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陽ノ当たる坂の途中で  作者: むーちょ


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第一話「...あと三歩」-第2章 "部室の温度"

陽ノ坂高校(ヒノサカコウコウ)の特別棟は、本校舎から少し離れた場所に建っている。


古い校舎だった。


壁の塗装はところどころ薄くなり、廊下の窓枠には長い年月をかけてできた細かな傷が残っている。階段を上るたびに小さく軋む音がして、雨の日にはどこからともなく湿った木の匂いが漂ってくる。


文化系の部活動が集まる建物で、放課後になると吹奏楽部の音や演劇部の発声練習が廊下のあちこちから聞こえてきた。


その日も、西日が長い窓を橙色に染めていた。


グラウンドの方からは運動部の掛け声が聞こえてくる。


吹奏楽部のトランペットが一音だけ外れ、誰かの笑い声が続いた。


放課後という時間には独特の空気がある。


授業が終わり、一日の役目を終えたはずなのに、そこからもう一つの時間が始まるような感覚。


家へ帰る人もいれば、部活へ向かう人もいる。


誰もが少しだけ自由になる時間だった。


軽音楽部の部室もまた、その自由な時間の真ん中にあった。


ドラムセットの横には譜面台が並び、壁際にはギターケースが立て掛けられている。歴代の文化祭ライブの写真が貼られた掲示板は少し色褪せていて、窓際には誰が持ち込んだのか分からない観葉植物がひっそりと置かれていた。


