第15話 会いたいと言えるまで
冬が近づくにつれ、文化祭の熱気は遠い出来事になっていった。付き合い始めた頃のぎこちなさも少しずつ薄れ、二人で帰ることも、休日に会うことも日常になった。
だからこそ、陸が家族の用事で一週間県外へ行くと聞いた時、茜は思った以上に動揺した。
「一週間だけだよ」
「知ってる」
「毎日連絡するし」
「別にしなくていい」
「する」
「......勝手にすれば」
出発の日、駅まで見送りに行くつもりはなかった。なのに気づけばホームにいた。
「来てくれたんだ」
「たまたま駅に用事」
「朝七時に?」
「うるさい」
電車が入ってくる。
陸が乗り込む直前、茜は制服の袖をつかんだ。
「陸」
「ん?」
「......早く帰ってきて」
「うん」
「それだけ」
電車が出たあと、茜は自分の言葉を何度も思い返した。以前なら絶対に言えなかった。
一週間は長かった。毎晩メッセージは来た。写真も送られてきた。それでも、画面越しでは足りないと思ってしまう。
五日目の夜、茜は何度も文字を打ち直した。
『暇』
違う。
『明日何時に帰る?』
まだ明後日だ。
『別に寂しくないけど』
最悪だ。
最後に、目を閉じて送った。
『会いたい』
送信した瞬間、スマートフォンをベッドへ投げた。
すぐ着信が鳴った。
「もしもし」
『俺も』
「......何が」
『会いたい』
茜は泣きそうになった。
「そう」
『茜』
「何」
『今、絶対笑ってる』
「笑ってない!」
笑っていた。
帰ってきた日、茜は駅の改札で待った。今度は「たまたま」と言わなかった。
陸を見つけた瞬間、足が勝手に動いた。人目も忘れて腕をつかむ。
「おかえり」
「ただいま」
「......会いたかった」
「うん。俺も」
たったそれだけのことを言えるようになるまで、茜には八年と数か月かかった。
帰ってきた日の夜、陸の部屋に、茜からお土産だと言って小さな包みが届いていた。地元の駄菓子屋で買った、昔よく二人で食べていた駄菓子の詰め合わせだった。
「わざわざ買いに行ったのか」
電話越しにそう聞くと、茜は少し照れくさそうに答えた。
『駅前、通っただけ。ついでに寄っただけだから』
「ついでに、俺のために選んでくれたんだ」
『そ、そういう言い方しないでよ』
笑いながらのやり取りに、離れていた一週間の寂しさが、少しずつ埋まっていくのを感じた。
「今度、俺からも何か持ってく」
『別に、いらないけど』
「いらないは嘘だろ」
『......うるさい』
電話の向こうで、茜が小さく笑う気配がした。
翌日、学校で顔を合わせた瞬間、茜は開口一番こう言った。
「もう、一週間もいなくならないでよね」
「善処する」
「善処じゃなくて、約束して」
「わかった、約束する」
その言葉に、茜はようやく安心したように頷いた。
「会いたい」の一言を送るまでに、茜には八年と数か月かかった。だが、一度口にできてしまえば、それはもう、当たり前の気持ちとして、二人の日常に溶け込んでいった。
エピローグ 八年越しの、その先へ
春。
桜が咲き始めた公園で、陸と茜は八年前と同じベンチに座っていた。
付き合ってから半年。二人は何度も喧嘩し、何度も仲直りし、昔よりずっとたくさん話すようになった。
茜は鞄から古い星座図鑑を取り出した。
「これ、やっぱり私が持っててもいい?」
「返したじゃん」
「借り直すの」
「いつ返す?」
茜は少し考えた。
「......ずっと先」
「また八年?」
「もっと」
陸が笑った。
ページを開くと、幼い字が残っている。『あかねはこれがすき』『りくくんとみる』。その下に、茜は新しいペンで小さく書いた。
『今も好き』
「星が?」
陸が聞く。
茜はペンを止めた。
以前なら、ここで逃げた。
別に。違う。そういう意味じゃない。
何度もそうやって、本当の気持ちを言葉の裏へ隠してきた。
でも今は、少しくらいなら言える。
「星も」
「も?」
「......陸も」
陸が目を丸くした。
「何その顔」
「いや、茜が普通に好きって言ったから」
「言えるし!」
「もう一回」
「調子に乗らないで」
「じゃあ俺から言う。好き」
「......知ってる」
「茜は?」
「知ってるでしょ」
「言葉にする約束」
茜は頬を膨らませた。
そして、仕方なさそうに――けれど、嬉しそうに笑った。
「好き」
しばらくして、茜は鞄の奥から細長い箱を取り出した。
角が少し擦れている。長い間、何度も開け閉めされたものだと分かった。
「これ、何?」
「……八年分」
陸が蓋に手をかけると、茜は慌ててその手を押さえた。
「今ここで読むのは禁止!」
「じゃあ、いつ読むんだよ」
「家。私がいないところで。あと、読んでも笑わないこと」
「笑わない」
「絶対?」
「絶対」
箱の中には、出せなかった手紙が何十通も入っていた。
会いたかった日。寂しかった日。陸を忘れようとした日。それでも忘れられなかった日。
茜が言葉にできなかった八年間が、全部そこにあった。
「本当は、ずっと渡さないつもりだった」
「なんで渡す気になった?」
茜は少しだけ考えてから答えた。
「もう、昔の私だけに任せなくていいから」
今の自分なら、会いたいと言える。好きだと言える。腹が立ったら怒れるし、寂しかったら寂しいと言える。
手紙は、言えなかった言葉の墓場ではなくなった。
八年間を陸に渡しても、明日からの言葉は自分の口で伝えられる。
陸は箱を大切そうに抱えた。
「全部読む」
「……うん」
「それで、明日また茜に会う」
「毎日会ってるでしょ」
「それでも」
茜は笑った。
風が吹き、桜の花びらが図鑑の上へ落ちた。
八年前、二人は「大人になったら結婚する」と約束した。
それが本当に叶うかは、まだ誰にも分からない。
子供の約束だけで未来を決める必要もない。
大切なのは、八年前の言葉ではなく、今日も明日も互いを選び直していくことなのだと、二人はもう知っている。
陸はふと、図鑑の余白に残った幼い字を指でなぞった。
「なあ。あの約束、まだ有効だと思ってる?」
茜の肩がぴくりと揺れた。
「……知らない」
「じゃあ、もう一回約束する?」
今度は子供の勢いではなく、未来を全部決めつけるためでもなく。
いつかその日が来た時、また二人で選べるように。
茜はしばらく黙っていた。
「……今度は、忘れない?」
「忘れない」
「離れても?」
「言うよ。会いたいって」
茜は目を細めた。
「……なら、考えてあげてもいい」
「それ、約束になってる?」
「うるさい」
けれど、つないだ手は離さなかった。
「帰ろうか」
「うん」
陸が手を差し出す。
茜は迷わず握った。
公園を出る直前、陸が思い出したように言う。
「明日の弁当、何?」
「は?」
「楽しみで」
「......唐揚げ」
「やった」
「勘違いしないでよね」
茜はいつもの言葉を口にしかけて、少しだけ笑った。
「べ、別にあんたのためじゃ――」
そこで止める。
陸を見る。
「......ううん。明日は、あんたのため」
八年かけて、ようやくその言葉は嘘ではなくなった。
そして二人は、手をつないだまま春の道を歩いていった。




