Case 03:選別される正義(The Choice)
第1部:プルトニウムを持ち込んだ男
1
アイギス・ジャパン、大会議室。
空調の音すら聞こえないほどの重苦しい沈黙が、部屋を支配していた。
「……正気ですか、守凪さん」
冷ややかな声が空気を切り裂いた。
声の主は、法務部の湊。
細身のスーツに身を包み、縁なしの眼鏡の奥から絶対零度の視線を放つ、アイギスの「法の盾」。
彼女の視線の先には、縮こまった営業の守凪と、彼が連れてきた一人の男がいた。
男の名は、御手洗。フリーランスのジャーナリストだ。
無精髭に疲れた顔。だが、その目は異様な光を放っている。
「正気ですよ、湊さん!」
守凪が食い下がる。額には脂汗が滲んでいる。
「御手洗さんは、あの『DarkLedger』の資金源と、背後にいる国家組織の関与を暴く記事を書こうとしているんです! 昨日の病院への攻撃も、彼がスクープする直前の脅しだった!」
「だから、アイギスに守れと?」
湊は手元のタブレットを指先で弾いた。
「彼のブログには今、断続的に超大規模なDDoS攻撃が来ています。これは災害レベルです。彼と契約するということは、この災害を自社ネットワークに引き入れるということです」
湊は冷徹に告げた。
「彼は顧客ではありません。『燃えているプルトニウム』です。持ち込めば、既存の優良顧客――銀行や官公庁の通信まで巻き添え(Collateral Damage)になります」
「でも、ここを追い出されたら彼は発信手段を失う! 社会的な死だ!」
「それがビジネスです。アイギスは慈善事業団体ではありません」
議論は平行線だった。
部屋の隅で、亀之助は胃のあたりを押さえていた。
技術的には、湊の言うことが正しい。昨日の比ではない規模だ。アイギスの巨大な帯域をもってしても、無傷では済まない。
だが、守凪の「熱」も痛いほど分かる。ここで逃げれば、昨日の病院での戦いも無意味になる。
「……騒がしいですね」
その時、会議室のドアが音もなく開いた。
瞬間、室内の温度がさらに数度下がった気がした。
現れたのは、仕立ての良いピンストライプのダークブラックのスーツを着こなした初老の男。
アイギス・ジャパン代表取締役社長、猪熊。
穏やかな紳士に見える。だが、社員たちは彼を密かに「ヒグマ」と呼んで恐れていた。
彼は決して怒鳴らない。怒りが頂点に達すると、声が小さくなり、目が死ぬからだ。
「しゃ、社長……」
守凪が直立不動になる。
猪熊はゆっくりと席に着き、御手洗と守凪、そして湊を交互に見た。
「状況は聞いています。……玳くん」
不意に指名され、亀之助は弾かれたように顔を上げた。
「は、はい」
「技術的な話を聞きたい。この規模の攻撃、アイギスの『Prolexic』で止められますか?」
亀之助はゴクリと唾を飲んだ。
ここで「無理です」と言えば、この話は終わる。守凪は絶望し、御手洗の記事は闇に葬られる。
だが、「できます」と言えば、全顧客を危険に晒すことになる。
「……止められます」
亀之助は言葉を絞り出した。
「スクラビングセンター(洗浄施設)の全容量を使えば、吸収可能です。……ただし、ギリギリです。もし攻撃容量が想定を上回れば、他の顧客への遅延は避けられません」
猪熊は表情を変えず、静かに頷いた。
「そうですか。……守凪くん、湊くん」
「は、はい!」
「すぐに書類を作りなさい。正式な契約書ではありません。『緊急支援覚書』です」
猪熊の目が、底なしの暗闇のように静まり返った。
「SLA(品質保証)は免責。そして特約条項として、『我々の防衛ラインを超え、他の顧客に実害が出ると判断した瞬間、即座にサービスを停止(Null Route)する』。……その条件でなら、引き受けましょう」
第2部:620Gbpsの津波
3
覚書の締結から3時間後。
御手洗が自身のブログで「DarkLedgerの黒幕」に関する告発記事を公開した瞬間、それは始まった。
『……来たわ!』
ハワイからのビデオ通話。ケアラの声が上擦っている。
『観測史上最大級。Mirai系統と思われるIoTボットネットの大群よ! トラフィック、一気に600Gbps突破! まだ上がる!』
SOC(監視センター)のモニターが、真っ赤に染まる。
