第四十六話 変わっても、変わらぬもの
第四十六話 変わっても、変わらぬもの
「え。ゆき、今日シフト入ってないの?」
ひかりを迎えにきた、喫茶『白夜』にて。てっきりバイトだとばかり思っていた妹の姿は、そこにはなかった。
「はい。今日はわたしとユウくんだけですよ?」
アイスティを出してくれた彩夜が、それをテーブルに置きながら頷く。
凍らせた紅茶でつくった氷が、アイスティの液体の中で同じ色合いに汗を浮かせて、仄かに溶けて、からんと音を立てる。
おかしいな。今朝、「今日は遅くなるから」って言ってたんだけど。ここじゃなかったのか。じゃあいったいどこに。思わず不知火は、考え込む。
シロップを注いで、ストローでくるくるとかきまぜながら。
「え。学校でなんか言ってた?」
「いえ、とくには。待ち合せたりはしてないんですか?」
「うん。ただ遅くなるってだけ。シフトが遅番なのかなーって思ってたんだけど」
でも、休みなんだよね。不知火が言うと、彩夜は再び、きょとんと頷き返した。
「歌奈ちゃんたちとお出かけとか?」
「だったら言うでしょ」
「ですね」
べつに隠すようなことじゃないし。まあ、言ったつもりで言い忘れてたってことも、あるかもしれないけれど。
あれ。でも今日、部活終わりに歌奈、詩亜を迎えに来てたなぁ。
今日こそ倉庫の整理するぞー、とかなんとか。
「えと。あ、補習とか?」
「あー……そうならまた勉強会やんないとだね」
ゆきの嫌がる、ガチンコなやつを。
半分冗談で言ってみると、彩夜は苦笑する。
補習なんてものがあったら、同じクラスの彩夜が知らないはずもない。だからこの線も、なし。
「にしても、どこ行ったんだろ」
店のドアベルが鳴る。振り返ると、おばさんがひかりを抱いて、そこにいて。
ありがとうございます。いつも、すいません。
会釈をしながら、不知火は立ち上がる。
* * *
「ちょっと、危うかったんじゃない」
店の前まで、不知火とひかりを見送って。戻ってきた彩夜は、そうぽつりと向けられた、弟の言葉を耳にする。
「え。そう、ですか?」
「うん。ゆき姉のこと、隠すならもっと自然にやらないと。しきりにこっちや、店の中きょろきょろしてたし。ゆき姉探してたんでしょ、不知火さん」
入ってきたときにそもそも、すごく意外そうにきょとんとしてたし。
不知火さんもまあ鈍感だから、たぶん気付いてないとは思うけど。
そう言う弟は、逆に鋭い。まあ、恋をしていた相手の動向だから気にならないわけもないんだけど。
「やっぱり、ユウくんはよく見てますね。不知火ちゃんのこと」
「……そんなことないよ」
「その。……不知火ちゃんとのことは、もう?」
そんな弟だから、心配にもなる。
失恋に終わった、その気持ちの行方。姉としてかわいく思う弟だから、案じてしまう。
「……納得はしてる」
理解もしてるし、あとは時間だけ。
「割り切るのには、もう少しかかりそう」
そっぽを向いて、顔を見せずに弟は言う。
実際、先ほどやってきたとき、友と弟は軽く目線を合わせるだけで、それ以上のことはなかった。どちらからも積極的に交わろうとは、しなかったのである。
こればかりはやはり、元のようになんの気兼ねもなく両者が交わりゆくようになるためには、彼の言葉通りに時間の解決を待つしかないのかもしれない。
互いが互いを、嫌っているわけではけっしてないから。その距離感の再構築には時間がかかるのだろう。
彼が、彼女のことに自分の中で決着をつけて。
そして、彼女がそう望んだように、姉と呼べるようになるまでは。
「あ……じゃあ、どうしますか。雪羽ちゃんの、例の件」
キッチンの壁にかけられたカレンダー。来週末、そこに赤丸がつけられている。
その印が意味するところを、彩夜も、弟も。知っている。
そう。だから知っている。雪羽が今日、今どこにいて、なにをしているかを。
ユウくんの言うようにバレなくてよかった──今更に、彩夜はその扁平気味の胸を、撫で下ろす。
