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今の俺の生活 ➁

「はぁ〜っ……やっと終わったぁぁ!」


 咲桜子先輩は両腕をぐっと上に伸ばし、レジに何時間も立ち続けた筋肉をほぐした。

 コンビニの制服を脱ぐと、おしゃれな私服姿があらわになる。今日の彼女は薄手のカーディガンにロングスカートという、とても女性らしい格好だった。


「今日もお疲れ様でした、咲桜子先輩」


「うん! 伊織くんもお疲れ様」


 咲桜子先輩は、スタッフルームの手洗い場にある小さな鏡の前で、ピンク色の髪を軽く整えている。


「先輩、このまま直帰ですか? それとも夜の講義?」


 俺はシフト交代のためにレジの釣り銭を数えながら尋ねた。


「今日はまっすぐ帰るよ。鬼教授のレポート課題を急いで終わらせなきゃいけなくてさ。あ、課題といえば……」


 ふいに咲桜子先輩は手を止め、俺の方を振り向いた。その顔には、俺の見慣れた悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。急に嫌な予感がした。


「先輩? なんでそんな風に笑ってるんですか?」


「ふふふ、別に何でもないよ。ただね……」


 咲桜子先輩が近づいてきたかと思うと、前触れもなく両手を伸ばし、俺の両頬をむにゅっと抓ってきた。


「い、いっ! せ、先輩! やめてください、痛いです!」


「伊織くんってさ、近くで見るとすっごく肌綺麗だよね! 男の子なのにさ。一体どんなスキンケアしてるの? 先輩にも教えてよ!」


「な、何も使ってないですって! 離してください、頬が伸びちゃいます!」


「あはは! だって反応が面白すぎるんだもん。伊織くんはやっぱり、ここでの私のお気に入りのおもちゃだね〜」


 咲桜子先輩はようやく手を離してくれた。両頬には熱と赤みが残っている。俺は不満げな視線を向けながら、さすることしかできなかった。


「おもちゃじゃないです、先輩。俺は同僚ですよ」


「はいはい、ごめんね。だいたい、私みたいな美少女に抓ってもらえたんだから感謝すべきだよ?」


「自信過剰ですね」


「当然!」


 咲桜子先輩はわざとらしくウィンクをして、ショルダーバッグを肩にかけた。


「さてと、私はもう帰るね。伊織くん、夜勤頑張って! ずっとぼーっとしちゃダメだよ?」


「気をつけて帰ってくださいね、先輩」


 咲桜子先輩は笑いながら手を振り、コンビニを出て行った。自動ドアのセンサー音が鳴り、彼女の退店を知らせる。

 今はもう、俺と、低く唸る冷蔵ケースのコンプレッサーの音だけが残されている。店長の慎司さんは、まだバックルームでぐっすりと眠っているらしい。

 時間がゆっくりと進む。数時間が経過した。


 街灯に明かりが灯り始め、車通りの途絶えたアスファルトを照らしている。客が入ってくるたびにガラス扉をすり抜ける夜の海風が、いつもより冷たく感じられた。

 時計の針が夜の九時を指した。

 ここからが重要な時間帯だ。俺の心臓の鼓動が、普段より少しだけ早くなる時間。手はレジカウンターを拭きながらも、目は絶えず入り口のドアをチラチラと追ってしまう。


 今夜も、彼女は来るだろうか?

 そう頭をよぎったちょうどその時、自動ドアのセンサー音が甲高く鳴り響いた。


「いらっしゃいませ」


 軽く頭を下げ、顔を上げた瞬間、ほんの一瞬だけ呼吸が止まった。

 その女性はゆったりとした足取りで店に入ってきた。金色の髪は下ろしたままで、海風に吹かれたのか少し乱れている。

 今夜はいつもと少し違う装いだったが、彼女特有のギャルっぽいスタイルは健在だった。細いフレームの眼鏡をかけていて、それが少し知的な印象を与えているが、その過激すぎる服装とはあまりにも対照的だ。


 上半身はタイトな白のクロップトップで、その並外れた胸の大きさをくっきりと強調し、生地が引っ張られているのが分かるほどだった。

 それに加えて、滑らかで長い脚を惜しげもなく晒すデニムのショートパンツ。今夜の彼女の姿は、二十歳の男の理性を試す過酷な試練でしかなかった。

 俺は慌てて視線を逸らし、レジ袋の束を整理するふりをして忙しそうに振る舞った。


 随分前から、俺はこの女性に想いを寄せている。いつからだろうか、毎晩ここへ来る彼女の姿を見ることが、俺の待ち遠しい日課になっていた。

 彼女は雑誌コーナーにもスナック菓子の棚にも目もくれず、店の奥の角へまっすぐ歩いていく。アルコール飲料が並ぶ冷蔵ケースへ。俺は横目でその様子を追った。

 いつものようにガラス扉を開け、アルコール度数九パーセントのレモン味の缶チューハイを手に取る。一本や二本ではない。四本まとめてだ!