文化祭が近づくと、部室は少しだけ狭くなる。


実際に広さが変わるわけではない。


けれど、人が増える。


話し声が増える。


床に置かれる荷物が増える。


誰かが持ち込んだ資料や楽譜が机の上に積み重なり、気付けば部屋全体がいつもより慌ただしくなっている。


その変化を、拓海は最近ずっと感じていた。


ホワイトボードの前に立ち、文化祭当日の進行表を見直す。


出演順。


機材搬入の時間。


リハーサルの順番。


確認しなければならないことはまだいくつも残っていた。


消したはずの項目がまた増えている気がする。


終わりが近づくほど、やることも増えていく。


文化祭とは不思議なものだと拓海は思った。


部室の後ろでは、一年生たちが何やら盛り上がっている。


誰かがスマートフォンを見せていて、その周りに数人が集まっていた。


笑い声が上がる。


別の場所ではギターの音が鳴る。


ベースの低音が少しだけ遅れて重なる。


部室は今日も賑やかだった。


その賑やかさの中心にいるわけではないのに、部長という立場上、その全部が気になってしまう。


誰か困っていないか。


準備は進んでいるか。


忘れていることはないか。


考え始めるときりがなかった。


「宮坂先輩」


不意に声を掛けられる。


振り返ると、朝倉ひよりが立っていた。


両腕で段ボール箱を抱えている。


箱の大きさのせいで、顔が半分ほど隠れていた。


「それ、何?」


拓海が聞く。


ひよりは箱を少し持ち上げた。


「倉庫にありました」


「何が?」


「ケーブルです」


机の上へ下ろす。


段ボールが鈍い音を立てた。


拓海が中を覗き込む。


大量のケーブルが入っていた。


予想していたよりずっと多い。


「こんなにあったのか」


「ありました」


「どこに?」


「倉庫の奥です」


「よく見つけたな」


「宝探しは得意なんです」


ひよりは真面目な顔で言った。


冗談なのか本気なのか分からない。


たぶん本人は本気だった。


拓海は思わず笑う。


「そんな特技あるのか」


「あります」


「初めて聞いた」


「今、初めて言いました」


少しだけ誇らしそうだった。


その様子が妙におかしくて、拓海はもう一度笑った。


ひよりは一年生だった。


春に入部してきたばかりで、まだ三か月も経っていない。


けれど、部室の空気にはもう馴染んでいるように見えた。


誰とでも自然に話し、誰とでも自然に笑う。


特別目立つわけではないのに、不思議と周囲に人が集まるタイプだった。


「他にも何かありました?」


「いや、とりあえず大丈夫かな」


「そうですか」


ひよりはホワイトボードを見る。


文化祭の進行表。


付箋。


メモ。


書き直した跡。


その視線を追うように、拓海もボードへ目を向けた。


「まだいっぱいありますね」


「まあな」


「手伝いましょうか」


その言葉は、ごく自然なものだった。


善意だった。


部長を助けようと思っただけなのだろう。


拓海にもそれは分かった。


分かっていた。


だからこそ、ほとんど反射的に答えていた。


「大丈夫」


ひよりが瞬きをする。


「でも――」


「こっちは俺がやるから」


口に出してから、自分でも少し早かった気がした。


けれど、もう言葉は戻らない。


ひよりは一瞬だけ何かを考えるような顔をしたあと、小さく笑った。


「分かりました」


それだけ言って離れていく。


その時、一瞬だけ部室の奥の笑い声が途切れた気がした。


誰かが何かを言いかけて、やめたような。


あるいは単なる気のせいだったのかもしれない。


次の瞬間には、また別の話題で笑い声が上がっていた。


ひよりは特に気にした様子もない。


少なくとも、拓海にはそう見えた。


だから、そのままホワイトボードへ向き直る。


やることはまだたくさんある。


文化祭まで、あと十二日。


時間はいくらあっても足りない気がしていた。


窓の外では、夕陽がゆっくりとグラウンドを照らしている。


部室の中は相変わらず賑やかだった。


けれど、その温度をうまく測れないまま、拓海は再び進行表へ視線を落とした。


文化祭が近づくと、部室には不思議な熱気が生まれる。


それは夏の暑さとも違うし、ライブ本番直前の緊張とも少し違う。


楽しみと不安と焦りが入り混じったような、どこか落ち着かない空気だった。


部室のあちこちで作業が進んでいる。


出演バンドの紹介文を書く者。


機材リストを整理する者。


ライブ当日の看板を作る者。


誰もが何かしらの役割を持ち、それぞれの場所で手を動かしていた。


窓際では一年生たちが模造紙を広げている。


文化祭ライブの告知ポスターらしい。


文字の大きさを巡って意見が割れているようで、楽しそうな言い合いが続いていた。


「だから、もっと大きい方が目立つって」


「いや、これ以上大きくしたら字しか見えないだろ」


「じゃあ真ん中だけ大きくする?」


「それ採用」


笑い声が上がる。


結論は意外と早かった。


拓海はホワイトボードの前で進行表を修正しながら、その様子を横目で眺める。


楽しそうだな、と思う。


そして同時に、自分も一年生の頃はああだったのだろうかとも思う。


記憶はある。


けれど、細かい感情までは思い出せない。


人は意外と、自分の過去を忘れてしまう。


「宮坂先輩」


再び声が掛かる。


今度は別の一年生だった。


「このタイムスケジュール、印刷しておけばいいですか?」


「うん、お願い」


「何部ですか?」


「とりあえず三十」


「了解です」


一年生は軽く手を上げて部室を出ていく。


その背中を見送りながら、拓海は手元の資料へ目を落とした。


まだ終わらない。


確認することがある。


見直すことがある。


やることはいくらでも出てくる。


誰かに任せてもいいのかもしれない。


けれど、最後に確認するのは自分でなければならない気がしていた。


部長なのだから。


そんな考えが、いつの間にか当たり前になっていた。


「先輩」


今度はひよりだった。


振り返ると、ペットボトルを一本差し出している。


「差し入れです」


「ん?」


「自販機に行ったので」


「いや、いいよ」


反射的にそう答える。


ひよりの手が少しだけ止まる。


「でも買っちゃったので」


「俺の分まで買わなくていいのに」


「そうじゃなくて」


そこでひよりは少し困ったように笑った。


「部長、ずっと立ってるじゃないですか」


拓海は一瞬言葉に詰まる。


そんなことを言われるとは思わなかった。


周囲を見回してみる。


確かに、気付けばずっと同じ場所に立っていた。


作業をしている人。


雑談をしている人。


座っている人。


部室の中で立ち続けているのは自分だけかもしれない。


「大丈夫だよ」


そう答える。


ひよりは数秒だけ拓海を見る。


それから、


「そうですか」


と言った。


声は変わらない。


表情も変わらない。


けれど何かが少しだけ届かなかったような気がした。


その正体までは分からない。


次の瞬間には、ひよりは別の部員の方へ歩いていった。


ペットボトルは結局、自分で飲むことにしたらしい。


拓海は再びホワイトボードへ向き直る。


その時だった。


「相変わらずだな」


部室の入り口から声が聞こえた。


顔を上げる。


丘部義人(オカベヨシヒト)だった。


制服のシャツを少しだけ腕まくりしながら、気だるそうに立っている。


「何が?」


「全部」


義人(ヨシヒト)はそう言って笑う。


説明になっていない。


けれど、長い付き合いなので何となく分かる。


たぶん今の自分のことを言っている。


「文化祭前なんだから仕方ないだろ」


「まあな」


義人はそれ以上何も言わない。


部室の壁に軽く寄り掛かりながら、中の様子を眺めている。


楽しそうに話している一年生たち。


作業を続ける二年生たち。


ホワイトボードの前に立つ拓海。


その全部を見ているようだった。


西日が窓から差し込み、部室の床を長く照らしている。


文化祭まで、あと十二日。


部室には今日も賑やかな時間が流れていた。


けれど、その賑やかさの中にある小さな違和感に気付いている人間がいることを、拓海はまだ知らなかった。

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