「行くよ。せっかく誘ってもらったし。断ったら逆に、気を遣わせちゃうし」
言いながら弟は、トースト用のパンを切り分けていく。
彼もまた、日常の中に戻っていこうとしている。
* * *
付き合いはじめたばかりの、ふたりである。
そりゃあ一緒にいたい。一緒に帰りたいし、歩きたい。そういうものだろうとは思う。
「そう露骨にがっかりしてないの。あの子だって家の仕事があるんだから」
「──わかってるけどさぁ」
友人同士の帰り道でそうしょぼくれられても、困る。
「だいたい、あなただって今日は生徒会選挙に出るだの、出ないだのですったもんだしてたでしょ。別に今日で高校生活が終わるんじゃないんだからいちいち気にしてたらきりがないわよ」
「だーかーら。わかってるって。あれは周りがどうしても出させる方向に持ってこうとしてるだけで」
わかってるってば。ぼくは出たくないんだよ。実際。
そう言葉を繰り返しながら、真波は深々とため息を吐く。
いやいや、わかってないじゃん。割り切れてないでしょ。それ。
「もう。しっかりしてよね」
「大丈夫だって。それより、星架こそいいの?」
「なにが?」
「いや、雪羽ちゃんの「アレ」の件」
歩道橋を、ともに上がっていく。手にしていた紙パックのりんごジュースをすすって、真波の言葉にそちらを向く。
もちろん、彼女の言わんとしていることを知りながら。
「せっかく不知火とそういう関係になっての、……その、初デートなんだし」
ふたりきりで、って気持ち。あったんじゃない。幼なじみの、そんな声を聞く。
「そうね──でも。はじめてだから、こそなのかも」
ちょうどいいのかもしれない。
きちんとしたかたちでスタートを切れるのだとしたら、それが一番。
ふたりが話すのは、まだ不知火のなにも知らないこと。彼女にはまだ、秘密の。とっておきの計画。
「そっか」
こん、こん、こん、と。歩道橋の階段を鳴らして、一段飛ばしに、真波がひと足前へ、上へとのぼっていく。
踊り場までたどり着いて、夕日の逆光の中、こちらを振り返る。
「なんだか、不思議な感じなんだよね」
「……不思議?」
「うん。もちろん今の状況って、ぼくが望んだことだし。詩亜と心が通じあって、とびきり嬉しいよ。だけど昔のぼくだったら、こんなこと想像もできなかった」
シュシュを手首にはめた、袖をまくったその利き腕で髪をかきあげる。
道路の真上に吹く風が彼女の髪をさらって、はためかせる。短いスカートが揺れて、その内側にある下着が見えそうになる。
「ぼくが誰かを好きになるってこと。漠然と、高校生くらいになったら恋人くらいできるのかなぁって、一般論として思ってはいたけど」
それでも。
「──それでも、彼氏じゃなくて。彼女ができるなんてびっくりだよ。ほんと。詩亜と出会わなかったら」
幸福の笑顔で、真波は見下ろした星架に笑いかける。
自分の今の状況と、実感とにやわらかく笑っていられる。
「……いや。でも、もし。万が一、いや億が一、そうなるんだとしたら、星架と付き合ってるんじゃないかな、って思ってた」
それは表情も声も、屈託なく。
「ずっと一番隣にいるのは、星架だと思ってた」
彼女には今、迷いも後悔もない。素朴に抱いていた想像を、その対象に投げかけただけの、彼女自身にとってなんでもない言葉だ。
声を向けられた星架にも、よくわかる。
「なーに。今更告白? 付き合い始めて早々、浮気は感心しないわよ」
だからいたずらっぽく、星架も返す。
「それに。私だってもう、彼女いるんだからねっ」
後輩たちの前では、見せられない。同い年の、昔からの幼なじみだからできる、年齢に比して幼い、じゃれあい。星架もまた階段を駆け上がって、真波に飛びつくように、肩を組む。
それは幼少期から繰り返してきた光景。そしてこれからも。
「あんたの隣で、あんたの手を握るのとは逆の手で。ずっと不知火の手を握ってるからっ」
子どものように、笑いあう。
