第四十五話 ふたつの告白、ふたつの結果
第四十五話 ふたつの告白、ふたつの結果
言い切ったことに満足するばかりでそこを立ち去ることは、不知火には許されなかった。
少年に伝えた言葉に、自分は責任を負わねばならない。そのことを不知火はよくわかっていたし、そうするべきだと思っていた。
どのように責められても仕方がない。自分は彼をたった今、傷つけたのだから。
彼の姉のひとりであり続けることを選んだのだ。それによる結果は受け止めなくてはならない。
「──そう、か」
やっと吐き出した、そのたったひと言が絞り出されるまでどれほど彼の心には葛藤があったろうか。
疑問や、「もしも」や。黒い感情だってあったと思う。
これまでのような関係性にはもしかしたら、戻れないかもしれない。けれどたとえそうなったとしても、夕矢くんを責めるのはお門違いだ。
責任は全部、私自身に帰するのだから。
ああ。このような認識をしてしまうこと自体、私は彼の隣に並び立つことははじめから不可能だったのかもしれない──。
「──うん。わかった。……ありがとう、ちゃんと答えを出してくれて」
それだけで、十分だ。切り替えて、いけるから。
少年はこちらから見ているだけでわかるくらい、けっして平静ではなくて。それでも暴発をしないでくれた。
なにを言われてもそれは正当な非難だ、と思っていた。
すべてを受け容れて。違うことを言われたならそれは違うと伝える。認識の齟齬を伝える。自分にできるのは、許されるのはそれだけだと覚悟をしていた。
もし告白の順番が違っていたら。
もし立場が逆だったら。
もし、男女が自分と星架先輩とで逆転していたら──いったいいくつの無為な仮定を、この短い時間に不知火は彼へとさせてしまったのだろうか。
それらに身を任せて激発してしまっても、中学生という年齢は、そして焦がれた側と、それを向けられた側という関係性はやむを得ないものだというのに。
「──もう少し、ここにいる。不知火さんは、出し物の仕事に戻ってよ」
「え、でも」
「これくらいは、かっこつけさせてよ。かっこつけられる余裕があるうちに」
俺の、お姉ちゃんなんだろ。
少年の口ぶりは不知火の想像していた以上にしっかりとしていて。そこからの有無を不知火に言わせない、断固たる姿勢がそこにあった。
「──わかった。……行くね、私」
頷きあい、不知火は踵を返す。
余計な言葉は、かけるだけこちらの傲慢だ。ここは彼の気持ちに従うべき場面だろう。
気にするように、惜しむように態度を示してはいけない。振り返ったり、足を止めてはならない。彼自身が振り切ろうとしているのに、フッたこちらがそんな曖昧で宙ぶらりんな態度を見せてどうするのだ。
「ありがと、……姉ちゃん」
だから、不知火は歩みを止めなかった。
夕矢くんを、振り返らなかった。
彼は不知火を、呼び止めはしなかった。
* * *
「どしたん、彩夜」
ふと手を止めて、窓の外を、視点を明瞭にするでもなくぼんやりと眺め見上げた彩夜に、雪羽が首を傾げる。
「──いえ、少し。なんでもないですよ」
それは自分と、あの子しか知らぬこと。
きっと今頃不知火ちゃんは、ユウくんと。大事なお話をしているはず。
どんな結論が出るにせよ、ふたりはふたりの間でしかできない、真剣なやりとりを今、やっているに違いない。
「やー、しかし忙しかったわ、ほんと」
「そうですね。ただ、ちょっとケーキとか、作りすぎちゃったものもありますね」
シフォンケーキ。アップルパイ。もちろんなくなってしまったらすぐに追加が作れるというものでもないから、ある程度余分が出てしまう量、仕込んでしまうのは仕方がない。
「ま、そこはいいんじゃない? どうせ終わってから打ち上げやるっしょ」
みんなで盛大に食べればいいさ。
お腹を空かせた食べ盛りの女子高生軍団、スイーツなんていくらあったって困りはしない。食べきれるでしょ。からからと笑う雪羽。
「雪羽ちゃんは、不知火ちゃんとユウくんのことどう思ってます?」
そんな彼女に、彩夜は訊いてみる。ほんの、気軽な感じに。
「どうって。──そうだな。まあゆーやのやつがお姉ちゃんに惚れてるのは置いとくとして」
一瞬、天を見上げるようにして考える。
そして、
