第13話 ファーラビーとの問答
この音色は……トキュラ?
どれくらいの時間が経ったのだろう。寝入ってしまったようだ。
夢かもしれないと思い、もういちど耳を澄ます――たしかに聞こえる。
すこしばかり悲しげな音色が、夜を讃えるように流れていた。
こんな夜中に? どこから?
窓を開け、目を閉じてみる。天文台の方向だとわかった。
私はベッドに枕を放り込んで、ふくらみを作った。靴を履き、窓から身をのりだす。昼間に見たようすだと、かなりの高さだ。落ちたら死んでしまうかもしれない。すくなくとも、ただではすまないだろう。
なるべく考えないように、壁の出っ張りに足をかけた。マリクができたんだから、わたしだってできる。そう、できる……両足がついた。外壁に、つかまるところがないか確認した。これもあった。あたりまえだ。ゼナ王女の秘密の裏道。ひとがうまく移動できるようになっているに決まっている。
私は足を踏み外さないように一歩一歩、慎重に進んだ。
笛の音はまだ聞こえている。
「……?」
右足を次のステップにかけようとして、空を切った。
あわてて引っ込める。もういちど……ない。
(ここで行き止まり?)
落ち着け、陽凪。道はある。昼間まであったのに、夜になって消えているはずがない。私は深呼吸して、右足を暗闇のなかに伸ばした……あったッ! これまでよりも、すこし斜め上の位置だった。ここからは登り道。
私はゆっくりと、足を進めた。予想通り、だんだんと高くなっていく。
「……ッ!」
右手が屋上の欄干にかかった。私は力を入れて、体を持ち上げた。
風が吹く。突風に巻き込まれないように、素早く欄干を乗り越えた。
満天の夜空。ここは……天文台だ。ファーラビーと話をしたところだ。
笛の音は今や高く、はっきりと近くに感じられた。
だけど……私は青ざめた。
(ウソ……これって反対側の建物じゃない……)
反響で錯覚した。奏者は、向こう側にいる。
断崖をのぞき込む。闇が口を開けていた。
高さは? 幅は? ……分からない。
分かったところで、おそらく移動手段はない。飛び越えるなんてムリだ。
下に降りる? ……さすがに目立ちすぎだ。廊下や階段で、だれかに出くわすかもしれない。すくなくとも、それぞれの建物の入り口には、衛兵がいるはずだ。
私は目を凝らした。音のする方向へ。
(なんて美しい音色なの……)
ケタ外れというわけじゃない。その奏法には、どこか不器用なところもあった。でも、それを補ってあまりある感情表現の豊かさがあった。それは、わたしが中学生のときから望んでいて、そして、最後には矯正されてしまった譜面とリアルとのへだたり、吹き手を聞き手に優位させる自分本位の音色だった。
「……?」
ちらりとなにかが光った。私は目を細める。
「どなたかな」
私は、あわててふりかえった。小柄な老人が、わたしを値踏みするように立っていた。
「……ファーラビー」
「これはこれはゼナさま……いや、ヒナさま、なにかご用で?」
私は胸をなでおろすとともに、警戒心が芽生えた。
ファーラビーは、このトキュラの音色を不思議に思わないのだろうか。だって――
「ねぇ、これはだれが吹いているの?」
「これ、とは?」
「とぼけないで。このトキュラが聴こえないの?」
「聴こえておりますとも。しかし、こう暗くては分かりようがありません」
私は一歩引いた。反論が思いつかなかったからだ。
なぜファーラビーが奏者を知っていると早合点したのだろう、私は。
ファーラビーは私の横をすり抜け、石造りの欄干へ歩み寄った。背中に手を回し、静かに曲を味わっていた。私もしばらく、そうしていたいほどだった。それほどまでに――
「美しいですな」
「えぇ……とても……ただ……」
「ただ?」
「……いえ、なんでもないわ」
「ヒナさまのご評価を、聞かせていただけますかな」
「ほんとになんでもないのよ、ごめんなさい」
ただ、ちょっと感情がこもりすぎている。くだらない感想だった。