親友同士は、変わらず親友として、在り続ける。一番近しい、存在として。
* * *
幼子の寝顔に、思わずこちらまで眠気を誘発されてしまったらしい。
「──えと。なにしようとしてたの、ゆき」
「デコピン」
気付いたときには、うとうとしていて。抱っこ紐で、眠りこけるひかりを抱き寄せたまま寝息を立てていた。
いつの間にかうっかり、寝入っている自分がいた。
そのことを自覚したのは、ふとしたタイミングで漕いだ舟に、なにか触れるものを感じたから。
ああ、寝ちゃってたんだ──理解と同時、うっすら目を開けるとそこには、制服のままの妹が、至近距離に身を屈めて突っ立っていた。
なるほど、不知火の問いに返した言葉のとおりに、彼女の指先は今にもはじき出されそうな輪を、親指と中指とでかたちづくっている。
「とりあえず。うん、おかえり」
「うん。とりあえず、ただいま」
身を起こし、うーんと伸びをする雪羽。
「遅かったね。どこか寄り道?」
「んー、そんなとこ。もうしばらく、遅くなる日続くかも」
「あ、そう? わかった」
そんなやりとりをしながら、雪羽は冷蔵庫を開ける。中身を確認しながら、
「んー。晩ご飯、生姜焼きと肉巻き、どっちがいい? 肉巻きの中身はエノキとインゲンで」
「あ、じゃあ肉巻き」
「オッケー。すぐ準備するね」
そう言って、今度は了承の意を載せた輪を、親指と人差し指につくる。
どこに行っていたのか訊こうかと思ったけれど。まあいいか。ひかりを起こしてしまわないよう注意しながら、抱いた彼女をベビーベッドに運ぶ。
「そういえばさー、お姉ちゃん」
「うん?」
そうして居間をあとにしようとしたとき、背中越しに投げられた雪羽の声が、不知火を呼び止める。
「星架先輩との初デート、もう行ったの? ……付き合い始めてから」
「ぶっ」
なにを言い出すかと思えば。
思わず吹き出しそうになって、口許を押さえる。一瞬眉を寄せたひかりの寝顔は、しかしそれ以上崩れることはなく。幸いに、眠り続けてくれていた。
「な、なな、なにを」
「うわー、ベタなリアクション。いーじゃん、今更隠すことじゃないっしょ? お姉ちゃんにも先輩にも、いっぱい相談乗ってますよあたしゃ」
「そ、それはそうだけど……」
「今週末とか、予定ないでしょ。どこか一緒に行ってきたら」
雪羽の口調はけっして突き放すものでもなく。
それを投げかける表情は、流しのほうを向いていてわからなかったけれど、それでも純粋にそう提案してくれているのだとわかった。
「──……、う、わ、わかった」
とりあえず、ひかり寝かしつけてくるっ。
熱くなった頬を自覚しながら、不知火は居間の扉を押し開いた。
その背中の向こうで、くすりと微笑む妹がいたことは、見えてはいない。
* * *
そうやって妹に発破をかけられたからじゃ、ない。きっと、違う。
「──も、もしもし」
緊張をしているのも、関係性が明確に変わったからじゃあ、ない。
そのくらいで緊張したり、しない。……いや、緊張してるけど。
そんな支離滅裂な心境の中での電話であったから、スマートフォンの向こう側で相手が応答に出てくれたそのとき、どきりと心臓が跳ね上がった。
星架先輩の、ううん、星架さんの声。どうしたの、と素朴に言葉が返ってくる。その状況だけでどきどきしている自分がいる。
「いや、あの。……その。その、えっと」
あの、だとか。その、とか。前置きが多い。自分で自分に、なにを煮え切らずにいるんだ、とっとと言うことを言えよ、と内心呆れたくなる。
星架さんはとくにこちらを急かすことなく、通話の向こう側で黙って待ってくれている。
「こ、今週末って、予定、どうかなって」
ああ。やだ、もう。声が震えている。
告白ごとなんかのときはしっかり準備をして、心も決めて。肚も据えたうえでだったからこうはならなかった。
ああもう。せっかく両想いになったばかりだっていうのに、情けない。いや、そうなったからこそ余計に、心の準備なしには緊張してしまうのか?
