閑話 シアン
父に蹴られた背中が痛みを訴え、シアンはなかなか寝付けなかった。ただひたすら、夜が明けるのを待つしかない。
目を閉じたまま、痛みに呻きそうになるのを堪える。隣で寝ている弟を心配させるわけにはいかない。
弟を守るのが、兄である自分の役目だ。他に頼れる者はいない。自分がしっかりしなければ。
二人の父親は気性が荒く、すぐ家族に手を上げる男だった。
それまで兄弟を庇ってくれた母親は、家を出たきり戻らない。自分たちを置いて逃げたのだとシアンは悟ったが、弟は今でも母がいずれ迎えに来てくれると信じている。
自分たちを捨てた母親への怒りはなかった。その代わり、もう母親とも思っていない。どこで何していようと、生きていようと死んでいようと興味はなかった。無関係な人生を歩む、無関係な他人だ。
酒に溺れ暴力を振るう父のことも、当然ながら血の繋がった肉親とは考えられなかった。そもそも父の方も、彼らを実の子と思っているか怪しいくらいだ。憂さ晴らしの道具としか見ていないかも知れない。
何にしろ意志疎通をする気がない時点で、獣と大差ない。成人男性の皮を被った獣と、同じ屋根の下で暮らしているわけだ。気が休まる暇など、あるはずもない。常に怯えながら日々を過ごしていた。
このままでは命の危険すらある。だが家を出ようにも行く当てがない。頼れる者などいない。
孤児になれば飢餓に苦しむ運命が待つのみ。自分一人ならともかく、弟はそんな生活に耐えられるだろうか? そんな過酷な環境へ道連れにするのに、シアンは抵抗があった。
そう悩み続ける日々は、唐突に終わりを迎える。
この日の夜もまた、弟の盾となり酔った父の前に立った。弟の代わりに、父の気が済むまで苦痛に耐える。いつものことだ。
だがこの日は運が悪かった。父が手に持つ酒瓶の一撃を、頭部へまともに受けてしまい――シアンは昏倒した。頭から生温かな血が流れてくるのを感じる。
父は、そんな彼を踏みつけ怒鳴る。ま呂律が回っておらず、まるで聞き取れない。
弟が叫び、父の足にしがみついた。それで逆上した父が、その頭に何度も酒瓶を振り下ろす。
弟を助けなければ――そう思っても、頭を殴られた影響か体が痺れたように動かない。
酒瓶が割れると、父はようやく手を止めた。肩で息をしながら見下ろす先に、ぐったりと横たわる弟の姿があった。
「――――――ッ!」
倒れ伏す弟を目にしたとたん、視界が赤く染まる。血が目に入ったからではなく、激しい怒りで。
手に残った酒瓶を投げ捨てると、父はどこかへ行こうと歩き出す。外に出て、また酒でも買いにいくのだろう。
シアンはふらつきながらも立ち上がり、足元に転がる割れた酒瓶の首を掴んだ。父への憎しみは、いまや荒れ狂う暴風のように制御不能の状態にまで至っていた。
酒瓶を構え、己の激情に身を任せ――シアンは父の背中へと突進した。
尖った酒瓶の先端は、振り返った父のでっぷりと太った腹に突き刺さった。
「がっ……!!」
苦痛の呻き声を漏らし、父はシアンの髪を鷲掴みにする。力ずくで彼を引き剥がし、そのまま床に叩きつける。
「このっ……クソ……やりやがったなっ……!」
鳩尾を蹴られ、呼吸が止まる。それから父は腹に刺さった酒瓶を握り、何とか抜こうと試みる――が、自らの血で手が滑り、上手くいかないようだ。
「クソ、が……クソ……クソ……」
悪態を吐きながら、父はシアンに背を向けた。医者にでも診てもらうつもりだろうか?
そんな父の両足を、シアンは手を伸ばし、掴んだ。
「うおっ!?」
父が前のめりに倒れる。刺さったままの酒瓶が腹に埋もれて、迸った血が床に広がっていく。
それでもなお父は身を起こそうとするも――やがて力尽き、両手足を床に投げ出して動かなくなった。
(殺った……ついに殺ったな。俺)
怒りが冷めていくと、己が人の命を奪ったという実感がわいてきた。だが罪悪感はない。死んで当然の男だと思った。
このときシアンが感じていたのは、ただ一つ。
(早く……もっと早く、こうしてりゃ良かった……)
そうすれば、弟は犠牲にならずに済んだのに――という、後悔の念だけがあった。
家族を皆なくし、シアンはこうして孤児として生きることになる。
いつか、もしまた自分に大切な存在が出来たのなら――彼、あるいは彼女を守るためなら――その身を脅かす敵を排除するのに、一切の躊躇はしない。
この手はすでに血で汚れている。今さら迷う理由はないのだから。