中学生の頃、吹奏楽部の顧問に言われたセリフだった。あのときは反発したけど、今になってみると半分くらいは感謝していた。だって、コンクールでの評価があがったのは、まちがいのない事実だったから。
それとも、わたしはお利口さんになってしまったのかしら。自分というものを音に乗せてしまうのが、恥ずかしくなったのかもしれない。
だけど、その羞恥心を打ち消してあまりあるほど、トキュラの音は美しかった。カマルの夜空をあらわす曲なのかもしれないと、そう思ったほどだ。
「ねぇ、ファーラビー、どうしてカマルの空はずっと夜のままなの?」
「カマルに生まれた子どもは、幼いときに1度はその質問をするそうですな」
「からかってるの?」
「いえいえ、とんでもございません。素朴な問いは、時として深い真理を突くことがございます。昔、世界には1つの大陸しかなく、そこにはアラードとサーマという王国があったそうです。両国は戦争ばかりしておりましたので、神々の怒りに触れ、地上から消されてしまいました。そのとき、神々が大陸を引き裂くために用いた炎は、カマルとシャムスにあたる半島の真上から、昼と夜とを分けるように降り注いだと言います。その名残が、カマルの永遠の夜とシャムスの永遠の朝なのです」
わたしは、この世界の地理を初めて知った。どうやら、この世界にはすくなくとも2つの大陸があり、カマルとシャムスはそのあいだをつなぐ半島に位置しているようだ。昼と夜とがこれほどまでに隔てられている地域は、この半島だけらしい。ひとびとがさっきの伝説で自分たちを納得させようとしたのも、なんら不思議ではなかった。
「ふぅん、こっちの世界にも神話があるのね」
「ヒナさまがいらっしゃった世界では、カマルよりも文明が進んでおられるとか。そのような世界にも、神々はお住まいですか?」
「神さまを信じてる人は、そう言うでしょうね」
「すこし話をしてくださらんか、その世界とやらの」
わたしは肩をすくめた。だれかと話をしたかったのか、すらすらと言葉が出た。
まず、機械というものがあること。電気の概念。発電所。パソコン。ちょっと話が飛びすぎたと思ったから、自動車、飛行機、それに船。テレビ、スマートフォン、1枚でいろんな買い物ができる板。ようするにプリペイドカードね。それから――
わたしがあれこれ説明していると、ファーラビーはタメ息をついた。
「すばらしい……じつにすばらしい……」
「べんりよね。でも、魔法はないのよ」
「魔法というものは、魔力があるものにしか使えない不便なものです。お話をうかがう限り、あなたさまの世界にはだれにでも平等に使える技術がある。うらやましいことです」
わたしは妙に思った。ほかの従者ならともかく、ファーラビーの口からこんな言葉が出てくるとは予期していなかったからだ。
「あなたは、ただのおじいちゃんになっちゃうのよ? それでもいいの?」
ファーラビーは笑った。
「なにがおかしいの?」
「わたくしめの身を案じていただきまして、光栄です……しかし、わたくしがたとえ魔法を使えなくとも、あなたさまの世界の技術を使えば、今よりも裕福な暮らしができるのでしょう。だとすれば、なにを戸惑うことがあるのですか」
わたしは言葉につまった。と同時に、どこか詭弁だとも思った。
「そうね、この世界の王族よりもわたしの世界に生まれたほうが、性に合ってるひともいるかもしれないわね、だれかさんみたいに」
「はて、どなたのことですかな?」
「マリクよ。わかってるくせに訊き返すのね」
「それが、ヒナさまからみたマリク殿下のお姿なのですね」
わたしはきょとんとした。そんな言い回しをする必要はない、と思ったからだ。
「じゃあ、あなたはマリクのことを、どう評価してるの?」
「そもそも、ひとという得体のしれないものを評価できるのでしょうか?」
「……食えないじいさんね」
ファーラビーは慇懃に一礼した。
トキュラの音は、いつのまにかやんでいた。
「今宵の議論、わたくしの負けといたしましょう。おやすみなさいませ、ゼナさま」
○
。
.
