第七十二話 ふたつの、ヴァイオリンのための
こんなに長い時間。ことこまかな部分に至るまでみっちりと詰め込んで、楽器の練習をやったのは久しぶりだ。
タオルを持ち上げて、額に浮かんだ汗を拭いながら、リースはしかし心地の良い充実感を、その胸に抱く。
自分たちのやろうとしていること。それを、思う。
「──ユキってば。仕方ないんだから、もう」
遠い島国にいる友を、思う。
ピアノの上に置かれたのは、一枚のタブレット。この画面越しに、彼女が伝えてきたこと。願ったこと。楽器ケースに収めた自身のヴァイオリンを見遣りながら、リースはそれを思い起こしていく。
ユキの──彼女の表情には、他人をその行為に付き合わせるだけの必死さが、真剣さがあった。
それがなければ自分は協力をしなかったか? ──否。その点については、否だろうと、思う。
彼女の願いを、自分が無下にするはずがない。
自分とミラージュの姉妹にとって彼女たち姉妹だけは絶対に、軽んじたり、蔑ろにするべきものではないのだから。
天涯孤独の彼女たちはしかし、リースにとって同じものに直面する、そんなふたりだから──。
「がんばれ」
ユキ。
シラヌイ。
タンクトップの、胸元の汗を拭って、再びリースは、自身のヴァイオリンを、楽器を手にする。
* * *
その少女と、姉との間に交わされる言葉のやり取りを、雪羽は止めることはしなかった。
だって、それが姉のやりたいこと。望んだことだから。
「いいのか」
レイアさんが、ともに柱の陰から、様子を見守っている。
警察の人と、主治医の先生と。白鷺のおじさんが立ち会う中、病室のベッドの上の姉は、訪問をしたその少女と語らっている。
年下の、女の子。その人物は言うまでもなく、姉の両眼から光を奪っていった、張本人その人にほかならない。
普通ならば、そんな相手と対話をしようなど、考えたりはしない。だが敢えてそれを姉は望み、そうすることを選んだ。
「──お姉ちゃんがそうしたいなら。それが、お姉ちゃんに必要なことだから」
硬い表情の少女に対し、不知火の様子は快活だった。
相手を責めるために呼ぶのではない──そう言っていたとおりに、彼女は目の前の相手に問いかけ、語り、言葉を繋いでいく。僅かずつではあれ、少女もまた不知火へと言葉を返し、小さな頷きを見せて。応えていきつつあった。
いったい姉は、少女にどんな言葉を投げかけて。
どのように、導こうとしているのだろう。
「ね、レイアさん。今日の、お姉ちゃんの手術。何時からだっけ」
「うん?」
「午後の、四時からって言ってたよね」
それは既に、家族として伝えられていたことだった。
わかった、と。了承を返してもいた。──こと、なんだけど。
「ちょっと、わがまま言っていい?」
「え?」
いや。ちょっと、──ではなく。もしかしたら、ものすごく。すごく、すごく迷惑なわがままかもしれない。
「頼みたいことがあるんだ」
あたしがいっぱい考えて、選んだこと。それを、伝えるために。
「レイアさんにしかこんなこと、頼めないから、さ──……」
* * *
「え? 雪羽のやつ、寝てないの?」
喫茶『白夜』に歌奈はいる。
彼女自身眠たげな彩夜を傍らに、友から聞いた雪羽の様子に、素朴な驚きの声を上げる。
姉の詩亜は、デート中。このクリスマスという日に独り身というのもつまらない。だから、確実にここにいることがわかっていた、友人のもとに顔を出したのだけれど。
「大丈夫なの、あいつ。今日、不知火の手術でしょ」
「ええ、はい……だから、いろいろとやることがあるから、日中や夕方は時間が取れないから、って」
ひと晩かけて、渾身のスイーツ。
一緒につくったんですよ。この店のキッチンを使って。
ふああ、と欠伸をひとつ。こらこら、お仕事中、接客中でしょ。内心そんなつっこみを歌奈が入れる目の前で、彩夜は眠たげな目尻に浮かんだ涙を、指先に拭う。
歌奈の座ったテーブルには、カフェオレと、クリスマス限定の、──これもやはり彩夜の、渾身のスイーツ……カカオの風味が心地よい、ミニ・サイズの、切り株風のロールケーキが置かれている。細身につくったブッシュ・ド・ノエルを輪切りにして、かわいらしく一人前にアレンジしたようなそれはきっと、雪羽と並んで一緒のキッチンで、彩夜もまた徹夜で拵えたのだろう。
