二話 何もしなかったことを嘆く少年と、してしまったことを後悔する少女(4)-6
☆ (ロラン)
私兵たちはリシャールの最後を見て、慌てふためいて我先にと逃げ出した。残ったのは岩場の高台に取り残されたロランたちと、弓を構えたジャン、そして人狼だけになった。叫び声や足音が徐々に小さく遠くなり、急に静けさがあたりを包んだ。人狼の放つぜいぜいという呼吸音がはっきりと聞こえる。
「これがドルレアンだというのか……」
ジャンは当惑した表情で人狼に向き合った。
「おい、ドルレアン。話はわかるか?」
ジャンが話しかけると、人狼は地鳴りのようなうなり声を上げて威嚇する。
「ダメか……」
「ジャン!」
ロランはジャンに呼びかけた。
「俺が注意をそらしているあいだに彼女たちを助けてくれ!」
洞窟は煙が充満し、入り口からは白煙が狼煙のように上がっていた。岩山を登るのは町と反対方向になり、狼の目標にされる恐れがある。なんとか人狼を越えて町を目指す必要があった。ロランはセバスチャンに言った。
「俺が跳んだらマリーとクロエを連れて一気にジャンのところまで走るんだ。いいな?」
セバスチャンは唇を強くかみしめたまま深く頷いた。この子はとにかくマリーを守ることを最優先とするので、ロランとしても扱いやすい。問題はクロエのほうだった。
「怪我しているのに無理よ」
クロエが案の定、反対してきた。
「私の力を使って」
「また人を殺すことになるぞ。いいのか?」
クロエは人狼に目をやって苦笑した。
「あれはもう人なんかじゃないわ」
その皮肉付いた様子にロランも思わず笑みがこぼれる。
「確かに。じゃあ協力して欲しい。助けてくれるか?」
「ウィ(もちろん)」
クロエがドレスの裾を軽くつまんで、人狼を見たまま大きく頷いた。ロランはその瞳をのぞき込む。
瞳の中に映る景色を、
狼の化け物を凝視する。
吸いこまれる感覚。
紅い風景。
世界が変わった。ロランは一気に人狼に向かって走り出した。
――十数えるまでよ
クロエの声が心に響く。興奮しているのか、体の痛みもほとんど感じていなかった。ロランは助走をつけて一気に岩山を駆け下りると人狼めがけて飛びついた。剣を逆手に持ち替えて、狼と化したドルレアンの頭を狙って突き立てる。
「うおおおおおっ」
勢いがつきすぎたのか剣先はわずかに目標をそれて、人狼の肩口近くへと深々と突き刺さった。
その瞬間に視界が元に戻る。人狼から黒く濁った血が噴き出した。跳んだ勢いと暴れる人狼の反動でロランは地面へと放り出された。呼吸が止まるほどしたたかに身を打ちつける。
人狼が苦しげに吠えた。至近距離で衝撃がビリビリと鼓膜を刺激してロランは気を失いそうになる。頭を振って意識をしっかりさせると、ぼんやりとした視界にジャンの元へ駆け下りるクロエたちの姿が見えた。人狼は肩に刺さった剣を引き抜こうとして、腕が届かずにくるくると体をくねらせている。
「ロラン! 早くこっちへ!」
クロエが叫んだ。ロランは気合いを入れて起き上がると彼女目指してまっすぐ走った。怒りで猛り狂った人狼が後を追う。ジャンは弓を引き絞っていた。
ロランはクロエの瞳がのぞける位置までとにかく駆ける。すぐ後ろに人狼の気配を感じた。首筋にまで殺気がまとわりついている。ジャンが弓を放った。風の鳴る音が聞こえる。矢はロランの体をかすめて飛んでいったが、人狼に当たっているかどうか確認する余裕はなく、ひたすら疾走する。
ジャンは二本目の弓を引こうとし、クロエはじっと人狼だけを見つめていた。彼女の横でロランに手を差し伸べるマリーと、マリーの腰にしがみつくセバスチャンの姿も見える。
すべてがゆっくりとしていた。心臓が激しく脈打ち、もはや耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。張り裂けそうな心臓を必死に抑えて、ただ懸命に走った。
