プロローグ①
好きな女に告白するなら、せめて服を着ているときにしたかった。
魔王城へ乗り込む前には、確かにそんなことを考えていた。戦争が終わったらセリナを呼び止めて、五年間、喉の奥へ押し込んできた言葉を伝える。花を渡すのは気取りすぎだろうかと、出発の直前まで悩んでさえいた。
ところが今、俺はシャツに片腕だけ通した格好で、そのセリナと向き合っている。背後には、裸の魔王が倒れていた。
「アルド。……何をしているの?」
扉の前に立つ彼女は、白い法衣の裾を泥で汚していた。金色の三つ編みは緩み、頬には煤がついている。胸元の銀の聖印を握る指が、いつもより強く曲がっていた。
セリナは、俺たちのパーティーのプリーストだ。負傷兵には辛抱強く、治療を後回しにする俺には少し厳しい。普段なら真っ先に怪我を探す青い目が、今は俺の肩から、その後ろの床へ動いた。
俺も振り返った。
ほどけた赤髪が石床に広がり、その中から二本の黒い角がのぞいていた。イゼリアの目は閉じられたままで、さっき掛けた外套も、身体を横へ向けた拍子にずれてしまっている。
肩まで覆い直そうとすると、セリナが一歩、部屋へ入った。
「待って。まず、私を見てくれる? アルドが無事なのか、それだけでも確かめたいの」
優しい声だったせいで、余計に何も言えなくなった。
せめて服を着ようとしたが、震える指が袖を取り損ねる。鎧の留め具なら暗闇でも外せるのに、今夜の俺にはシャツ一枚が複雑すぎた。
……どうして、こうなった。
*
玉座の奥には、赤い彗星が描かれていた。
黒い空を裂く尾。その下で燃える大地。教会の壁画とよく似ていたが、こちらでは人々が逃げずに、空へ手を伸ばしている。同じ星が落ちても、絵を描く側によっては救いになるらしい。
この世界には、国境を引くとき、必ず機嫌を確かめなければならない存在が四つある。
大樹の大精霊、蒼穹の竜女王、荒野の獣女王。そして、赤き彗星の魔王。人間は彼女たちを《四大君主》と呼んでいた。
四人が仲よく世界を分けているわけではない。ただ、誰か一人が動けば、残る三人も無視できないほどの土地と力を持っている。
大樹の大精霊は、地下に張った根で各地の魔力を循環させる。彼女の森を焼けば、隣国の畑まで枯れることがある。昔、それを迷信だと笑った王がいたそうだ。今では王の名より、飢饉の名のほうが有名だった。
蒼穹の竜女王は山脈と空を治める。商人は峠の通行税を領主へ払い、飛行船の通行税を竜へ払う。空なら国境を避けられると思った者は、二枚目の請求書で現実を知る。
荒野の獣女王は、獣たちの群れとともに領域を移す。昨日まで安全だった街道が、今日は巨大な牙の通り道になるので、地図を作る者からの評判は悪い。獣が国境の杭を避けて歩くわけではないのだから、仕方ない。
その三人よりも頻繁に、人間と剣を交えてきたのが、目の前の女だった。
《赤き彗星の魔王》イゼリア。
魔族の大地には、遠い昔に落ちた星の核が眠っている。そこから採れる赤い魔晶石が都市を照らし、炉を動かし、城塞を守っていた。歴代の魔王は核と契約し、それらを一つの大きな回路として扱う。
イゼリアが戦場へ出ると、空に赤い尾が走る。
初めて見たとき、俺は夕焼けだと思った。直後に丘の砦が内側から崩れたので、以来、空の色には少し神経質になった。
今夜、その城を攻めたのは、大樹の流れが半年前から弱まっていたためだ。
人間の土地では井戸や治療院の魔晶石が働かなくなり、王国は魔族が地下の魔力を奪ったと発表した。イゼリアは否定したが、直後に国境の観測所を占拠した。彗星の核へ通じる回路がある場所だった。
竜女王は空の通行を制限し、獣女王は群れを東へ移した。大精霊からは使節への返事がない。冬まで待てば、魔晶石の不足で街がもたない。
そこで人間の王たちは、俺を使うことにした。
勇者の祝福なら、彗星の結界にも干渉できる。他の三人の領域を侵さず、魔王城の中枢だけを止められる。会議では実に筋の通った作戦だった。
玉座の前へ立つのが自分でなければ、俺も感心したかもしれない。
「壁ばかり見ているけれど、見学に来たのなら案内を呼びましょうか。武器を預けてくれるなら、説明くらいは聞かせてあげるわ」
イゼリアは肘掛けへ頬杖をついていた。腰まで届く赤髪は壁画の彗星より深い色で、黒い角には銀の鎖が絡んでいる。琥珀色の目が俺と剣を順に確かめた。黒と深紅の礼服は整っていたが、指には新しい包帯が巻かれていた。
四大君主の一人にして、五年間追い続けた宿敵。その指の傷をつけたのは、十日前の俺だった。
「案内より、観測所を返してくれ。大樹から奪った魔力もだ。それで軍を引かせられる」
「まだ、その話を信じているのね。私が大樹の流れを奪えるなら、なぜ小さな観測所を守るために、自分で出向く必要があるのかしら」
「核につながる回路があるからだろう。力を増やすために」
「逆よ。あそこを壊されたら、流れ込んでくるものを止められなくなる」
初めて聞く話だった。問い返そうとした俺は、彼女の視線が足元へ動いたのを見て、剣の柄を握り直した。