「相変わらず、気合入ったスイーツつくるよね、彩夜も」
「好きですから。歌奈ちゃんは、詩亜ちゃんとクリスマスケーキは?」
「つくった。んで、ねーさんにはデパ地下でお土産に買ってきてって言ってある」
かわいい妹を残してデートにうつつを抜かしに行くんだ、そのくらいの要望は許されるはずだ。
じっくり選んで、悩んで。吟味してくるのだ。
つくったぶんと、買ってきたぶん。両方、食べ比べをするのだ。
「まあ、アタシらはなんやかや、クリスマスを楽しんでるけどさ。あいつら姉妹にも、いい日であってくれるといいよね」
「ええ、ほんとうに」
窓の外は、日の落ちる早さを反映して、時刻に対し太陽がオレンジの濃度を次第に増しつつあった。
気温も、随分と低い。きっと今夜は、雪になる。天気予報もいくつもが、口をそろえてそう予想をしていた。
今日という日の雪を、不知火は見られないかもしれない。
姉と一緒の聖夜を、雪羽はともに見上げられないかもしれない。
だけど、彼女たちの迎えるこの日は、今日だけじゃない。
そんなこれからに、この冬の日が繋がっていくことを、歌奈は願った。
* * *
なんて顔してんの。──まるで前触れもなしに家を訪れてきた親友は、反応と言葉とに窮する星架に、可笑しそうに、肩を竦めてみせる。
「……いや、だって。あなた、デートは」
お母さんから、お客さんよ、なんて呼ばれて。自室から出てきて。いったい誰だろう、なんて思ってみれば。
ジーンズに、革ジャン姿の真波が。玄関の上がり框のところに、寒そうに身を縮めて、突っ立っていた。
「してきたよ。詩亜とお茶して、いちゃこらショッピングして。歌奈ちゃんへのプレゼント……お土産一緒に選んだ」
たっぷり、堪能したよ。笑いながら、親友は手に提げていた小さな、紅いボール紙の袋を差し出してみせる。
「で、はい。これ、お土産」
「──私は彼女たちと血縁関係にはないんだけど?」
「いいじゃん。クリスマスプレゼント、ってことで」
「用意してないわよ、こっちは」
「へーき、へーき。こっちが勝手に用意してきただけだから」
友の手から、紙袋を受け取る。
とりあえず、寒いから入れてよ。星架がそうするのとほぼ同時、いそいそと、彼女はスニーカーを脱いで、玄関マットの上にあがってくる。
そしてそのまま、流れるように星架の前に立つ。
行こうよ、と。目くばせと、首の軽い動きとで、真波は星架に促す。
「まあまあ、ぼくと星架の仲じゃないの。ここは水入らずで、互いの恋愛相談でもしようじゃない」
「え」
「今日なんでしょ、不知火の手術。残念だったね、デート、できなくって」
「真波……」
「詩亜に、気にかける相手がいるように。ぼくにもいるってこと。だよ」
お土産、それ。カヌレだからさ。一緒に食べよう。
振り返った真波は、小気味のよい、ニッカリとした笑顔で笑ってみせる。
「不知火には、プレゼント渡せた?」
「ええ──ええ。雪羽ちゃんに、預けてあるから」
「そっか、よかった」
お互い、想う相手とのプレゼント交換はきちんと済ませたわけだ。
「紅茶とコーヒー、どっちがいい」
「うん? んじゃ、紅茶」
オーケー。先に、部屋に行っていて。持っていく。友へと促し、星架はキッチンへと足を向ける。
真波が持ってきてくれたものがカヌレなら、星架が不知火へと贈ったのは、手製のマフラーだ。今頃、雪羽ちゃんがきちんと届けてくれているはず。
そう、星架のことをこうやって想い、訪れてくれる真波がいるように。
不知火もこの冬の日に、独りじゃない。大切な少女が傍にいてくれる。
デートが出来なくて残念、という気持ちがまったくないわけではない。
だけど、今はいい。雪羽ちゃんが今は、不知火の隣にいてくれる。今はあのふたりが、あのふたりでともに存在することが、必要なことだから。
「──だから、しっかり治して、戻ってきてよね。不知火。私のところに」
そうしたら、クリスマスの埋め合わせ、いっぱいしよう。
デートだって、たくさんやろう。
ふたりきりだって。
雪羽ちゃんも一緒の三人でだって、いいから。
* * *
「かわいー。桜色のマフラーだよ。星架先輩の、手編みかな」
