第二十話 幼なじみと、まっすぐな願いと
第二十話 幼なじみと、まっすぐな願いと
何度も。何度だって、──か。
妹の言葉はあたたかくって。嬉しくって。
だから同時に、不知火には、なんだか少し、泣きたくなる響きを秘めている。
「あ。森山さんだ。こっちに手、振ってるよ」
ともに見下ろす風景も。
こちらに手を振る幼なじみという情景も。
いずれもが不知火にとってかけがえのない、美しいと思えるものばかりが目の前にある。
だけど、それらをより一層、尊く大切に思わせてくれるのは、今このとき、かけがえのない妹とともに、そのひとつひとつを共有していられる。彼女と共有ができるからなのだと思う。
──決心が。決めたはずの肚が、鈍ってしまいそうになる。
その幸福はあまりに不知火には甘美で。
できることならば、ずっと甘えていたい。そう絆されてしまいそうになる自分がたしかに、いるから。
旧き友がいて。
故郷があって。
妹がいる。
見守ってくれている、亡き人々が、すぐそこに眠っている。
島を出れば新たな友が。
帰る家が、ある。
なんて、満ち足りていることだろう。今の私は、幸せなんだと思う。幸せな自分を兄に、義姉たちに見せてやれているのだと、胸を張れる。
「そっか、もうお昼かー。そろそろ行こっか、お姉ちゃん」
怖くて。不安で、当然だ。惜しんだって、仕方のないことじゃないか。
「──うん。いこっか」
手放したくない。終わりのやってくる日なんて、考えたくなんかないにきまっている。
雪羽との、この大切で、愛おしい日々を。
眼下。石段の先に見える、幼なじみの姿を見下ろす。
ひと足先に降りていく雪羽の背中を、目で追いかける。
いつまで、こうしていられるだろう。
何度も、何度だって、なんて。遥かな先のことを見通せる優れた存在では、不知火はない。
あと何年。何度。雪羽とこうしていられるだろう──……。
目安は。そうなる時間は。
「あと、十年。……か」
発した呟きが微かに聴こえたのだろうか、それともたまたまか、雪羽が不意に立ち止まって、こちらを振り仰いで。きょとんと、首を傾げている。
「お姉ちゃん?」
「ああ、ごめん。行こう。すぐ、行く」
彼女の見せた怪訝さを打ち消すように、ふっと笑って、不知火は歩み出す。
ほんの一瞬、背中越しに、今までその前に佇んでいた墓標を見遣って。小さく、頷く。
今度はさっきよりももっと小さく、口の中だけでしか聴こえないくらいの囁き声で、不知火は自身の言葉を、眠りについた者たちに告げる。
わかってる。
大丈夫、わかってるよ、兄さん。小雨さん。
ちゃんと、伝えるから。そのための覚悟を決めて、ここまで来たんだから。
* * *
「別にいいのに、お皿洗いくらい。いつもやってることだし」
お昼ご飯は、夏の定番というべきか、素麺だった。
「宿泊代だってちゃんと取ってるんだから。不知火も、雨宮さんもお客様なんだよ?」
その、食事のあとである。
レイアさんとひかりとくつろいでいる姉を見遣りつつ、雪羽は森山さんとともに台所にいる。
宿といっても広い民家をそのまま活かした民宿である。ほんとうに、そこは宿のキッチン、というより家庭的な「台所」という表現が似つかわしい、なんだか懐かしいつくりをしている。
「いえいえ。何日も世話になるんだし、このくらいは。あたしだって、いつもやってることだから」
台所に立つのなんて、毎日のことである。旅先だからってさして苦になるものでもない。
「ああ、不知火ってば料理、できないもんね」
「うん、うちでも食べる専門」
姉が朝、言っていた通り、森山さんの料理は家庭的で、美味しかった。
素麺なんて茹でるだけでしょ、って彼女自身は笑っていたけど。でも一緒に出てきた天ぷらは衣が薄くてさくさくしていて、料理好きの雪羽としては、悔しいけれどちょっと負けたかも、とすら思えた。
「森山さんって、ずっとお姉ちゃんと一緒だったんだよね」
「うん、ものごころつく頃からずーっとね。あ、観月でいいよ。うちの民宿、みーんな森山さんだから。ややこしいっしょ」
「あ、そっか。それじゃ、あたしも雪羽でいい」
「えー。一応、お客さんだしなぁ」
考えとくわ。
