最終話 定時退庁
数年後。
王宮は、
静かになった。
かつてのような怒号は少ない。
徹夜明けの亡霊みたいな官僚も減った。
深夜まで灯りが消えない執務棟は、
今では珍しい。
だからといって。
国家機能が弱くなったわけではない。
むしろ以前より、
安定していた。
誰か一人へ依存しない。
引き継げる。
共有できる。
休める。
壊れなくても回る。
そんな組織が、
少しずつ形になっていた。
若手官僚棟。
時計の針が、
定時を指す。
書類を整理していた
ノア
が、
静かにペンを置いた。
「……よし」
机を片付ける。
数年前なら、
考えられない光景だった。
昔の宮廷では。
定時で帰る人間は、
“やる気がない”
と見なされた。
残っている人間ほど偉い。
疲れているほど頑張っている。
そんな空気が支配していた。
でも今は違う。
隣席の官僚が、
普通に声をかける。
「お疲れ様です」
ノアも自然に返した。
「お疲れ様」
それだけ。
誰も嫌味を言わない。
誰も罪悪感を煽らない。
普通に仕事を終え。
普通に帰る。
それが、
“普通”になり始めていた。
新人官僚たちが、
ノアへ質問を投げる。
「明日の研修資料ってこれで合ってますか?」
ノアは確認して頷く。
「大丈夫」
「無理なら明日相談しろよ」
新人たちは苦笑する。
「ノア主任、そればっかりですね」
「大事だからな」
自然な会話。
自然な空気。
そこにはもう。
“壊れるまで頑張れ”
という圧力は、
以前ほど存在していなかった。
高層執務棟。
窓辺に立つ
レティシア・ヴァレンフォール
は、
その光景を静かに見下ろしていた。
帰宅していく官僚たち。
談笑する若手。
夕焼けの王都。
昔なら、
考えられなかった。
かつての王宮は。
誰かが倒れることで回っていた。
優秀な人間ほど、
消耗した。
壊れるまで働いて。
それを美徳と呼んだ。
でも。
もう違う。
完全ではない。
問題はまだある。
無理をする人間もいる。
古い価値観も残っている。
それでも。
この国は、
確かに変わった。
その時。
後ろから静かな声がした。
「帰りませんか」
振り返ると、
カイル・エヴァンス
が立っていた。
昔と変わらない、
落ち着いた表情。
レティシアは少しだけ目を細める。
机の上を見る。
書類は残っている。
やろうと思えば、
まだ働ける。
昔の自分なら、
迷わず残っていただろう。
でも。
今は違う。
レティシアは静かに書類を閉じた。
「ええ」
立ち上がる。
窓の外では、
王都に夜が降り始めていた。
カイルが扉を開く。
レティシアは最後にもう一度だけ、
執務室を振り返った。
かつて。
この場所は、
彼女を壊しかけた。
でも今は。
誰か一人の犠牲で成り立つ場所ではない。
少なくとも。
そうなろうとしている。
レティシアは、
柔らかく笑った。
そして静かに呟く。
「……これでいいのよ」
その声は、
ようやく辿り着いた人間のものだった。
――“誰かが壊れることで成立する国家”は終わった。
完全ではない。
理想郷でもない。
それでも。
もう。
消耗を美徳にはしない。