グラフの線が天井を突き破りそうな勢いで上昇していく。
「Prolexic、稼働! 東京、大阪、香港、シンガポールの全センターでトラフィックを引き込みます!」
亀之助が叫ぶ。
これは「通信」ではない。「津波」だ。
世界中から御手洗のブログに向けられた殺意のパケットが、物理的なケーブルを焼き切らんばかりに押し寄せる。
「……洗浄率99%! ですが、漏れた1%だけでWebサーバーが落ちそうです!」
「帯域、一杯です! これ以上は、同じデータセンターにいるJ-STRMや帝都銀行の回線に影響が出ます!」
背後では、猪熊が腕を組んでモニターを見つめている。その横顔は石像のように動かない。
湊がタブレットを見ながら、冷静に条項違反のラインを監視している。
『ダメ、まだ上がる! ……610……620Gbps突破!』
ケアラの悲鳴のような警告が響いた。
『ダメよ、これ以上は! アイギスのバックボーン自体が揺らぐ。……私たちが倒れたら、日本中のネットが止まるわ!』
「社長。他社回線のレイテンシ(遅延)、許容値を超えました」
湊が冷徹に告げる。
「覚書の停止条件に抵触。……判断を」
「ま、待ってください!」
守凪が叫ぶ。
「あと少し! あと少しで記事の拡散が終わります! 今切ったら、世界は真実を知らないままになる!」
「守凪さん」
湊が静かに返す。
「これ以上粘れば、数千社の契約違反になり、インフラ企業としての信用が死にます。……感情で会社を潰す気ですか」
「くっ……!」
守凪は唇を噛み切り、亀之助を見た。
亀之助はキーボードを叩き続けている。指が攣りそうだ。
分かっている。エンジニアとして、これ以上のリスクは取れない。
ここで御手洗を切る(Null Routeに入れる)のが、正しい判断だ。
だが、それは「敗北」だ。悪意の暴力に、技術が屈するということだ。
「……社長」
亀之助は振り返らずに言った。
「ご決断を」
猪熊はゆっくりと目を開いた。
その目は、野生のヒグマのように鋭く、しかし悲しい色をしていた。
「……切れ(Drop him)」
静かな、しかし絶対的な命令だった。
「ッ……!」
亀之助はEnterキーを叩いた。
瞬間、モニターのグラフが垂直に落下した。
攻撃が止んだのではない。
アイギスが御手洗のサイトへの通信経路を「虚無(Null)」に繋ぎ変えたのだ。
世界中のどこからも、彼の告発記事にはアクセスできなくなった。
その代わり、アイギスのネットワークには平穏が戻った。
第3部:敗北の先
4
静まり返ったオフィス。
御手洗は無言で荷物をまとめていた。
「……すまなかったな。あんたたちも、限界までやってくれた」
その背中は小さく見えた。
守凪はデスクに突っ伏して泣いていた。
「……すいません。僕が、無茶を言ったせいで……」
亀之助は白湯を飲み干した。苦い。今までで一番苦い白湯だった。
結局、俺たちは守れなかった。
「数」の暴力と、「ビジネス」の論理の前に、個人の正義は切り捨てられた。
その時、社長室のドアが開いた。
猪熊が出てきて、御手洗の前で立ち止まった。
「御手洗さん」
猪熊は一枚のメモを差し出した。
「Googleが提供している『Project Shield』というサービスがあります。報道の自由を守るための、無償のDDoS防御プログラムです。……私の古い友人が担当している」
御手洗が顔を上げる。
「先ほど、彼に連絡を入れておきました。アイギスでは守りきれませんでしたが、彼らのインフラなら、あるいは耐えられるかもしれない」
「社長……」
守凪が涙目で顔を上げる。
猪熊はいつもの穏やかな紳士の顔に戻っていた。
「勘違いしないでください。私はただ、これ以上私のオフィスで泣き喚く営業マンを見たくないだけです」
そして、亀之助の方を向いた。
「玳くん。今回の敗因は?」
「……『容量』です」
亀之助は悔しさを噛み殺して答えた。
「技術的には負けていませんでした。ですが、圧倒的な物量を前に、リソースが尽きました」
「ならば、次は勝てるようにしなさい」
猪熊は短く言い捨て、出口へと向かった。
「我々は『エッジ』だ。崖っぷちに立つ者だ。落ちることもあれば、風に乗ることもある。……今日は落ちただけのことです」