そう言いながらもきっと、雪羽の希望どおりにしてくれるのだろうと、何故だか不思議に信じられる。
なんとなく、自分と彼女は似ているのかな、という気がした。
かつて、お姉ちゃんの一番近くにいてくれた、森山さん──いや、観月さん。
今、お姉ちゃんの隣にいる雪羽。なんやかやで、両者には似通った部分があるのかもしれない。
「どう、不知火と一緒の生活は」
「うん。優しくて、……ちょっぴり抜けてるところもあるけど。でも、頼りにしてる。お姉ちゃんをやろうとしてくれてるのが、伝わってくるから」
「そう。そっか。あの不知火が……お姉ちゃん、か」
もう何度か聞いた呼び方なのに、未だになんか不思議な感じ。言って、観月さんは相好を崩し、笑う。
「晴兄さんの妹としての不知火しか、うちは知らないからさ。ちゃんとやれてるのかなぁって、なんか面白い」
打ち解けるまで、けっこうかかったんじゃないの。
観月さんの指摘は実に的を射ていて。それにはあたしにも原因があったわけだから、と雪羽は内心、姉への弁護をする。
「昔のあいつのこととか。この島のこと、どのくらい聞いてるの?」
その一方で幸いなことに、観月さんとは少しずつ、自然に接することができるようになってきた気がする。まだいくぶん、お互いに探るような部分があるのも否定はできないけれど。
「この島で昔暮らしてた、故郷だってことくらい。あとは、昔のことっていったら。映画館に一緒に行ったよ。お姉ちゃんの、お義兄さんの、大切な場所だって」
「映画館……ああ、あそこか」
うちは、行ったことないけど。写真は見たことあるよ。
少し思い出すように天へと目線を移して、やがて納得したように彼女は頷いて。
「そっか。雪羽ちゃん、連れて行ったんだね。それじゃあ──不知火、自身のことは?」
「え?」
お姉ちゃんのこと?
この島で生まれ育って、中学で全寮制のところに入って。島をあとにして。
雪羽が知っているのは、そのくらい。
いくらかのエピソードと。微笑ましいお話と。レイアさんから伝え聞いたものはある。
言えることと言えないこと、どちらもあるとレイアさんは言っていたから、やっぱりそれもすべてではないだろうけれど。
「あとはそう、この島に来たら伝えたいことがある、みたいには言ってた」
「そう。……そう」
残り僅かの、お皿洗いの手をふと止めて、一瞬彼女は黙りこくる。
「じゃあ、これからか」
「?」
小さな溜め息とともに彼女が吐き出したのは、独り言だったのか。それとも雪羽に向けられた指向性のあるものだったのか、それはわからない。
泡の少なくなったスポンジに、観月さんは洗剤を足して、わしゃわしゃと弄んで泡立てる。そして意を決したように、こちらを見て、
「ね、雪羽ちゃん。お願い、あるんだ」
「お願い?」
「うん。不知火の、こと。そしてあなたのこと」
真摯な目を、彼女は雪羽に向けていた。
とても。とても、真剣な眼差しだった。
「不知火が伝えようとしてることを、うちはわかってると思う。だから、それが本来、不知火自身にとってはもう平気なことだってことも知ってる」
噛み砕いたこと。受け容れたこと。割り切ってしまった、こと。
でも。あなたにとってはきっと、そうじゃない。
「あなたはまだ、知らないから。知ったとき、それでもどうしても背負ってくれ、なんてけっして言えない」
不知火が抱えているのはそういう性質のものだから。
きっと、そんな無条件の要求がすんなり通る世界なんて、不知火だって望まない。あいつはあなたのことが、大好きだから。たった二日間、そばで見ていただけでそれはわかる。
「ううん、もっと前から。そんなに回数は多くないけど、連絡をするたびにあいつから、雪羽ちゃんのこと、聞かされた。殆どは嬉しそうに、あなたが可愛くて仕方ないんだ、って思えるくらい」
あとの少しは──切なげに。
「あいつにとって、今。あなたは一番大切なものだから。失いたくない以上に、大切であるもの。そのくらい、かけがえのないもの」
だから。お願い。
「どんな結論を出してくれてもいい。まっすぐでいてほしい」
「まっすぐ……?」