「……話し合う気があるなら、その術式を消せ」
「話はするわ。ただ、その前に剣を置いてもらいたいの。あなたは自分が何を壊しに来たのか、まだわかっていないようだから」
床に刻まれた赤い線が、俺の足元でつながった。
床が光った瞬間、俺は後ろへ跳ぼうとした。
左足が離れない。靴が貼りついたのではなかった。脚を動かすはずの魔力が、別の命令に使われている。
「無理に動かないほうがいいわ。それは肉を縛る術ではないもの。先に回路が裂けるわよ」
イゼリアが包帯をほどくと、指から落ちた血が玉座の裏へ流れた。そこに、人の頭ほどの乳白色の結晶が浮かび上がる。
俺たちの世界で、魔力は燃料にすぎない。
人も魔族も、身体の中で魔力を作り、血管に似た回路へ巡らせている。だが、蓄えているだけでは火も出ない。何を、どこで、どう変えるか。その手順を指定するのが術式だった。
魔術師は文字や図形で手順を組み、詠唱で実行の順番を整える。慣れた術なら回路に形を覚え込ませ、声も図も省けるが、仕組み自体がなくなるわけではない。
料理を覚えても、鍋や火が要らなくなるわけではないのと同じだ。
俺はその例えを教わった翌日、鍋を焦がした。魔法の成績とは関係ないと主張したが、師匠には認めてもらえなかった。
使った魔力は、食って眠らなければ戻らない。一度に回路の許容量を超えて流せば、身体を内側から傷める。剣士が筋を切るように、魔術師は回路を焼くのだ。
それを補う蓄えが魔晶石だった。大地を巡る魔力を吸い、時間をかけて力を溜める。大樹の流れが衰えれば、石も回復しなくなる。
また、魔力には一人ずつ固有の波長がある。他人の力をそのまま身体へ通せば拒絶が起きるため、外部の力を借りるときにも、普通は魔晶石で性質を整えた。
魔族は人間より回路が太く、多くの力を蓄えられる。人間は道具と細かな術式で補ってきたが、俺だけは少し事情が違った。
勇者の祝福は、もう一組の回路を身体へ与える。
聖剣を通して周囲の魔力を取り込み、自分のものへ変え、傷ついた回路を補修する。普通の人間より長く戦えるのは、そのためだ。
イゼリアの結晶は、その祝福と同じ周期で光っていた。
「俺の回路を、読んでるのか」
「五年も相手をしたのよ。剣筋だけ覚えて満足するほど、私は素直ではないわ」
胸の奥が締めつけられた。
呪いは、相手の身体へ術式を残し、その持ち主の魔力で働き続ける。毒を飲ませるのではなく、毒を作る装置を身体へ埋め込むようなものだ。
彼女の術は、祝福が宿る場所を書き換えていた。俺の身体が、自分から力を別の場所へ送り出そうとしている。
「倒しても、その祝福が立ち上がらせる。なら、別の身体を与えればいい。あなたの力を継ぎ、私の血を主とする、新しい器を作るのよ」
結晶の内側には、人の回路を模した細かな構造があった。まだ身体を持たない後継者。その骨組みを、俺の祝福で満たそうとしている。
「力を移したら、俺はどうなる?」
「生きてはいるでしょうね。今ほど元気ではなくなるけれど、捕虜として暮らすにはちょうどいいわ」
俺は聖剣を床へ突き立て、《守護の祝福》を呼び起こした。
受けた術の手順から、害を与える命令を切り離す防御だ。俺の力を奪い、別の器を従わせる。その二つは、祝福が取り除ける対象だった。
圧迫が緩み、脚に自由が戻った。だが、魔法陣は消えない。結晶へ続く線の一部が白く変わっただけで、残りは動き続けていた。
イゼリアの顔色が変わる。
「待って。それ以上、術を削らないで! 継承の回路が残っているわ。そのまま器へ流したら――」
結晶に亀裂が入った。
彼女は両手を向けて文字を組み直そうとしたが、俺の祝福がそれを干渉と判断して押し返した。慌てて防御を止めたものの、間に合わなかった。
結晶が砕け、魔力が部屋いっぱいに膨れ上がった。
俺が彼女の肩を引くのと、彼女が床へ新しい術式を叩きつけるのは、ほとんど同時だった。胸当ての留め具が飛び、背中に熱が走る。
視界が戻ったとき、イゼリアは俺の手首を握っていた。その指の間で、黒と白の輪が重なっている。
「離さないで。器を失った術が、血の持ち主へ戻ってきてる。あなたの祝福まで巻き込んでしまった。この量を片方だけで受けたら、回路が焼き切れるわ」
俺の魔力が彼女へ流れ、彼女の魔力が俺へ戻る。拒絶し合うはずの二つが、紋章を通るたびに同じ性質へ変わっていた。
「つまり、俺たちで壊れた結晶の代わりをしてるのか?」
「今はね。落ち着いたら別の器へ移す。だから、もう勝手に防御しないでちょうだい。あなたの祝福は仕事熱心すぎるのよ」
「お前の呪いが諦めの悪い性格をしてるせいだろ」
言い返そうとした彼女の唇が、痛みで強張った。
魔力を流しすぎた者は、手足が冷え、震え始める。魔族も同じらしい。俺の手首を握る指は、ひどく冷たかった。
彼女は予備の魔晶石で部屋を遮蔽し、余った力を城の結界へ逃がした。暴走を防ぐためだという説明に、俺はうなずいた。
外で何が起きるか、考えるべきだった。
だが、そのときの俺には、手を離せば目の前の女が死ぬかもしれないということしか、わからなかった。