「……まあ、かわいがってくれてるよね。あいつのバンド活動、手伝ってやったり。いいお姉ちゃん、してくれてると思うよ」
人見知りなりに、よくやってくれてる。
「ただまあ、……姉として、ね」
あくまで、姉として、だと思う。
雪羽の言葉は少し、残念そうで。そして誰に対してか、すまなそうな色を帯びた声音をしていた。彩夜は彼女がそう察してしまっているのを、知った。
それは彩夜にとっても残念であったけれど同時に、……彩夜がふたりの関係性へと抱いている感想と殆ど相似なものでもあった。
「きっと、そういうことだよね」
あーあ。まずったかなぁ。くしゃくしゃと頭を掻く、雪羽。
「言っといてやるんだったかな。そのほうがあいつ、傷つかなかったかな」
それはきっと、外野の余計な配慮でしかない。大きなお世話の部類だ。言葉にしてみた彼女自身、彩夜が指摘せずともわかっている。
「──まあ、そっとしておくしかないよね」
まだ結果だってわからないんだし。
やはり窓の外、落ち始めた夕日のオレンジを眺めて目を眇める雪羽に、彩夜は曖昧に頷く以外なかった。
「守って、助けてやんないと。あたしたちだって、ずっと前からゆーやのお姉ちゃんなんだから」
姉として、──さ。
* * *
キャンプファイヤーが、明々と燃えている。
給仕服を着替えた詩亜が、真波の肩を叩く。
振り返った彼女は嬉しそうで。やってきた小柄な少女とふたり並んで、立ち上る炎を、煙を見上げている。
「──やっほー。待ってたよ」
そんな光景を。親友と、その大切な人との交わすやりとりを見下ろしていた。
「すいません。待たせました」
不知火は屋上に、やってきた。星架のもとに、約束どおり来てくれた。
もう、和風のメイド服ではない。今はいつもの、制服姿だ。
「なんだ、着替えちゃったの? あの衣装かわいかったのに」
「……あんまり弄らないでくださいよ」
金網から見下ろしている星架の隣に並び立つ。眼下の真波が、詩亜とそうしているように。先輩と後輩での身長差は生憎、あべこべだけれど。
「いたいけな中学生に、ノーを突き付けてきたの?」
言ってから、少し棘のある言い方だったろうか、と一瞬不安になる。
星架自身、他意があったわけではない。ただ、切り出しただけ。けれど取り方によっては悪意が感じられるかもしれない。
ちらと隣を見れば、不知火は金網に指をひっかけて、俯いている。
暫し、考え込んでいる。
「──ごめん。たまたま、ひとりで歩いていく夕矢くんを見たものだから。それからあなたの教室に行ったら、あなたもどこか、元気なさそうだったから」
あなたが彼を連れ出したことも、見て知っていたから。
「……いえ。私、ひどいですかね」
「どうかな。──ただ、ふたりが揃ってそういう顔してるってことは、噛み合わなかったってことは察せるから」
いくら私があなたを好きでも、それで「よし」とか、「やった」って思えるほど、図太くないよ。
「おいで。慰めてあげる」
星架は、言って不知火の腰を抱く。
されるまま大人しく、頬を星架の頭に預けるようにして、彼女はこちらへと身を寄せた。
「ちゃんと答え、出せたんでしょう」
「……はい。それが、夕矢くんの望むものではなかったけれど」
姉として、彼に接していくことを決めた。彼の望む関係性には、なれなかった。
「だったら自分のした決断と行動とに、胸を張りなさい。しゃきっとしろ、駒江 不知火」
彼女の腰を抱き寄せる、腕に力を込める。
余分な贅肉のないお腹は、服の上からでも触っていてわかるくらい、均整がとれていて、アスリートとして理想的で。ちょっと、羨ましい。
身体のどこかに、将来失われてしまうものを抱えているとは思えない。このままなにも起こらず、平穏のままに彼女は生涯を送っていくのではないか──そう思えてしまうほどに。
すらりとした彼女の肢体は、たしかな存在として星架の隣にある。
「私だって、答えを出したんだから」
だから今は、放そう。
星架の体温が、すっと退いて。気付いた不知火が顔をあげる。
振り向いた彼女から、一歩、二歩。いくぶんかの距離をとる。両者の手が、伸ばしても触れ合わないくらい。
「このタイミングになって、悪いけど。──でも、約束だから。不知火も受け容れて、今ここにいるのでしょ。だから、いいよね」
もう少しだけ、頑張って。
