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今の俺の生活 ➀

 自動ドアの向こうから、波の音がかすかに聞こえてくる。

 七里ヶ浜特有の潮の香りを運ぶ海風がゆっくりと吹き抜け、店の前のアスファルトを撫でていく。

 神奈川県、鎌倉の海岸沿いでは、喧騒に満ちた都心に比べて少しだけ時間がゆっくりと流れているように感じる。


「いらっしゃいませ」ドアのセンサーが鳴ると、俺は条件反射のように口を動かす。


 ジャージ姿の中年客が店内に入ってきて、迷わず朝刊とスポーツ飲料の棚へと直行する。

 俺は軽く頭を下げ、再び冷蔵ケースの中に緑茶のペットボトルを並べる作業に戻った。ケース内の冷気が、薄い軍手越しに伝わってくる。

 俺の名前は伊織。年齢は二十歳だ。


 今は、ビーチから大通りを一つ挟んだ場所にあるこのコンビニで、フルタイムのバイトとして働いている。

 通うべき大学もない。キャリアを積むための大企業もない。そして何より――顔を合わせなければならないクラスメイトたちも、もういない。

 高校を卒業して以来、俺はすべての連絡を絶った。スマホの番号を変え、SNSのアカウントを全て消去し、ゼロから人生をやり直すためにこの土地へと移り住んだ。

 高校の三年間は俺にとって地獄だった。いじめ、見下すような視線、そして絶え間ない陰口。鉄格子のない牢獄のようなあの教室に比べれば、ここで波の音を聞きながら棚に飲み物を並べている方が、よっぽど天国のように思える。


「おーい、伊織。朝っぱらからシケた面してんなあ」


 レジ奥のスタッフルームから、低くてしわがれた声が聞こえてきた。

 ギィと音を立ててドアが開き、少し寝癖のついた大人の男が姿を現す。

 コンビニの制服の上のボタンを開けっぱなしにして、中の無地の白シャツを覗かせている。目は半分閉じており、そこからはかすかにアルコールの匂いが漂ってきた。


「店長の慎司さん。おはようございます」


「また昨日の夜、飲んだんですか?」


 このコンビニの店長兼オーナーである二十九歳の慎司さんは、痒くもない頭を掻きながらへらへらと笑った。


「ははは! そう言うなよ、伊織。昨晩は行きつけの飲み屋で常連さんに美味い日本酒を奢ってもらってさ。気づいたら三本も空けてたんだ。あー、頭が割れそう」


「割れそうになるって分かってるなら、平日にそんなに飲まないでくださいよ。店長なんですから」


「落ち着けって! 頭がガンガンしても、俺の店長としての勘は鋭いんだからな!!」慎司さんはふらふらとした足取りでレジ裏のコーヒーマシンへと向かいながらそう言った。ブラックコーヒーのボタンを押し、少し間抜けに見える満面の笑みで俺を振り返る。「そういえば伊織。どうしてイルカはいつも笑ってるか知ってるか?」


 ああ、また始まった……。

 俺は長いため息をついた。まともな会話にはならないという予感がプンプンする。


「知りませんし、正直あまり知りたくないです」


「『イルカはいるか?』なんちゃって! ははははは!」


 コンビニの店内が静まり返った。冷蔵ケースのコンプレッサーの音でさえ、そのジョークよりはよっぽど面白く聞こえる。


「店長、そういうくだらない親父ギャグはやめてください。店内の湿度がダダ下がりですよ。寒すぎます」


「ひどいな! 今週の俺の十八番だったのに」


 慎司さんはわざとらしく目尻の涙を拭うフリをして、ホットコーヒーが入った紙コップを手に取り、ゆっくりとすすった。


「お前はまだ若いんだぞ、伊織。まだ二十歳じゃないか。もうちょっと肩の力抜けよ。酔っ払った店長の親父ギャグ一つで、世界が終わるわけじゃあるまいし」


 俺はただ呆れてため息をつき、朝刊とスポーツ飲料を持って待っている客のレジ打ちへと向かった。


「お会計、四百二十円になります」


 客が去った後、再び自動ドアが鳴った。今度は入店してくる客の足音ではなく、軽快でエネルギッシュな足音と、甘いフローラルな香水の香りがそれに続いた。


「おはようございまーす! 慎司さん、伊織くん!」


 色落ちしたピンク色の髪を肩まで伸ばした若い女性が入ってきた。

 お洒落なカジュアルな服を着ていて、その上からお揃いのコンビニの制服を羽織っている。その顔には、鎌倉の朝の太陽にも負けないくらい明るい笑顔が浮かんでいた。


「おお、咲桜子ちゃん! おはよう! 今日も相変わらず輝いてるねえ!」


「咲桜子先輩。おはようございます」


 彼女は咲桜子。俺より一つ年上の二十一歳で、朝から昼にかけてのシフトで一緒になるバイトの先輩だ。彼女はピンク色の髪を後ろで小さな一つ結びにまとめると、スタッフルームのシンクで手を洗い始めた。