小心者にもほどがあるだろう、私。──そう、不知火は自分につっこまずにはおれない。
──『なに? ひょっとして、デート?』
そしてさすがにひとつ年上のぶんだけ、星架さんのほうが一枚上手だった。
なんでわかったんですか、なんて。訊くだけ愚の骨頂だろう。
「……はい。その、せっかく、……せっかく、だし」
互いの関係性の変化を、具体的な単語にして吐き出すのが恥ずかしい。
いや、なにも他人を憚るようなことではないし、恥ずかしがるものでもないことはわかっているんだけど。こればかりは不知火の性分の、気持ちの問題だから。
気恥ずかしさで、言えない。
──『ふうん。付き合い始めるとそんな感じになるのね、不知火って。面白い。かわいいよ』
だから。そういう風に言われるのが恥ずかしいんだってば。
ゆきがその様子を見れば、「あたしのときより恥ずかしがってるじゃん」と苦笑したに違いない。
それはそれ。これはこれ。妹と、こ……恋人は、違う。いや、同じように傍にいてほしいってことでは同じだし。結びたかった絆も、同じく結べた。好きな相手だって点ではその熱量だって変わらない。だけど、違うのである。不知火自身、うまく表現を使い分けられないけれど。似ているけど、少し違う。
──『いいよ。いこっか。土曜日でいい? 私も不知火と行きたいところ、ちょうどあったし』
そして彼女から同意の返事が返ってくることで、ひどくほっとして、安堵するのである。
これで断られていたら、自分はどういう心境になっていたのだろう?
「はい。待ってます。楽しみにしてます」
その返事に気が楽になって。心が華やいでいる。
我ながら現金なやつだ。そう自分に苦笑してしまうくらい、心境の変化がわかりやすく自覚できる。
じゃあまた明日、部活で。そう言って別れを告げて、通話を切る。
デート本番は土曜日。朝、十時。約束の時間を脳裏に何度も反芻をする。
連れていきたいところ。どこだろう。楽しみにしている自分がいる。
「……土曜日。出かけてくるね、ひかり」
ベビーベッドで寝がえりをうつ幼子に笑いかけて、部屋を出る。
「?」
そしてそっと扉を閉めたとき、向かいの楽器部屋の扉が、薄く半開きになっていることに気付く。
あれ。今日、開けたっけ。怪訝に思いつつ、少し押し開く。
「──ん?」
そこにあるのは殆ど、いつも通りの風景。
ピアノに、本棚に。もう使う人間のいない、兄のノートパソコン。義姉の譜面立て──ふたりの写真。
そして、ゆきのヴァイオリン。などなど。なんだけど。
「練習、したのかな?」
妹の楽器の置かれたその位置が、おぼろげな記憶の中にあるそれからいくぶん、変わっているように思えた。
無論それは感覚でしかなくて、「なにか違う」という程度のものだから、気のせいでしかないのかもしれないけれど。
一昨日、掃除をしに入って。それから不知火の留守中に彼女が動かしていたってなんの不思議もない。
「……なんかこっち見てない、兄さん。小雨さん」
ちょうどこちらを向けて置かれた写真立ての中のふたりが、目に留まった。
お化けとか怪談とかは苦手な不知火だけれど、実の兄と義姉に対してである。少しおどけるように言って、微笑する。
「ちゃんと今、私は幸せだから」
片手には、妹を。もう一方の手には、星架さんの手を握れている。
すごく──幸せだから。
「だからそんなに心配しなくたって、大丈夫」
ああ。やっぱりあっちでも心配されてるのかな。して、くれているんだろうか。このふたりは。
いつもいてくれているかどうかはわからない。この家の中に。
けれど、ときどき。あるいは頻繁に、妹ふたりの様子を見に戻ってきてくれているような気がする。そして時折、──さっきみたいに扉を開けっぱなしにして、気付いてほしがってるんじゃないかな。
「ひかりも、元気だから。私たちがちゃんと育てていくから」
もちろんあの扉の閉め忘れは偶然で、人為的なもので。自分かゆきのどちらか一方が、うっかりに気付かなかっただけなんだろう。
だけど、そういう風に思えたら素敵だな、とも思う。
だって、やっぱり今でも私は兄さんの妹で。ゆきは小雨さんの妹。ひかりはふたりの、娘なのだから──見ていてもらえるのは、嬉しいよ。帰って来てくれてるなら、優しい気持ちになれる。
だから不知火は、そう思うことにした。
楽器部屋を、あとにした。
(つづく)