私の話に、付き合って。
星架は、握った右手を胸に抱く。深く深く、息を吸って、吐いて。自分が心から大切だと思う少女に、口を開く。
私が、彼女にできること。私が彼女に、望むこと。
* * *
「好きだよ、不知火」
その気持ちは、はじめて告白をしたその日から微塵も変わらない。ほんの何万分の一ナノグラムだって、減ったりなんかしていない。
「でも、あの日不知火が教えてくれたのは。伝えてくれたのは、それだけじゃダメだって、そういう事情ってことだったんだよね」
自分を好きでいてくれる人を、自分も好きだから、巻き込めない。
不知火自身が、そう思っているからこそ。
不知火が、不知火自身の未来に大切な人ほど付き合わせたくないと思っているから──最愛の妹である雪羽ちゃんにすら、ひとときはそれを拒んだのだから。
「私に伝えるまで不知火はほんとうに、ほんとうにたくさん、私のことを考えてくれたんだよね」
それでも不知火は、星架に望みはしなかった。
訊ね、問うただけ。一緒にいてもいいか、と。世界を失った自分が隣にいることを良しとするだろうか──ただ、星架に対し提示をした。
彼女が信じたのはきっと、伝えたその事実に星架が向き合うこと。
それだけで十分だと思ってくれたうえで、彼女は星架にすべてを告げることを選んでくれた。
なんて、よほどの遠慮をしすぎる子だろう。譲歩、しすぎだ。
雪羽ちゃんだって言っていた。「高校生同士でしかない」んだから。そこまで、気を遣って深刻に考える必要がどこにあろう。なのに不知火は考えて、考えて。選んで。真剣に。
だったら自分も不知火のその信頼に、応えねばならない。
「だから私も、考えた。いっぱい、いっぱい。今までだっていっぱい不知火のこと、考えてきたし、好きだった。でもそんなこれまでに負けないくらい、不知火の身体のことを聞いてからずっと、向き合ってきたよ」
好きな相手の向けてくれたそれに、応えようとしないでどうする。そんなもの最低限でしかない。好きといったからには、当然じゃないか。
今の、自分でいい。
今の自分の精一杯で、できること。
精一杯に向き合って出した結論をぶつける。不知火からの信頼に応えるとはそういうこと。
「不知火の前にはいっぱい、避けられない現実や理屈があって。すごく、しんどいんだなって思った。今はそうじゃなくても──大変になるんだな、って」
そんな不知火に、寄り添い続けると雪羽ちゃんは決めた。
「すごいね。姉妹の絆って。正直、勝てないなって思った。……また」
今は届かないって思ったときから、二度目だ。そして。
「まだ」
そう思うのも、二回目。
「私にはたぶん、雪羽ちゃんほどの覚悟や、家族としての視点はない。そりゃそうよ。私はまだあなたの恋人にすらなれていない」
お話にもならない。
「だから、私を立たせてほしい。もう一度。あなたを好きでいることの、スタート地点に。雪羽ちゃんとあなたの走る背中を追いかけられる場所に」
そして、追いつきたい。
追いつける自分になりたい。……だって。
「私が。あなたを失いたくないの」
たとえ不知火が、その左右の瞳の中に世界を映せない日が来たとしても。
その日を迎えるとき、不知火の隣に私はいたい。──星架は、そう思う。
「変化が訪れたら、それはそのとき考える。理屈は、ね。ただ、私はあなたが好きだから。離れたくないから」
あなたと雪羽ちゃんが、そうであったように。
「私にあなたを、好きでいさせて」
* * *
私にあなたを、好きでいさせて。
雪羽ちゃんの握る掌と逆の掌を、あなたが世界を失うその日には握っていたいと思った。その手を私の世界へと引いて、進んでいきたいと思った──星架先輩の言葉は、まっすぐに目と目、合わせたまま発せられていた。
ああ、そうか。その態度に、不知火は彼女が、心から深く考え、出してくれた答えがそれなのだと悟る。
そして彼女を試してしまっていた──半ば無意識に、自覚なく結果としてそうしていた自分に、自己嫌悪を仄かに抱く。
こんなにも私のことを思ってくれている人を、私は気遣うつもりで。
ほんとうに甘えていいのだろうか、と不安を打ち消すために、試していた。
卑怯な自分を、嫌悪した。そんな自分にできる償いを、探した。