本来、手術の時間だと伝えられていた時刻はとうに、回っていた。
そろそろかな、と少し緊張が高まってきて。そわそわしていた頃合いに、レイアがやってきて、開始時間が延びることが告げられた。
──ちょっと、先生に面倒な手術が一本入っていてな。長引いている。もう二時間くらい、ゆっくりしていてくれ。
そう言い渡されて、結局それっきり。時計を見られないから、あれからどのくらい経ったのかわからないけれど、不知火は手持ち無沙汰に、雪羽と、ひかりとともに過ごしている。
膝の上にひかりを抱いて──雪羽の届けてくれた、星架さんからのプレゼントを受け取って。
ベッドテーブルには、ふたりぶんのお皿とフォーク。
自信作だと言っていた、雪羽お手製のパウンドケーキを、そしてシュトーレンをつまみながら、時が来るのを待っている。
「ゆき。今、何時?」
「うん? ──うん、もうすぐ、五時かな」
外、だいぶん暗くなってきたね。もうすぐ、日没かな。
見えない不知火に、妹はそう言って外の様子を伝えてくれる。星架さんからのマフラーのことも、そう。ひかりだって連れてきてくれたし、ケーキだってそう。妹のそれらの気遣いが、手術という不安に向かう中でありがたかった。
「ね、お姉ちゃん。ちょっと外、出ない?」
「え」
「外、寒そうだけど。でもそのぶん、雪降りそうだよ。──ほら。一緒に、ホワイトクリスマス、楽しみたいなって。ダメかな」
「それは──私は、そうしたいな。でも、いいのかな。手術前に」
「ちょっと出てくるくらいならいいって、レイアさんも言ってたし。行こうよ」
躊躇をするのは、自分の眼の状態について、手術というものについて素人でしかない無知と不如意ゆえの不安によるもの。
だが同時、妹の要望は不知火にとっても魅力的なものであったのは間違いない。
こんな状態になってしまった自分があったから。
妹と迎えるはじめてのクリスマス。少しでもそれらしく過ごしたかったし、一緒にそれらしく過ごしてやりたかった。
「せっかく、星架先輩のマフラーもあるんだし。巻いてあげる」
ああ──……甘えても、いいのかな。少し気が小さくなっているのか、その気遣いに、いたわりに身を任せてしまっていいと思える自分がいた。
じゃあ、行こうか。あったかく、して。
私と、ゆきと。ひかりの、三人で。
ちょっと、散歩するくらいならいいだろう。──車椅子を押すことになるゆきには、手をかけさせるけれど。
* * *
そして病院のロビーを抜け、出た外の空気は透き通るように錯覚するほど、冷たくて。見えはしないけれど、きっと吐き出すこの息も今、自分の目の前で真っ白に染まっているのだろうな、と思った。
「よ、っと」
厚手のコートで着ぶくれをしたその内側に、着衣ごと包むようにして不知火はひかりを抱く。一瞬、それが重かったのか、雪羽は力んだ声を漏らして、やがて車椅子を押していく。その振動が、かたかたと伝わってくる。
きっと大学病院構内の、アスファルトの上を私たちは今、進んでいる──。
「寒くない?」
「大丈夫。ひかりは、平気そう?」
「うん、問題なし」
なんだかちょっと、疲れた感覚があった。
これから手術だというのにだらしがないな、と自分でも思うけれど、仕方がない。今日は朝から、大事な用があった。それを無事に終えたという安堵感もあるのだろう。
こういう、妹との他愛のないやりとりがひどく、心地よい。
「ケーキ、どうだった? 病院に生クリームはさすがにまずいかなって思ったから、パウンドケーキだけど」
「おいしかったよ。さすが、っていうか。私には真似できない」
「そりゃ、年季が入ってますから。手間もひまもかけてるんですよっての」
冷たい風が、頬を吹き抜けていく。アスファルトの上を行く車輪の音は変わらない。今、自分たちはどのあたりを進んでいるのだろう?
「ね、お姉ちゃん。あたし、あれからいろんな人に、いろんなこと訊いたんだ。いろんなこと、考えたんだよ。お姉ちゃんに、音楽を捨てないでほしい、って言われてから」
と、足許から感じる地面の感覚が不意に変化をした。
アスファルトの扁平さじゃない。ちょっと凹凸を感じる──これは、石畳? あるいは煉瓦造り、だろうか?
