第一話 レティシアなら大丈夫
王宮の朝は早い。
だが、その朝よりさらに早く動き出す人間がいる。
東塔三階、宮廷実務室。
まだ陽も昇りきらぬ薄青い空の下で、
レティシア・ヴァレンフォール
は机に向かっていた。
室内は静かだった。
紙をめくる音と、
羽根ペンが走る乾いた音だけが響いている。
机の上には書類の山。
王太子外交案件。
北部飢饉報告。
貴族派閥一覧。
来月予算修正案。
夜会出席者名簿。
しかもそれぞれに、
色違いの付箋と細かな注記が入っている。
レティシアは視線を滑らせながら、
次々と決裁順を組み替えていく。
「北部輸送は第三街道経由へ変更……いいえ、駄目ね。橋梁補修が終わっていない」
さらさらと修正文を書き込む。
その時だった。
扉が遠慮がちに叩かれる。
「失礼いたします、レティシア様」
入ってきたのは若い侍女だった。
両手いっぱいに書類を抱えている。
「財務局から追加資料が届きました。至急確認をとのことで……」
レティシアは一瞬だけ沈黙した。
机には既に、
“至急”の札が付いた書類が三つ積まれている。
だが彼女は顔色ひとつ変えない。
「こちらへ」
侍女はほっとしたように笑う。
「レティシア様なら整理できますよね?」
悪意のない声音だった。
純粋な信頼。
だからこそ、
否定しづらい。
「……ええ、確認します」
レティシアは淡々と受け取った。
侍女が退室すると、
彼女は一度だけ目を閉じる。
ほんの一秒。
それだけで、
また次の書類へ手を伸ばした。
朝になる頃には、
執務室は人で溢れていた。
官僚。
書記官。
使者。
騎士。
皆、当然のようにレティシアの机へ向かう。
「この案件、優先順位をお願いできますか」
「地方貴族への返答文を確認いただきたく」
「予算案の数字が合わず……」
「急ぎでお願いします」
急ぎ。
急ぎ。
急ぎ。
レティシアは一つひとつ処理していく。
質問に答え、
文面を直し、
責任範囲を整理し、
判断を下す。
彼女がいるだけで、
止まっていた仕事が流れ始める。
だから皆、
彼女を頼る。
昼前、
王太子執務室へ呼ばれた。
大きな窓から光が差し込む明るい部屋で、
アルベルト第一王子
は柔らかく笑った。
「来てくれて助かったよ、レティシア」
机には未処理の書類が山積みだった。
レティシアは一目見て、
重要案件と後回し案件を分類する。
「こちらは本日中に返答が必要です。こちらは宰相府確認待ちですので保留を」
「さすがだなぁ」
アルベルトは心底感心したように言った。
「君がいると安心する」
レティシアは微笑を返す。
完璧な角度。
完璧な礼儀。
「恐れ入ります、殿下」
けれど内心では、
別の言葉が浮かんでいた。
――その“安心”の代わりに、誰が疲弊していると思っているのですか。
もちろん、
口には出さない。
夜。
王宮では夜会が開かれていた。
煌びやかなシャンデリア。
色とりどりのドレス。
笑い声。
華やかな空間だった。
しかしレティシアは、
ダンスフロアではなく人間関係を見ていた。
対立中の侯爵家同士を遠ざけ、
暴走しそうな若手貴族を止め、
泣き出した令嬢を宥め、
酒に酔った伯爵を別室へ誘導する。
まるで火消しだ。
「レティシア様って本当に隙がありませんわね」
背後で声がした。
若い令嬢たちが扇で口元を隠しながら囁いている。
「冷たい方よね」
「仕事しかできないのでしょう」
「だから殿下も少し息苦しいのでは?」
レティシアは振り返らない。
聞こえていないふりをする。
その方が円滑だから。
夜会が終わる頃には、
もう日付が変わっていた。
侯爵邸へ戻ったレティシアは、
誰もいない自室へ入る。
扉が閉まる。
静寂。
その瞬間だった。
彼女は糸が切れたように、
机へ突っ伏した。
呼吸が浅い。
指先が震えている。
頭が重い。
視界が滲む。
けれど、
ほんの数秒後。
レティシアはゆっくり身体を起こした。
机の端には、
持ち帰った書類の束。
彼女はそれを見つめる。
そして静かに呟いた。
「……まだ終わってない」
その声は、
自分に命令するようだった。