《あなたの吹き方は……》
《陽凪さん……もっと譜面をよく見て……》
《陽凪さん、あなたは次回の……》
「ゼナさまッ! ゼナさまッ!」
わたしは跳ね起きた。息が苦しい。ひたいの汗をぬぐう。
ドアを激しくたたく音も、しばらくは気にならないほどに動悸がした。
「ゼナさまッ! いらっしゃらないのですかッ!?」
わたしはベッドから降りて、水差しからひとくち飲んだ。
口もとをぬぐい、ドアを開ける。
従者の少女、シスマが血相を変えて飛び込んできた。
「ハァ……ハァ……ゼナさま、落ち着いてお聞きくださいッ!」
「シスマ、まずあなたが落ち着いて……どうしたの?」
「ファーラビーさまがお亡くなりになられましたッ!」
サーッと血の気が引いた。動揺が心のうちに広がる。
「そ、そんなはずないでしょう。昨晩会ったばかりよ」
「とにかく、部屋から出られぬようお願いいたします」
シスマはそれだけ言って背を向けた。
視界から消えたかと思えば、ふたたび戻ってきて一礼し、また消えた。
わたしには、その仕草を笑う気力がなかった。
(ファーラビーが死んだ……? ウソでしょ?)
昨日のできごとは、夢だったのだろうか。
冷静さをとりもどすため、わたしはもういちど、差し水に口をつけた。
窓枠を確かめる。昨日の夜、戻ったときに鍵を閉めなかった覚えがあった。
「……かかってないわね。ってことは、あれは夢じゃなくて……現実?」
「ヒナ」
知らぬ間に、ユーリがドアのそばに立っていた。
「ノックぐらいしなさいよ」
「ファーラビーが死んだ」
わたしはベッドに腰を落とした。全身の力が抜けたのだ。
「……ほんとうだったの?」
「だれから聞いた?」
「シスマよ」
「あいつか……まあいい。ところで、窓辺でなにをしていた?」
わたしは返事をしなかった。ショックの連続で、うまく言いわけができなかったのだ。
ユーリはさすがに勘がよくて、眉をひそめた。
「あの外壁の小道を使ったのか?」
「トキュラの曲が気になって……」
「だれかに会ったんじゃないだろうな?」
ユーリの言葉は、どこか不安げな調子をはらんでいた。
(もしかして、ファーラビーは殺されたんじゃ……?)
ユーリはわたしを疑っている。そんな思いが、言葉をついて出てしまった。
「わたしは犯人じゃないわ」
「いや、そんなことは訊いていないんだが……もしかしてファーラビーと会ったのか?」
「殺人事件なのね? わたしが屋上へ出たとき、たしかに彼は生きてた。ほんとよ」
「ユリディーズさまッ! ユリディーズさまッ!」
廊下からシスマの声が聞こえた。ユーリはわたしから、臣下の距離をとった。
シスマがとびらから顔をのぞかせる。
「ゼナさま、ユリディーズさまをお見かけ……あ、こちらにいらっしゃいましたか」
「どうした? 今は王女と取り込み中だ」
「陛下がお呼びです。至急、玉座の間へ、とのお達しでございました」
「……分かった。すぐ行く。おまえは、王女にとりあえず朝食を」
「承知いたしました」
シスマが姿を消す――ユーリはわたしのそばへ歩み寄り、耳もとでささやいた。
「万が一のときは、俺がなんとかする……絶対に俺を助けるな」
わたしは腰に手をあてていきどおる。
「助けるな? わたしがあなたを助けることがあると思ってるの? うぬぼれないで」
「うぬぼれてなんかいない。ただ、どんな状況でも手出しはするな、という意味だ」
意味がわからない――わたしはその言葉を呑みこみ、タメ息で代用した。




