プロローグ②
玉座の脇の小部屋へ移った頃には、俺たちは立っているのもやっとだった。
長椅子と机、壁いっぱいの本棚。イゼリアが魔導書を開く間に、俺は壊れた胸当てを外そうとして、背中の傷へシャツを貼りつかせてしまった。
「引っ張らないで。傷口ごと剥がすつもり? 貸しなさい。見ているだけで痛いわ」
彼女は本を置き、俺の背後へ回った。
火を出せる者が、傷も治せるとは限らない。回路を読む知識と、肉体を元の形へ戻す知識は別だ。イゼリアにできたのは、出血を抑えて傷を固定することだけだったが、それでも助かった。
赤髪が肩に触れ、冷たい指が傷の周囲を確かめる。戦うためにしか向けられたことのない魔力が、俺の痛みを遠ざけていった。
「……そういうこともできたんだな」
「私を何だと思っていたの。歩く攻城兵器?」
「もう少し性格の悪いものを想像してた」
傷の隣を押された。治療上必要だったのかは、今でも疑っている。
そのあと、俺は彼女の指へ包帯を巻いた。術の媒介にした傷が開いたままだったのだ。自分でできると言ったイゼリアも、包帯を二度落としたところで、黙って手を差し出した。
剣を握る俺の指より、ずっと細かった。
それを意識すると、疲労で下がった肩や、痛みを隠すために硬くなる口元まで目に入った。彼女も俺を見ていた。鎧や祝福ではなく、その下にいる人間を確かめるように。
「何よ、その顔。包帯一つ巻けたくらいで、勝ち誇らないでちょうだい」
「お前も疲れるんだなと思っただけだ。いつも俺に雷を落とす元気は残してるから」
「あなたが帰ったあとに疲れるのよ。今度から訪問前に手紙を出して。断る準備をするから」
俺が笑うと、彼女も少し口元を緩めた。
その先を、呪いのせいにはできない。
回路がつながったことで、相手の消耗は自分の身体の重さとして伝わってきた。だが、考えを読めるわけでも、意志を奪われるわけでもなかった。
イゼリアが頬の血を拭ったとき、俺にはその手を避けることができた。
近づいた顔を見て、俺は一応、尋ねたのだ。
「……これも、術を直すために必要なのか?」
「必要なら、先にそう説明しているわ」
彼女はそう答え、一度だけ視線を落とした。
俺は離れなかった。
最初の口づけは、不器用だった。その先のことを、誰かの前で言葉にできる気はしない。確かなのは、衣服が床へ落ちる頃には、俺も彼女も、止まる機会を何度か見送っていたということだ。
セリナへの気持ちが消えたわけではなかった。
だからこそ、自分で選んだことまで魔法のせいにはできなかった。
*
あとになって、イゼリアが長椅子から立とうとした。
本を取りに行くつもりだったのか、衣服を拾おうとしたのか。肘掛けに置いた指から突然力が抜け、俺も支えきれずに床へ崩れた。
何度呼んでも返事がなかった。
彼女は大きな呪いを使い、暴走を抑え、俺の傷まで処置していた。そのあとも休まずにいた身体が、ついに限界を迎えたのだろう。紋章から伝わる魔力は、細い糸のように弱くなっていた。
呼吸を確かめ、外套を掛け、助けを呼ぶために服を拾った。
そこで、扉が開いた。
思い返せば、一つずつはつながっている。
つながっているのに、どうしてこうなったという問いには、少しも答えが出なかった。
*
「アルド。黙っていたら、私には何もわからないの」
セリナの声に顔を上げた。
シャツは、まだ片腕に引っかかっていた。ようやく袖を通すと、背中の傷が熱くなった。汗で額に張りついた焦げ茶の髪を払い、左眉の古傷を指でこする。
二十七歳。王国公認の勇者。
昨日までは三日続けて戦っても歩いて帰れたが、今はズボンを履いて立つことさえ難しかった。
セリナの背後から、ガレスが入ってきた。
赤茶の短髪に、少し曲がった鼻。大柄な身体を覆う重装鎧には矢が一本残り、大盾の縁は削れていた。いつもなら無事を喜んで俺の肩を殴る男が、腰の剣へ手を伸ばす。
「……冗談だろ。お前が結界を落とすと言ったから、兵を前へ出したんだぞ。それで、これは何だよ」
彼の視線が衣服からイゼリアへ動いた。
