エピローグ
5月の太陽――どこまでも青い空を、わたしは満喫していた。高台の公園。見晴らしのよいベンチに腰をおろし、生まれ育った街をながめる。地方都市で、そんなに見栄えはしない。ワンピースの白い裾が、風に揺られてかたちを変えた。
今でもときどき、あの砂漠の夢をみる。太陽の支配を拒んだ国、カマル。
砂の歌姫が、だれのためにでもなく歌う国。その声を、わたしは春風の向こうに聴く。
「ヒナ、待たせたな」
ふりかえると、褐色肌の青年が立っていた。
工事現場のつなぎ服を着ていた。
「ユーリ、女の子を待たせるのは失礼なのよ、すくなくとも、この国では」
「悪い。急な仕事が入った」
ユーリはわたしのとなりに腰をおろした。
「どう、こっちには慣れた?」
「それなりに、な」
わたしたちはもとの世界にもどれた――そう、わたしだけじゃなく、ユーリもこの世界に飛ばされてしまった。そのあとは、半年ほどいろいろあった。わたしは大学へ進学し、ユーリは移民労働者として工事現場で働いている。なんだか違法のような気もするけど、どこからどうやってツテを得たのか、わたしには教えてくれなかった。
「もとの世界に帰る方法、見つかりそう?」
「ムリだな。この世界には魔法がない」
「向こうでもユーリを捜していると思うわ。いつかは助けが来るわよ」
ユーリは答えなかった。半年という残酷な時間が生み出した、彼なりの答え。ユーリを簡単に再召喚できるなら、マリクがとっくにやっているだろう。
「ねぇ……この世界も、そんなに悪くはないと思うの。もちろん、ゼナさんのことが気になるのはわかるわ。残された時間はすくないから……」
「それはいいんだ」
意外な答え。
ゼナの最期に立ち会うため、帰還の方法を考えているのだと思っていた。
ユーリは目を閉じて、静かに語った。
「ゼナは盛大に臨終を看取られる。家臣たちも大勢集まるだろう。そのとき、ゼナに寄り添うことができるのは、夫のマリクだけだ。俺は、傍観者の役割を演じられるほど、強い男じゃない」
「あなた……やっぱりゼナのことを愛……」
「いずれにせよ、ゼナはマリクを愛していたし、マリクはゼナを愛していた。性格も生き方も、あのふたりはお似合いだった。ゼナの最期を看取るのは、マリクでいい。俺がどっちの世界にいるかなんて、たいした問題じゃない。それに……」
ユーリは言葉を切った。
「それに?」
「市場を回ってるときに言っただろ。旅に出たいって。ゼナが亡くなったら、俺はカマルを出るつもりだった。政治的にも居づらいしな。この世界も旅をするには悪くない」
ユーリは立ち上がって、展望台の柵まで歩いた。ポケットに手を入れて風に吹かれる。
自由になった鳥のように、その背中は風景に映えた。
ユーリはわたしの視線を感じたのか、くるりと周り、欄干に両手をついた。
「ただひとつ、ヒナはウソをついた」
「ウソ?」
「この世界の人間は、みんなお姫様みたいな生活をしてるってウソだ」
わたしはベンチから立ち上がる。ひとさしゆびでユーリをおどしつけた。
「あなたね、カゼ薬を飲んで1日で治ったから、びっくりしてたじゃないの」
「ゼナなら召使いが10人がかりで看病するぞ。ヒナはアパートでひとりだったな」
「ひどいッ!」
わたしはユーリを追いかけた。ユーリはからかうように、欄干のうえにのぼる。まるでサーカスのように、わたしをハラハラさせる。わたしがちょっかいをかけると、ユーリは欄干から飛び降りて、すこしばかり先へと駆けた。
もしこの時間が永遠に続いたら――そうだ。これは祈りだ。叶わない祈り。どんな世界でも、わたしたちはいつか地上を去る。ゼナのように、ファーラビーのように。だれもが同じだ。
伝道者は語る。空の空、一切は空である。でも、空の色にはちがいがある。永遠の闇を讃えながら、地平線に光を灯すカマルの空。永遠の明るさを誇りながら、地平線に暗さを抱くシャムスの空。どちらがいいというわけじゃない。空しさにも彩りがある。それだけのことだ。
わたしはユーリに追いすがり、そでを引いた。
「ねぇ、今でも祈ることがある? 深夜、ひとりで?」
とつぜんの問いかけに、ユーリはとまどう。そして、ひたむきなまなざしを返した。
「……あるさ」
「あなた、牢獄のなかで言ったわよね。祈りは決して叶わない、って」
「ああ」
「それでも祈るの? なんのために?」
「……」
ユーリは沈黙した。答えなどない。
なぜなら、答えのないときにこそ、ひとは祈るから。
「ユーリ、わたしといっしょに祈って」
「なにを?」
「あなたはあなたの、わたしはわたしの祈りたいことを」
わたしたちは目を閉じた。すべての音が消える。あの砂漠のように。
わたしは祈る。どうかゼナが助かりますように、そして、もし助からないのなら、その最期のとき、マリクの心を傷つけないかたちで、ユーリの名前を呼んでくれますように。