「そう。まっすぐに、あいつの抱えているものに向き合ってほしい。まっすぐな気持ちで、聴いてほしい。そして、自分の気持ちにまっすぐに、答えを出してあげてほしいんだ」
あなたにとって、なにが正しくて、なにが一番いいのか、そこを妥協したり、偽らないでほしい。
それがきっと、一番あいつの望んでいること。
不知火に向き合うってことだから──そう続けられた観月さんの言葉が、胸の中にひとつひとつ、入ってくる。
「観月さん」
「うちからはそれだけ。不知火の幼なじみから、不知火の妹ちゃんへの、お願い」
そこまで言って、観月さんは手元に目線を戻す。
皿はあと、二枚ほど。
ふたりで語らいあうこの時間は、じきに終わる。彼女がその皿たちをやっつけるまで、それがタイムリミットだった。
* * *
思ってたより、早かったよな。
肚、くくるまで。もう少しうじうじしてるかと思ってたからさ。
雪羽と、みっちゃんが台所に立つその背中が、暖簾越しにここからでも見える。その光景に目を細めていると、レイアが言った。
「ここに来て。ふたりで墓参りをして──決めたんだろ?」
いや、もっと先か。この島に来るのを決めた時点で、だよな。
だからこその、選択だったんだと思ったんだけど。
膝の上のひかりが不思議そうにふたりを交互に見比べる中、レイアもまた、不知火に対して細めた目を投げかける。
「……かなわないな。お見通しなんだ」
「あたりめーだ。大人、なめんなよ」
レイアの笑みは優しく、柔らかく。そっとその指先を伸ばして、不知火の髪を撫でていく。
「そうしたい、って思ったんだろ。だったら突っ走れるのは、若いモンの特権だ」
「アラサー扱いされるの嫌がるくせに」
「比較論で言ってんだ、比較論で」
間違いなくお前さんのほうが若いだろうが。
わかれよ。
ぽんぽん、と頭を軽く、愛情を込めるように二度、叩く。
普段は長身の不知火が、誰かからこんな風に子ども扱いされたスキンシップを受けるなんてそうそうない。される側より、する側のほうが多いんだから。
でも、イヤな気分なんてもちろんしない。
「お前の選択がお前とユッキーにとってどう転ぶかはわからない。でも、ワタシは見届けるよ。そばに、いてやるよ」
ひかりと一緒に。
「私の、そばに?」
「ああ。もちろん、ユッキーのそばにもな」
どっちが、どういう結果を迎えたとしても。ワタシは一緒にいてやる。
傷ついたって。つらくったって。それにお前たちが押しつぶされたり、しないように。
お前はワタシにとって大切な子だ。
ユッキーもいい子だし、そんなお前の大切な子で。ワタシにも、大切な子だ。
「背中を押してやれる大人でありたいからな」
「レイア……」
「そういう役回りを、あいつもワタシに望んでるだろ、きっと。あいつの選んだ奥さんもきっと、さ」
死人に理由を押し付けるのは、卑怯かもしれんがね。
自嘲するように軽い笑いとともに発せられたレイアの言は、しかしその故人を尊重してもらえているのだと、不知火には嬉しかった。
「ありがとう」
「お前たちが後悔しないように。まっすぐ、自分の納得できる選択をしていけるように、見守ってるよ。ひかりと一緒に。お前たちを見守りながら、この子の成長を見つめていく」
レイアは掌に、ひかりの小さな右手を包んで、軽くゆすってやる。
けらけらと、楽しそうにひかりは笑顔を見せる。
「お前が失っても。お前のぶんまで、見届けてやるよ」
* * *
川の字になって、というには、真ん中の一画が足りない。そんな、ふたりで並んで横になる、畳部屋に敷かれた布団。
雪羽は、右。不知火は左。エアコンがよく効いていて、寝苦しさに困ることもない。
快適な中、雪羽は寝つけずにいる。
豆電球だけの薄暗い明かりの中、天井を見つめている。
枕が変わって眠れない、なんてありきたりな理由ではない。なんなら、昨晩は朝早かった影響もあってぐっすり眠れたのだ。
昼間の、観月さんとのやりとりが頭から離れずにいる。
姉へ向けられたあたたかい気持ちと、雪羽への真摯な言葉が今なお、映像として何度も、何度も脳裏に繰り返し再生されている。
──お姉ちゃんにとっては、平気なこと。もう、なんでもないこと。
──だけれどそれは、あたしにとってはそうとは呼べないこと。