俺は外套を掛け直した。赤い髪を巻き込まないよう端を持ち上げ、肩まで覆う。
「最初に心配するのは、そっちなのか」
ガレスの言葉に手が止まった。
倒れた女を、そのまま全員で見下ろしていたくなかっただけだ。だが、それを言っても、今の彼には届かない気がした。
「ガレス、少し待って。怒るのはあとでもできるでしょう。まず、アルドが自分の意思でここにいるのか確かめたいの」
セリナが俺の前へ来た。
「私が誰かわかる? ここへ来た理由は覚えているの? わかることだけ答えて。格好をつけなくていいから」
「……わかる。全部、覚えてる」
彼女の青い目が揺れた。
何も覚えていないと言えば、安心させられたのだろうか。でも俺は、自分から手を伸ばしたことまで覚えていた。
「なら、剣には触らないで。まずここを出よう。話は私が聞くから、一緒に来てほしいの」
俺がうなずきかけたとき、扉のそばから声がした。
「その前に、流れを止めないと」
ミレーヌが長杖を抱えて進み出た。顎までの灰色の髪に丸い眼鏡。レンズの片方にひびが入り、外套の裾は焼けている。彼女は床へしゃがみ、石の継ぎ目を流れる光へ指を近づけた。
「外壁を覆ったのと同じよ。アルドの祝福が、城へ流れ込んでる」
俺の手首から、白い光がこぼれていた。黒い光と絡み、壁の中へ消えていく。
ガレスが俺を見た。
「こっちの破城術が、全部弾かれたんだ。お前が城を守ってるのか?」
イゼリアが開いた放出回路。
俺たちが生き残るために逃がした魔力が、外の仲間を追い詰めていた。
人間の祝福と、魔王の魔力。
俺の手首から流れる二色の光を見て、ミレーヌは唇を引き結んだ。
「魔族の結界を崩すための術では、半分しか消せない。残った祝福が壁を支えてるのね。このままだと、外の兵が退くのも難しくなる」
俺は紋章を押さえた。そんなことで止まるはずもないのに、指へ力を込めずにはいられなかった。
セリナが俺の手元へ視線を落とした。
「それ、痛むの? 誰かに何かを命じられている感じはする? アルド、無理に消そうとしないで。私たちで調べるから」
「調べる間にも流量が増えてる。中心は魔王の側よ。そこを封じれば、少なくとも供給は止められる」
ミレーヌの杖先に、細い光の針が生まれた。
魔力回路を貫き、内側から封じる術。何度も助けられたことがある。彼女なら、狙った場所だけを正確に貫ける。
その正確さが、今だけは恐ろしかった。
壊れた結晶の代わりをしているのは、まだ俺たちの身体だ。片方を塞いだら、中を巡る力はどこへ行く。
「待ってくれ。そこはまだ――」
針が放たれた。
俺は床の剣へ手を伸ばし、イゼリアとの間へ身体を入れた。刀身にぶつかった光が砕け、破片が頬をかすめる。顎へ血が流れたとき、ようやく自分が仲間へ剣を向けていることに気づいた。
背後には魔王がいる。切っ先の向こうには、五年間、一緒に戦ってきた者たちがいた。
「アルド……どうして私たちを止めるの?」
セリナが杖を胸元へ引き寄せた。
説明すべきだった。結晶が壊れたことも、二人の回路がつながっていることも。だが、傷ついた彼女の顔を見て、言葉が喉につかえた。
ガレスが踏み込んだ。
盾の縁を剣で受けた瞬間、肩から腕へ痺れが走った。普段なら半歩ずれて力を逃がせる。何百回も一緒に訓練した動きなのに、足がついてこなかった。
柱へ背中を叩きつけられ、肺から息が抜ける。右手を持ち直すより早く、ミレーヌの拘束環が手首を壁へ縫いつけた。
剣が床へ落ちた頃には、もう膝も身体を支えていなかった。
「動くな。頼むから、これ以上やらせるなよ」
ガレスは剣を抜かなかった。盾だけで十分だと、俺にもわかっていた。
仲間の動きを知っていることが、何の役にも立たない。次に誰がどこを塞ぐかまで予想できるのに、逃げ道は作れなかった。
セリナが目の前へしゃがんだ。緩んだ金髪が肩から落ち、青い目が俺の頬の血を確かめる。伸びかけた指は途中で止まり、先に左手へ拘束の帯を巻いた。
「きつかったら言って。でも、ほどいてとは言わないでね。今は、そうしてあげられないの」