「結局あたしって、欲張りなんだなーって、観念した」
車輪が鳴らすのは、アスファルトのざらついたものより、滑らかな音。そこを、雪羽は不知火へと語りながら、車椅子を押していく。
「欲張り?」
「──うん。あたし、お姉ちゃんを護りたいよ。そのために、音楽は捨てようとさえ思った。……だけど、ゴメン。お姉ちゃんが望んでくれたとおり、あたし捨てきれないみたいだわ」
お姉ちゃんのことも。
お姉ちゃんやひかりに聴かせる、お姉ちゃんが喜んでくれるあたしのヴァイオリンのことも。
お姉ちゃんが望んでくれた、未来の可能性も。
「ぜーんぶ、独り占めしたいなって。捨てたくないって、思ったんだ」
だって、そこにはお姉ちゃんが笑っていてくれるから。
お姉ちゃんが、あたしの笑顔を望んでくれたように。
あたしも、なによりやっぱりお姉ちゃんをいっぱいいっぱい、笑顔にしたい。
どんなお姉ちゃんの笑顔だって、とりこぼしたくないんだ。
雪羽の、そんな言葉たちは背中から、耳の中へすっと入ってきて、とても、とても魅力的だった。
「だから、受け取ってほしい。あたしからの、プレゼント」
* * *
「だから、受け取ってほしい。あたしからの、プレゼント」
言って。雪羽はその足を、止めた。
距離的には、病棟からはさほど離れていない。
そんな場所、静かな一角にあるそこは──頂に十字架を掲げた、小さな、……小さな、礼拝堂。
「着いたよ。今、あたしたち。教会──っていうか。礼拝堂の前に、いるんだ」
「礼拝堂?」
「うん。キリスト教徒の患者さんとかが入院したとき、クリスマスにミサをやったり、貸し出せるように。病院の敷地内にあるんだって。で、今年はたまたま、いないから空いてるって。だから使わせてもらったの」
「使う? ──ここを?」
内側から、扉が開かれていく。レイアさんが、向こう側から顔を覗かせた。
準備はできている、という表情で頷いた彼女に頷き返す。
彼女にはほんとうに世話をかけた。手術時間をずらしてもらう段取りや、この場所の手配。昼間、姉が白鷺のおじさんに願いをかなえてもらったように──今度は自分が、レイアさんに無理を通してもらった。
「そう。あたしからお姉ちゃんへの、プレゼントがあるんだ」
そして、歩を進めていく。
小さな礼拝堂の暖炉に、暖かな温度が燃えている。
最奥の、祭壇近く。そこに置かれたピアノの上には、一枚のタブレットが置かれている。
「今のあたしが、今のあたしの繋がりや生み出せるものの中で、今のあたしにできる最高の演奏を、聴いてほしい」
車椅子を押し、進む雪羽の背中には、肩から提げたヴァイオリンケースが揺れている。
僅かな距離とはいえ、楽器を背負ったまま車椅子を押すのは多少重くはあったけれど、それでもそんなものは、屁でもなかった。
ピアノの正面に、車椅子を停めて。待ってて、と姉の耳元に囁く。
「あたしから、お姉ちゃんへの。お姉ちゃんだけに向けた、とっておきの、特別なコンサート」
お姉ちゃんと、今までも、これからも。ずっと一緒に、進んでいく。ふたつの楽器が二重奏を奏でるように──その気持ちを込めて、贈るメロディたち。
ふたりで笑って。
ふたりで泣いて。
ふたりで、ひかりを見守って。
ふたりで、ひかりの手を引いて歩いていく。
「この演奏を、手術に一緒に、持って行ってほしい。手術のあいだだって、あたしはお姉ちゃんと一緒だから」
一緒にまた、光を、掴む。
「ゆき」
雪羽は、楽器ケースを開く。
それとほぼ同時、ピアノ上のタブレットに明かりが灯る。回線が繋いだ映像の向こう側に映し出されるのは──遥か、地球の裏側にいる友。
彼女もまた、姉妹とふたりで歩んでいこうとしている。
そう、ふたりで歩む。進んでいく。それを表現する演奏には、ヴァイオリンひとつでは、足りない。
ドレス姿の、リースが頷く。羽織っていたコートを脱ぎ捨て、雪羽もまたドレスのその姿を、幻想的な明かりの中へと晒す。目線の向こう、タブレットの先の友と頷きあい、深く呼吸をする。
ステンドグラスの向こうの、夜空に。ちらちらと雪が舞い始めている。
「大好きだよ、お姉ちゃん。だから」
伏せた目を、強く。はっきりと開き、眼下の姉に宣誓する。
「──だから、聴いてください、お姉ちゃん」
はじめの一曲は、なにより最初に決めていた。
あなたとともに、歩むための。あなたのためだけに奏でる曲。
あたしたちが、「天涯孤独の、ふたりだから」、ともに在り続けたいから──選んだ曲。
通称、──『ドッペル・コンチェルト』。その名のとおりの、想いをこめて。
「バッハ作曲。──『ふたつのヴァイオリンのための協奏曲』」
(つづく)
お待たせいたしました。第七十二話、お届けいたしました。
有名な曲なのでご存じの方も多いかもしれませんが、今回のこのお話に出てきた曲は(というか基本的に作中に登場する曲は)実在する曲です。ただ日本語名については「2つの」「二つの」と表記されるのが普通ですので、そこだけ表現の柔らかさから平仮名を使わせていただきました。
さて。そして次回、いよいよ最終回となります。
どうぞ皆さま、最後までお付き合いいただけますと幸いです。
それでは。