「この期に及んで言い訳を探すのはやめようよ。あなたが自分を嫌うのは、違う」
「あ……」
「私はあなたに、好きだって言った。あなたはあなたの譲れない、自分では変えようのない部分を私に、教えてくれた。それでも好きでいてくれますか、って。それに対する私の答えは、「はい」なんだよ」
だったらもう、答えは出てるじゃない。頬を朱に染めた先輩は、静かに不知火へと歩み寄る。
一歩、一歩。たしかな足取りで、ゆっくりと時間をかけて。
「すまなく思うのはやめて。いちいち罪滅ぼしをどうしよう、みたいに考えてたらきりがない。ただでさえ不知火は優柔不断で決めるのに時間がかかる性分なくせに、生き急ぎがちなんだから」
終わりはここまでだって、決めてしまわないで。それを基準にしないで。
今、どうしたいかを考えよう。
「私が。雪羽ちゃんが、一緒に歩くから」
肩を竦めて、うっすらと涙を眦に浮かべた彼女は微笑む。
「一緒に歩きたいです、が私の答えだから。それが偽りのない、今の私の気持ちなの。不知火からはただ、「はい」か「いいえ」でいいんだよ。今、必要なことはそれだけ」
返事を、私は返したから。あなたも聞かせてよ、不知火。
言葉とともに差し出された彼女の指先は、まっすぐに不知火の心臓を、心の奥を指している。不知火を求めて、そこに待っている。
「あなたに私は好きって言ったよ。そんな私にあなたは選ばせてくれた。そして私も、選んだ」
好き同士なら、それは。そうやって交わされた問いと答えとが意味するものは。
「両想いって思って、いいのかな」
ああ。選ぶ責任は今、私にある。たった今先輩の投げてくれたその問いに、私は答えなくてはならない。不知火は、そのことを実感する。
そして、言葉が溢れた。
「──もう、後戻りなんてしないですよ」
させません、から。
星架先輩の掌をとる、自分がいた。
「お題目じゃなく。未来のことを考えてじゃなく。今。私を求めてくれる? 一緒にいて、いい?」
返事は声でなく、行動だった。握り返した彼女の掌を、不知火は引き寄せて。
「──先輩が、望んでくれるなら」
抱きしめる。
ほんの少し、それでも言葉に弱さが漏れる。
望んでるよ、うんとたくさん。ずっと、ずっと。先輩がそう言って、そんな不知火の弱さを拭ってくれる。
「好きです、先輩」
「うん」
「一緒にいて、ほしいです」
「うん」
なにも見えなくなったとき、そばにいてほしい。
ひとりじゃないって、伝えてほしい。
手を握って、「ここにいるよ」って。
「うん」
「私は欲張りだから。いいって言ってもらえたら、もう我慢できない」
ゆき、ひとりだけじゃ足りない。大好きなゆきに、右手を握ってもらえたら──残った左手も、って思ってしまう。
ゆきと一緒に、私の手を握っていて。
「一緒にいる。そうしたいと願ってる。雪羽ちゃんと一緒にあなたを、見てる。あなたのずっと見ていたかったものを──代わりに、見守るよ」
そして先輩は、爪先立ちに、背伸びをした。
左右の瞳を閉じて、指先を不知火の頬に伸ばして。
ふたりは、口づけを交わした。
それは不知火にとって生まれて初めての、恋人と呼べる人からの、唇同士のキス。誰かにリードしてもらったそれを、不知火は受け容れる。
その愛情表現に応えるように、星架先輩を抱きしめる。
そうだ。
見えなくなったって、手放すもんか。
この人も。ゆきも。この人とゆきが、不知火とともに在りたいと願ってくれるかぎり、けっして。
運命にだって私は、わがままになってやる。
失ってなんて、やるものか──。
「大好き」
先輩が、ぽつりと言った。
キャンプファイヤーの煙が夜空に消えていく。
眼下の喧騒が、近くて遠い。
離れてきたとき、そこから歩む不知火は雪羽を残してひとりだった。
これから不知火は、雪羽の待つそこへ帰っていく。
今度は、ふたりで。はにかみながら、こそばゆく感じながら。
みんなのところに戻るとき、今度はふたり。星架先輩とふたり並んで、手と手とりあって、歩いていく。
その光景はとても、魅力的な想像で。もう間もなくやってくる。
「大好きです、星架さん」
(つづく)
第一部を書き始めた頃には、この展開は正直作中には予定していませんでした。
キャラたちが自分で動いていって、この流れに結実しました。
執筆ってほんとにおもしろい。