いつも傷を包んでくれる手だった。
寒い夜、火に近い席を譲ろうとすれば、俺の手のほうが冷たいと言って握ってくれた女だった。
「セリナ、俺は……」
「うん。聞いてる。だから、今度は途中でやめないで」
顔を上げた彼女へ、何を言えばよかったのだろう。
魔王を選んだつもりはない。仲間と敵対するつもりもなかった。それでも、目の前で俺がしたことは、もう取り消せない。
沈黙が長くなるにつれ、帯を巻く指が遅くなった。
「……私には、話せないことなの?」
首を振ったが、答えにはならなかった。
告白なんて、しなくてよかったのかもしれない。こんなときにまで、そのことを考えている自分が情けなかった。
*
床の光が揺れた。
ミレーヌが顔を上げると同時に、背後で掠れた声がした。
「その回路を封じるのは……やめてちょうだい。せっかく生き残ったのに、今度こそ二人とも焼けるわ」
イゼリアが片肘をついて身体を起こしていた。俺の青い外套を巻きつけ、赤髪を頬へ貼りつかせている。顔色は白かったが、開いた琥珀色の目には意識が戻っていた。
彼女は床の線を指でなぞった。
新しい魔力を作る余力はない。だが、城へ逃がした力なら、まだそこにある。王家の血で開いた回路を、今度は逆向きに使っていた。
壁から光が戻り、俺の足元へ黒い円が広がる。
「アルド、少し借りるわ。拒絶しないで。あなたの祝福と、もう一度喧嘩する余裕はないの」
俺は返事の代わりに指を開いた。
石床が黒い水面のようにほどけ、脚が沈む。ガレスが襟をつかんで引き上げようとしたが、右手の拘束が軋んだところで、セリナが慌てて術を解いた。
「待って、そのまま引いたら腕が! アルド、こっちへ手を伸ばして!」
自由になった手を、俺は彼女へ伸ばした。
指先が触れた。握れると思った瞬間、二人の間へ闇がせり上がり、白い袖を覆い隠した。
俺の名を呼ぶ声だけが、最後まで聞こえていた。
*
冷たい床へ転がり出た俺は、しばらく咳を止められなかった。
窓のない部屋だった。壁に古い燭台が一つあり、湿った石と、長く閉じていた戸棚の匂いがする。
イゼリアも外套を握って咳き込んでいた。壁にもたれた身体から、赤い髪が膝へ流れている。毛先が埃に触れていたが、払う気力もないらしい。
「王族用の退避室よ。城に刻んである転移先だから、行き先を計算しなくて済むの。そうでなければ、今の私に二人分なんて……」
彼女は言葉を切り、呼吸を整えた。
「外の結界も閉じたわ。あれを破るには、攻城術式を組み直さないといけない。まともな指揮官なら、今夜は退くでしょうね」
俺が壊すはずだった壁を、俺の力が守っている。その内側へ、俺自身が逃げ込んだ。
報告書に書かれる内容は簡単だった。詳しい事情を知らない者ほど、迷わず書けるに違いない。
「……どうして、俺まで連れてきた」
イゼリアは近づき、俺の手首へ指を添えた。紋章の熱が少し和らぐ。彼女の腹の辺りにも、外套越しに同じ光が透けていた。
「まだ切り離せるかわからないからよ。それに、術の中に何が残ったのか調べないと。奪う命令と、従わせる命令は消えた。でも、継ぐものを作る部分は……」
そこで彼女は口を閉じた。
尋ねようとしても、舌が動かなかった。祝福は残っている。身体も生きている。ただ、それを動かす燃料が、もうなかった。
彼女は俺の額へ手を置いた。
「配下には、私が客人として保護したと説明するわ。その代わり、人前では魔王様と呼びなさい。あなたをかくまう以上、最低限の体面は必要なの」
「……注文の多い、救助だな」
「文句は起きてから聞いてあげる。今話しても、あとで同じことを二度説明する羽目になるでしょうから」
セリナの指先を思い出した。あと少しでつかめた。つかめたとして、何を言えばよかったのだろう。
手首を支える指に、わずかに力がこもった。
誰の手なのかはわかっていた。それでも、振りほどくことはできなかった。
五年間、倒すために追い続けた女のそばで、俺は意識を失った。