クロエのもとを目指す。彼女が遠い。なぜもっと早く走れないのか。なぜもっと早くクロエの元へ辿りつけないのか。自分の体がもどかしかった。ジャンが二本目の矢を引き絞る。徐々に彼女に近づいていく。やがてクロエの青い瞳がはっきりと見えた。彼女の瞳に映る自分を探し求める。
そしてその奥に人狼が――
――見えた。
一瞬で紅く切り替わる風景。ロランは数える。それは心で響くクロエの声と同調した。
――一
振り返ると、人狼が大きな口を広げてロランに喰いつかんとする直前だった。
――二
ロランはもつれるように人狼のそばに駈け寄り
――三
人狼の鼻先で止まっている矢を掴んだ。
――四
そのまま矢を人狼の眼に突き刺す。
――五
肉を抉る確かな感触があったが人狼は止まったまま微動だにせず、血も流れてはいなかった。
――六
そのまま横にまわりこんで、肩口に刺さっていた剣に手をかける。
――七
人狼の厚い筋肉に阻まれてなかなか抜くことができない。
――八
剣を握る手に思い切り力を込める。ロランは焦った。時間がない。
――九
どうにか抜いた剣をあらためて人狼に向け振り上げた。
――十
(だめだっ、間に合わない)
人狼の首めがけて剣を振り下ろそうとした瞬間、景色が元に戻った。人狼の顎が勢いよく閉じられ、矢の突き刺さった目から血が噴き出し、ロランが打ち下ろした剣は目測を外れて人狼の背中に当たって弾かれた。
前足で顔を押さえながら人狼がもんどり打った。ロランは第二撃を繰り出したが、身軽な人狼はそれを躱した。巨大な前足を振り回し、鋭利な爪がロランの腕に当たる。肉を削り血が勢いよく噴きだした。互いに距離をとってもう一度向き合う。後ろ足で地面を掻きながら、手負いの獣はロランを激しく威嚇した。ロランは膝が笑って立っているのがやっとの状況だった。剣を持つ手も小刻みに震えている。
「フシュゥ……、フシュゥ……」
「ハァ、ハァ……」
互いの荒い呼吸だけが響き渡る。
ここまでくるとあとは気迫の勝負だとロランは思った。限界であることを悟られてはいけない。ロランは努めて剣を高く掲げた。月夜の光を浴びて鈍く輝く刀身がこびりついた人狼の血肉を照らし出す。
(次に来れば、確実にお前を仕留める)
ロランは全身全霊をもって人狼に裂帛の気迫をぶつけた。人狼の真っ黒な眼がその並々ならぬ闘志を受け止めてぬらりと揺らめいた。身を伸ばして雄々しく吠える。
「オオオオオォォォォォォンッ」
夜を切り裂く猛々しい剛音だった。思わず目をつぶり、耳をふさぎたくなるような圧倒的な恐怖を伴う威圧感があたり一面を押し包む。
(来るか!?)
ロランは身構えた。
しかし人狼は姿勢を高くすると一転、身を翻して一気に森の彼方へと走り去っていった。
人狼の足音が完全に消えたあと、ロランは力が抜けて膝をついた。
「逃げたのか……」
マリーが人狼のいなくなった茂みを覗き、セバスチャンは腰が抜けたのかその場にへたり込んだ。
「一体何が何やらさっぱりわからん。大丈夫か……?」
ジャンがロランに手を差しだした。ロランは掴まって立ちあがる。
「ああ平気だよ。あいつが先に諦めたんだ。けど、その話は後だ。それよりまずは町の様子が……」
ロランはクロエを見遣った。彼女は無表情だった。
「……クロエ?」
クロエはロランを見てわずかに微笑み、そしてそのまま崩れるように倒れ込んだ。
「クロエ! クロエ!」
ロランがもつれる足を奮い立たせて駈け寄った。身を起こして揺り動かすが、クロエはぐったりとしたまま動かなかった。
「おい、クロエッ。クロエってば!!」
必死に声をかけるロランの肩をジャンが掴む。
「まずは町へ戻ろう。ここにいては危険だ」
意識を失ったクロエをマリーとセバスチャンが二人がかりで抱きかかえて、ロランたちは町へと引き返した。ジャンが前を、ロランが後ろを固めながら狼たちの間を抜ける。途中で自警団の面々も助けにやって来て、ようやく町に帰還した頃にはすでに陽も昇り始めていた。狼たちは町まで入ってくることはなく、夜が明けると森に消えた。先に逃げ出していた町の人間もどうにか全員生きて帰ってこられた。
ただひとり、リシャールを除いて。