今、お姉ちゃんの周りで。あたしだけがまだ、知らないこと。
姉の友人の告げた言葉は、噛み砕けば噛み砕くほどに矛盾を孕んでいるように思えて。いったいそれがどういったものなのか、その実態を飲み込めずにいる。
気になって、眠れない。寝返りも打たずに、ただ思索に耽り続けるばかりで、布団の中に独り、いる。
まっすぐであること、……か。
「──眠れないの?」
その、瞼を開けたり、閉じたり。
視界を移ろわせるぎこちないその開閉の、遮断している瞬間に不意、姉の声が聴こえて、雪羽は再び双眸を開く。
隣の布団を見遣れば、シュシュで髪をひとつ結びにした姉が、胸元にそれを垂らしながらこちらに目線を向けている。
背の高い姉と、横になっているぶん同じ高さの視線で、眼差しを交わす。
「あ……ごめん。起こしちゃった?」
なるべく、音は立てていない。寝入っているように装っていたつもりなのだけれども。
それでも衣擦れの音など、やっぱりしていただろうか。寝付く邪魔、してしまっていたのかもしれない。
「ううん。起きてたよ。なんだか雪羽、眠れないみたいだったから」
雪羽が眠るまで、起きてようと思ってた。
薄手の掛布団から左手を差し出しながら、姉は言う。
そっか。全部、見透かされてたんだ。眠れないこと。寝付けずに、悶々としていたこと。
「ごめんね」
「え……」
だから、巻き添えで眠れない状況をつくってしまって。本来ならばこちらから、「ごめんね」をするはずだった。そういう状況だと、雪羽は思っていた。
けれどひと足先、まっすぐにこちらを見る姉の口から、言おうとしていた言葉とまったく同じものは、発せられていて。
何故、と言いかけた。でも、それもまたやっぱり、ひと足先を越されて。
「みっちゃんと、なにかあった? いろいろ、悩ませてしまってるよね。きっと」
それは、と。言いかけて、雪羽は言葉を呑み込んで。
自らも、姉に向かい掌を差し出す。姉の伸ばしてくれた掌と、互いのそれを重ね合わせる。
ぬくもり同士が、繋がりあう。
「もうすぐだから。もうすぐ、全部を伝えるから。今じゃないのは単なる私の拘り。わがままに付き合わせて、悩ませて。ごめん」
重なった掌から、指先をひとつひとつ、交差させていく。指と指とを結びあう。
姉と手を握り合う。それだけでなんだか、悩み乱れていた思考が、随分と落ち着いていくように思える。
ああ、もう大丈夫だ。少なくとも今夜は──これで、いいや。寝付けないって、もうない気がする。
「ううん。お姉ちゃんとあたしにとって、これはきっと必要なことなんでしょ。だから、いい」
絡めあった指先を、握り合った手と手を、ゆっくりと布団の下に持っていく。
「あたしもお姉ちゃんのこと、なにもかも知りたいって思う。それで、あたし自身が正しいって思える答えを出したい。お姉ちゃんが伝えたいのが、どんなことだとしても。だから、いいよ」
観月さんからも、言われたように。
雪羽自身、姉に対してはまっすぐにありたいと思う。他の、どんな人に対するよりもずっと。なによりも、正直でいたい。
「そのくらいの覚悟は、あたしだってもう、できてるつもりだから」
ふたりの布団のちょうど境界線で、握り合った手はそこに落ち着いた。
その境目で、ふたりが途切れてしまわないように。あたたかな掌を精一杯、雪羽は自身の手に包み込む。
絶対、この手は離さない。離す、もんか。
「そう。ありがとう。……また、明日。明日、ね」
「うん。明日──明日も、だよ」
今日も、明日も。それから先も。
姉はここにいる。あたしの、すぐ隣にいてくれる。この人のそばから、あたしは絶対──離れない。
夢の中でさえ姉とともにありたいと思った。雪羽の心のうちには、その願いがあった。
交わした「おやすみ」の、その先でさえ。姉とともにありたかったのだ。
それが今、雪羽の抱くまっすぐな気持ちだった。
あたしは、この人の妹だから。
姉を。その願いと、伝えたいことを。
あたしは、受け止めるんだ。
そのためにあたしは今、ここにいる。この島に、いるんだから──……。
(つづく)
次回、第二十一話『蒼い海での、告白 前編』