5
夜。地下のラボには、亀之助と十凍、そして画面越しのケアラが集まっていた。
『……悔しいわね』
ケアラがポツリと言う。
『あんな攻撃、9.11の日にダニー(創業者)が夢見たインターネットじゃないわ』
「ああ。だが、収穫はあった」
十凍が暗闇の中でモニターを指差す。
「620Gbpsの攻撃。その指揮を執っていたC2サーバーの痕跡を辿れた」
画面には、複雑な解析結果が表示されている。
「特定エリア……南方の島嶼部にぶら下がる軍系ネットワークのAS(自律システム)だ」
十凍の声が低くなる。
「使われている暗号鍵の特徴、攻撃コマンドの文法、そして稼働時間帯。……間違いない。既知のAPT(高度持続的脅威)グループ、『APT-Dragon』の匂いだ」
亀之助は息を飲んだ。
K1D_Z(高校生)をおもちゃにし、DarkLedger(犯罪組織)を雇い、御手洗を黙らせようとした存在。
それは、国家規模の意思を持つ怪物だった。
「……相手にとって不足なし、だな」
亀之助は眼鏡を拭き、再びかけ直した。
今日の敗北は、終わりではない。
敵の姿は見えた。次は、必ず守り抜く。
アイギスの盾に、新しい傷跡が刻まれた夜だった。
(第3話 完)
亀之助の技術日誌(Technology Log)
【今回の使用ウェポン:Prolexic (プロレキシック)】
これはなに?
「超巨大な掃除機」です。
* Webサイトへの通信を、一度アイギスが持つ世界各地の「スクラビングセンター(洗浄施設)」に引き込みます。
* そこで「攻撃パケット(ゴミ)」だけをフィルターで濾過し、「正常な通信(水)」だけを顧客のサーバーに届けます。
* どんなに汚れた大量の水(攻撃)が来ても、顧客には綺麗な水しか届かない仕組みです。
* 亀之助のボヤキ
* 「『Null Route』……エンジニアとして一番打ちたくないコマンドだ。これを打つと、そのIPアドレスへの通信はすべて『虚無(Null)』に捨てられる。つまり、サイトは世界から消滅する。
* 攻撃を止めるための最終手段だが、それは『守るべき対象を自ら殺す』ことと同じだ。……二度と打ちたくないな」
【 導入あり vs なし 比較】
Prolexic 導入なし(即死)
* 攻撃着弾:
* 620Gbpsの通信が回線に直撃。サーバーどころか、その上流にあるISPのルーターまで帯域が飽和。
* 地域一帯のネットが遅延したり、繋がらなくなったりする広域障害に発展する。
* 結末:
* サイトは復旧不可能。物理的な機器交換が必要になるレベル。
Prolexic 導入あり(生存…だが)
* 攻撃着弾:
* BGP経路変更により、攻撃をアイギスのセンターで吸収。顧客のサーバー自体には負荷がかからず、無傷で生き残る。
* 結末(今回のケース):
* 攻撃規模がアイギスの想定(および契約範囲)を超えたため、「他の顧客を守るために」あえて切り捨てた。技術的敗北ではなく、リソースの限界による戦略的撤退。
ケアラの占い部屋(Security Fortune)
【今回のキーワード:MiraiとIoTボットネット】
* ケアラの解説
* 「『Mirai』……日本語の『未来』から名付けられた、皮肉なウイルスよ。
* パソコンやスマホじゃなくて、『監視カメラ』『レコーダー』『ルーター』みたいなIoT機器に感染するの。
* 一つ一つのパワーは豆粒みたいに小さいけど、世界中の100万台が集まれば、ネットの基盤すら破壊できる『核兵器』になる。
* 今回の攻撃も、このMiraiの遺伝子を継いだ亜種(派生形)たちが、一斉に叫び声を上げたものね」
* 用語集(Termpedia)
* DDoS(Distributed Denial of Service): 分散型サービス拒否攻撃。大量のアクセスを送ってサーバーをパンクさせる嫌がらせ。
* Null Route: 「ブラックホール・ルーティング」とも言う。特定の通信をどこにも届けずに破棄する設定。
* Collateral Damage: 巻き添え被害。一つのサイトへの攻撃が大きすぎて、同じ回線を使っている無関係な銀行や病院まで遅くなったり落ちたりすること。湊が一番恐れていたのはこれ。