「店長、顔ボロボロじゃないですか。また飲んでたんでしょ?」


「あ、伊織くん、さっきから店長のくだらないギャグ聞かされてたんでしょ? お疲れ様」


「もう慣れっこですよ。さっきはイルカの話してました」


「イルカ?」咲桜子先輩は首を傾げ、そしてクスクスと笑い出した。「あははは! 絶対また『イルカはいるか』のギャグでしょ。もう店長ったら、それ昭和のギャグですよ!」


「ほら見ろ、伊織! 咲桜子ちゃんは笑ってくれたぞ!」


「店長が可哀想だから笑ってくれたんですよ。あんまり調子に乗らないでください」


 咲桜子先輩は俺の肩をポンポンと叩きながら、さらに声を上げて笑った。


「あはは!! もう、二人とも。伊織くん、今日は一段と口が悪いね。ここに入ったばかりの頃は、すっごく無口で、接客中もよく震えてたくせに」


 それを聞いて、俺は少し耳が熱くなるのを感じた。


「……咲桜子先輩、過去の話は掘り返さないでください」


「えー、なんで? 可愛いじゃない! 入って一ヶ月目のこと覚えてる? レジがエラーになってパニックになっちゃって、お客さんの買い物かごうっかり落としちゃったの。その時、レジ台におでこぶつける勢いで頭下げて謝ってたんだから」


 咲桜子先輩は当時の俺のお辞儀の動きを真似しながら、面白そうにからかってくる。


「そ、それは……まだ慣れてなかったからです」


「はいはい、分かってるよ。でも、今の伊織くんを見てよ」


「今じゃ伊織くんは、すっごく頼りになるスタッフだよ。この酔っ払い店長よりも、ずっと仕事が丁寧なんだから」


「おいおい! 丸聞こえだぞ!」慎司さんは背後から口を挟みつつ、コーヒーの紙コップをゴミ箱にポイと投げ捨てた。「酒好きとはいえ、俺には店長としての鋭い勘があるんだからな。だからこそ、伊織が面接に来た時から、こいつが頼りになるヤツだって分かってたんだよ。俺の人を見る目は絶対に間違いない」


 このだらしない男はいつも冗談ばかりで頼りなく見えるが、彼の言っていることは紛れもない事実だった。

 推薦はおろか学歴の記載も乏しく、前の学校とも縁を切り、死人のような暗いオーラを漂わせて面接にやってきた俺を、あれこれ詮索せずに雇ってくれたのは慎司さんだけだった。

 そして咲桜子先輩。レジの操作からコーヒーの淹れ方、客前での笑顔の作り方に至るまで、彼女が根気よく俺に全てを教えてくれた。


 この二人がいてくれたからこそ、俺はこの場所で心地よさと安らぎを見つけることができたのだ。

 他の人にとっては、コンビニのバイトやフルタイム勤務なんてただの踏み台に過ぎないかもしれない。でも俺にとって、ここはかけがえのない避難所だった。


「よし、お前ら二人のシフトも始まったことだし、俺はバックヤードに戻って在庫の書類整理でもするかな……要するに、ちょっと仮眠するわ。もし不良やヤクザが来たら俺に任せろ。普通の客が来たら、お前らに任せる!」慎司さんは手をヒラヒラと振りながら、スタッフルームのドアの向こうへと消えていった。


「書類整理って何ですか……」


「さてと、伊織くん。今日もいつも通り役割分担する? 伊織くんが品出しと賞味期限チェックで、私がメインレジね」


「はい、先輩。ありがとうございます! 今日もよろしくお願いします」


「オッケー、よろしく!」


 時間が過ぎていく。鎌倉の空高くに太陽が昇る。海へ向かう前に冷たい飲み物を買いに寄るサーファーたちや、昼食の弁当を買いに来る地元の人たちで、店内は徐々に賑わい始めた。

 俺は清涼飲料水が入ったダンボールを積んだ台車を押し、飲料コーナーの通路へと向かった。

 今の俺の生活は、ただ穏やかなルーティンに過ぎない。働いて、食べて、寝て、海を見る。驚きもなく、ドラマもなく、不安で心臓がバクバクするような出来事もない。それこそが、俺の望んでいたものだ。


 しかし最近、この単調な生活の中に、ほんの小さなユニークな日課が一つだけ加わっていた。

 それは、夕方のシフト交代の時間帯に訪れる日課だ。

 ビールや様々な味のチューハイの缶を陳列棚に並べている時、俺の視線は無意識に、アルコール度数九パーセントのレモン味チューハイの列の、ぽっかり空いたスペースへと引き寄せられた。


 それは、彼女がいつも買っていく飲み物だ。

 常連の女性客。俺が頭の中で密かに『チューハイのお嬢さん』と呼んでいる人。

 夕方から夜にかけての時間帯になると、彼女は必ずやって来る。金髪で、派手だがどこか魅力的なメイクをしたギャル風の美しい女性。そしていつも、食べ物は一切買わずに、チューハイだけをレジ袋一杯に買っていくのだ。


「伊織くん! ちょっとレジ手伝って! お客さん並んできちゃった!」


「はい、すぐ行きます!」


 俺は残りのダンボールを置き、軍手を外して、足早にウォークイン冷蔵庫から飛び出した。


『チューハイのお嬢さん』がこんな時間に来るはずがない。彼女はいつも、日が沈んでから現れるのだ。レジへと向かいながら、俺は頭の中から彼女の金髪の面影を振り払った。


 どうせ、彼女はただの客で、俺はただのコンビニ店員だ。俺たちの関係は、「いらっしゃいませ」という挨拶と、バーコードをスキャンすること、そしてタッチパネルの年齢確認ボタンを押してもらうこと以上のものになることなんて、絶対にあり得ないのだから。

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