 目当てのものを手にすると、彼女はくるりと振り返り、レジへと向かってくる。

 彼女が俺の目の前に立った時、甘い香水と、微かに混じるアルコールの匂いが漂ってきた。


「ちーっす、こんばんは、コンビニくん〜」


 彼女は四本の缶チューハイをレジ台にコトンと置くと、カウンターの上で片手で頬杖をつき、眼鏡の奥から俺を見つめてきた。


「こ、こんばんは」


 俺は少し緊張しながらも、目の前に無防備に晒されている白いクロップトップには視線を落とさず、彼女の顔だけを見るように必死に努めた。


「お会計はこちらだけでよろしいですか?」


「うん。これだけ」


 俺は缶のバーコードを一つずつ通し始めた。

 ピッ。ピッ。

 レジのモニターに、年齢確認の画面が表示される。当然、彼女が成人していることは知っている。何なら、名前すら知っている。


 ななか。


 その名前を知ったのは数ヶ月前のことだ。うちの店のシステムが改修され、酒類の購入に身分証明書のスキャンが義務付けられた時期があった。彼女の姿によく似合う、とても綺麗な名前だ。俺のことはいつも変な呼び方をしてくるけれど。


「画面の年齢確認ボタンのタッチをお願いします」


 七花は、光沢のあるマニキュアが塗られた細い指を伸ばし、面倒くさそうにモニターをタッチした。


「コンビニくんってば、相変わらずお堅いよねー。もう私の顔覚えてるくせにさ。成人してるのなんて分かってるでしょ?」


「お店のマニュアルなので。俺は仕事をしているだけです」


「へぇ〜、マニュアルねぇ……」


「たまに朝のシフトの時に行くと、あの酔っ払いのヤバい店長はこんな画面押させないんだけどね」


「慎司店長と一緒にしないでください。あの人はちょっと……色々と緩いんです」


「緩いっていうか、ただの怠け者じゃん!」


 七花はくすくすと笑った。その笑い声は、酒をよく飲む人特有の、少しハスキーな響きを持っていた。


「おいくら?」


「全部で八百四十円になります」


 七花はショートパンツのポケットをごそごそと探り、千円札を一枚取り出してカルトン(釣銭盆)の上に置いた。

 俺が釣り銭を用意するのを待つ間、彼女はふいに身を乗り出してきた。その動作でクロップトップの襟元が少し下がり、豊かな胸の谷間があらわになる。俺は動揺を悟られないよう、口の中で自分の頬の裏を噛むしかなかった。


「そういえばさ、コンビニくん……」


「は、はい?」


「キミって休みないの? 私が夜に来ると、いっつもレジにその暗い顔があるんだけど」


 俺はぎこちない動きで、お釣りとレシートを渡した。


「ま、まあ……フルタイムでシフトを入れてますから。休みは不定期なんです。それに、仕事以外にやることなんて何もないですし」


「つまんない人生だねー」


「つまらないですけど、嫌いじゃないです」


「ふーん、変なやつ」


 七花は人差し指で眼鏡の位置を直した。その瞳は、何とも言えない表情で俺を見つめている。

 彼女が帰ろうとするのを見て、俺の中でどこから湧いてきたのか分からない勇気が芽生え、頭で止めるよりも先に口が動いていた。


「毎日こんなにお酒ばかり飲んでて……体に悪いんじゃないですか?」


 俺は慌てて口をつぐんだ。コンビニの店員が客のプライベートに踏み込むべきではない。ましてや、客の健康に説教をするなんて言語道断だ。

 七花は眼鏡の奥で少し目を見開き、俺の突然の言葉に明らかに驚いていた。

 数秒間、気まずい沈黙が二人を包んだ。店内には有線放送のBGMだけが静かに流れている。やがて、彼女は顔を逸らした。その白い頬がほんのりと薄紅色に染まる。


「べ、別にあんたには関係ないでしょ? 私がどれだけ飲もうが勝手じゃん」


 突然、彼女の態度は防御的になった。声のトーンも少し上がっている。


「す、すみません! 出過ぎた真似をしました。ただ、毎日お酒ばかりでおつまみもお弁当も全然買ってないから。胃を壊しちゃいますよ?」


「うるさいっ!!」


「私、お酒強いんだから。度数九パーセントくらいでそんな簡単に潰れたりしないし」


「そ、そうですか……」


「そう! だいたい、これは山積みの課題のストレスを発散するための一つの方法なの。ただのレジ係のあんたには、女子大生がどれだけ大変か分からないでしょ」


 女子大生、か。二十四歳という年齢からすれば、本来ならもう卒業して社会人になっているはずだ。休学か留年をしているのだろうという俺の推測は当たっていたらしい。だが当然、それ以上深く詮索する度胸は俺にはない。


「……それならいいです。お酒、楽しんでください。でも、道端で酔い潰れてみっともない姿は晒さないようにしてくださいね」


「コンビニくんに心配されるような子供じゃないっつーの!」


 彼女は乱暴にレジ袋をひったくり、レジから離れようと背を向けた。

 しかし、ドアを出ていく直前、彼女は肩越しにちらりとこちらを振り返った。


「ねえ」


「はい?」


「明日も……夜勤、入ってるんだよね?」


 先ほどの棘のある態度とは裏腹に、その声はとても小さく、まるで照れ隠しの呟きのように聞こえた。


「はい、明日も夜勤です」


「ふーん。そっか」


 七花はそれ以上何も言わなかった。彼女はコンビニから出て行く。自動ドアのセンサー音がウィーンと鳴り、その目を惹く金髪のシルエットは、鎌倉の海岸沿いの夜闇へと瞬く間に消えていった。

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