


「彼はイスラエル国防軍の特殊部隊(サイェレット・マトカル)出身でした。機内で何が起きたのか、詳細は誰にも分かりません。


ですが、FBIの推定では、彼はハイジャックが始まった瞬間、たった一人でテロリストに立ち向かったと言われています。乗客と乗員を守るために」


亀之助は言葉を失った。


特殊部隊出身の天才数学者。


彼なら、あるいは制圧できたかもしれない。だが、彼は背後から別の犯人に襲われ――9.11テロの最初の犠牲者となった。


「彼が命を落としたその日、世界中の人々が安否確認のためにニュースサイトに殺到しました。


インターネットは崩壊するはずでした。


ですが、落ちなかった。


彼が作ったアイギスのアルゴリズムが、爆発的なトラフィックを分散させ、世界を繋ぎ止めたからです」


猪熊は写真の友人に視線を落とした。


「彼は死にましたが、彼の作った『盾』は機能した。……それが、我々アイギスの原点です。


我々が守っているのは、ただのデータではない。『繋がっている』という希望そのものなのです」


第2部:僕が殺した世界


2


重苦しい沈黙が部屋を支配する。


「……僕には、そんな高尚なことは言えません」


亀之助がポツリと漏らした。


自分でも驚くほど、乾いた声だった。


猪熊とケアラが彼を見る。


「僕は……かつて、世界を一つ、殺しました」


亀之助は、ずっと胸の奥にしまっていた古傷を開いた。


「前職のゲーム会社でのことです。期待されていた新作MMORPG(大規模多人数同時参加型オンラインRPG)のローンチ担当でした。


僕は、ルーティングの設定を一行、間違えました。たった一行です。


サービス開始の瞬間、数万人のプレイヤーがログインし……サーバーは全滅しました」


ケアラが悲痛な顔をする。エンジニアとして、その恐怖が分かるからだ。


「復旧まで3日かかりました。その間、SNSは大炎上。


でも、一番辛かったのは怒号じゃありません。


あるプレイヤーがブログに書いていたんです。


『病室で寝たきりの弟と、このゲームの中で冒険する約束をしてたのに』って」


亀之助は拳を握りしめた。爪が食い込む。


「たかがゲーム、かもしれません。


でも、彼らにとっては、そこが唯一外に出られる『世界』だったんです。


僕は自分のミスで、その世界への入り口を閉ざし、彼らの約束を踏みにじった。


……ダニエルさんのような英雄的な話じゃありません。ただの、情けないミスです」


亀之助は下を向いた。


だから自分は、石橋を叩く。


臆病だと言われても、地味だと言われても、二度と「接続できません」という絶望の文字を人に見せたくない。


「……カメ」


ケアラが何か言おうとした時、猪熊が静かに口を開いた。


「亀之助くん。君のそれは、ミスではない」


猪熊の声は温かかった。


「それは**『傷痕(スカー)』**です。


エンジニアは、失敗の数だけ傷を負い、その痛みを知ることで、より強固な盾を作れるようになる。


君が『何も起きないこと』に執着するのは、その痛みを忘れていないからだ」


猪熊は亀之助の目を見た。


「ダニエルもそうでした。彼は常々言っていた。『完璧なシステムなんてない。あるのは、完璧を目指して足掻く人間だけだ』と。


……君は、アイギスに必要な人間です」


亀之助の目頭が熱くなった。


その時だった。


3


『……警告!』


ケアラのスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。


彼女は画面を一瞥し、顔色を変えた。


「社長、カメ! 感傷に浸ってる場合じゃないわ!


……ハイジャックよ!」


「ハイジャック? 飛行機か?」


「いいえ。BGPハイジャック! インターネットの『経路』が盗まれてる!」


ケアラが社長室の大型モニターにダッシュボードを映し出す。


世界地図の上で、日本に向けられるはずの通信経路(ルート)が、ぐにゃりと曲げられ、別の場所へと吸い込まれていく。


「ターゲットは日本の官公庁、そして電力会社の制御ネットワーク!


通信が、南方の島嶼部……APT-Dragonの支配エリアへ強制的に迂回させられているわ!」


第3部:経路の奪還


4


SOC(監視センター)へ駆け込んだ亀之助たちは、戦慄した。


BGPハイジャック。


それは、インターネット上の「道路標識」を書き換える攻撃だ。


「霞ヶ関行き」の標識を、勝手に「地獄行き」に書き換えるようなもの。


ユーザーは正しいURLを叩いているのに、気づかないまま敵のサーバーへ誘導され、通信を盗聴され、偽の情報を掴まされる。


「……やりやがったな」


亀之助が舌打ちする。


「DDoSで潰せず、物理スパイもバレた。だから今度は、インターネットの根本(ルート)そのものを捻じ曲げてきやがった!」


「影響範囲、拡大中!」


十凍(ソゴル)が叫ぶ。


「このままだと、政府のメールも、発電所の制御信号も、全部奴らに筒抜けになるぞ!」


「どうする!? BGPはプロバイダ(ISP)同士の信頼で成り立ってる! アイギスの一存じゃ止められない!」


守凪がパニックになる。


亀之助は、先ほどの猪熊の話を思い出していた。


9.11。飛行機が乗っ取られた日。


ダニエルは、たった一人で立ち向かった。


なら、俺も。


「……親方! 十凍! ケアラ!」


亀之助が叫んだ。影の薄い「冴えない男」の顔は、もうそこにはなかった。


かつて世界を壊してしまった男が、今度は世界を守るために吠えていた。


「**『Route Advertisement(経路広告)』**を上書きする!


奴らが偽の看板を出したなら、俺たちはもっと強力な拡声器で『正解はこっちだ!』と世界中に叫び続けるんだ!」


「正気か!? 数千のルートを手動で広報する気か!? 設定を一行でもミスったら、今度こそ日本のネットが全滅するぞ!」


十凍が警告する。


亀之助はニヤリと笑った。眼鏡の奥の目が光る。


「安心しろ。……設定ミスで世界を壊した痛みなら、俺が一番よく知ってる」


5


それは、ミスの許されない極限のタイピングだった。


亀之助の両手がキーボードの上を舞う。


石橋を叩くような慎重さで、しかしダニエルのような大胆さで。


「Prefix 203.0.113.0/24……正規ルート広報! AS番号確認、アイギス!」


「Next Hop……修正! 奴らの偽装ルートを破棄!」


ケアラが隣で波を読む。


「いいわカメ、その調子! 奪われた通信が、少しずつ戻ってきてる! 30%……50%……!」


「親方、物理回線の帯域、持ちますか!?」


「おうよ! 熱暴走したらドライアイスでも何でもぶち込んで冷やしてやる! やれぇ!」


猪熊は、後ろでその光景を見ていた。


騒がしく、泥臭く、しかし頼もしい「エッジ」たち。


(……見ているか、ダニエル。君の作った会社は、今もこうして戦っているよ)


「……ラスト! 電力制御網、ルート奪還!」


亀之助がEnterキーを叩き込んだ。


モニター上の赤い線が、一瞬にして青い正規ルートへと書き換わる。


APT-Dragonが仕掛けた「デジタルのハイジャック」は、亀之助たちの「正しい声」によって無効化された。


第4部:継承される意志


6


戦いが終わった。


窓の外では、東京の夜明けが始まっていた。


「……ふぅ」


亀之助は椅子に深く沈み込んだ。指が震えている。


「……怖かった。マジで怖かった」


「でも、守ったじゃない」


ケアラがツナマヨおにぎりを差し出した。


「あなたの『傷痕』が、今日は世界を救ったのよ」


亀之助はおにぎりを受け取り、一口齧った。


塩味が染みた。


「……社長」


亀之助は振り返った。


「ダニエルさんのように、カッコよくは戦えませんでした。……必死すぎて、無様でした」


猪熊は微笑んだ。


「いいえ。……君は今日、確かに彼と『繋がって』いましたよ」


社長室の写真の中で、ダニエル・レヴィンが笑っている気がした。


飛行機の9B席で彼が守ろうとした未来は、今、亀之助たちの手によって、確かに受け継がれている。


だが、APT-Dragonはまだ諦めていない。


BGPハイジャックという「禁じ手」を使ってきたということは、なりふり構わぬ最終決戦が近い証拠だ。


「……行くぞ、みんな」


亀之助は立ち上がった。


「次の攻撃が来る。……俺たちの世界は、俺たちで守るんだ」


(第7話 完)


亀之助の技術日誌(Technology Log)


【今回の使用ウェポン:BGP Route Hijacking Defense】


* これはなに?(敵の攻撃)


* 「BGPハイジャック」。


* インターネットは、BGPというルールで「このIPアドレスはこっちの道ですよ」と教え合って繋がっています。


* 悪者が「Googleへの道はこっちだよ(実は嘘)」と世界中に嘘を叫ぶと、世界中の通信が騙されて悪者のサーバーに向かってしまいます。


* 今回、APT-Dragonは日本の重要インフラへの道を盗もうとしました。


* どうやって守った?


* 嘘の看板よりも大きな声で、より詳細な「正しい道順」を世界中に叫び返す(経路広告の具体化・優先度上げ)ことで、通信を無理やり引き戻しました。


* 一歩間違えると通信がループしてネットが止まる、諸刃の剣です。


* 亀之助のボヤキ


* 「ルーティング……俺の古傷だ。


* 『たかがゲーム』なんてない。どんなパケットの向こうにも、画面を見ている人間がいる。


* あの日の弟との約束を守れなかった俺が、今日は日本の電気を守った。……少しは、借りを返せたかな」


【 導入あり vs なし 比較】


防御なし(通信乗っ取り)


* 結果:


* ユーザーが正規のサイトにアクセスしているつもりでも、裏で通信が中国(APT-Dragon)を経由させられる。


* メールの中身、パスワード、電力制御信号などがすべて盗聴・改ざんされる。


* しかも、画面上は「繋がっている」ので、被害に気づかない。


防御あり(経路奪還)


* 結果:


* アイギスが「正しい経路」を強制的に広報し、汚染されたルートを上書き。


* 通信は正規のルートに戻り、盗聴を防ぐことができる。


ケアラの占い部屋(Security Fortune)


【今回のキーワード:ダニエル・レヴィンと9.11】


* ケアラの解説


* 「インターネットの歴史には、決して忘れてはいけない名前があるわ。


* ダニエル・レヴィン(Daniel Lewin)。Akamaiの共同創業者。


* 彼は2001年9月11日、テロリストに立ち向かった最初の英雄であり、最初の犠牲者になった。


* 皮肉なことに、彼が命を落としたその日、世界中の人々がニュースを求めてネットに殺到したけど、ネットは落ちなかった。彼が作った『Akamai』が支えていたからよ。


* 私たちが今、当たり前のように動画を見たり、チャットできたりするのは、彼が遺した技術のおかげなの。


* ……Rest in Peace, Danny. 私たちはまだ、戦ってるわ」


* 用語集(Termpedia)


* BGP(Border Gateway Protocol): インターネット上の住所案内システム。性善説で作られているため、嘘をつかれると弱い。


* MMORPG: 大規模多人数オンラインRPG。サーバーが落ちると、そこにある「社会」や「人間関係」も一時的に消滅する。亀之助のトラウマ。




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