第一話「...あと三歩」-第1章 "駅前の路線図"
六月も終わりに近づき、陽ノ坂市はゆっくりと夏の入り口へ足を踏み入れようとしていた。
梅雨明けにはまだ少し早いはずなのに、その日の空には雲ひとつなく、夕方になってもなお昼間の熱が街のあちこちに残っている。駅前ロータリーのアスファルトは陽射しを蓄えたまま薄く熱を帯び、歩道脇に植えられた街路樹の葉は、風が吹くたびにかすかな音を立てて揺れていた。
陽ノ坂駅は、この街で一番大きな駅というわけではない。
県庁所在地へ向かう急行も停まらないし、テレビで紹介されるような名所があるわけでもない。
それでも朝と夕方になれば多くの人が行き交い、この街で暮らす人々の一日を静かに支えている。
学校帰りの高校生。
買い物帰りの主婦。
仕事を終えた会社員。
部活帰りの中学生。
誰もがそれぞれの目的地へ向かい、誰もがそれぞれの一日を抱えながら歩いている。
宮坂拓海も、その流れの中にいた。
肩には黒いギターケース。
制服のシャツは背中に少し張り付き、首筋には汗が残っている。校門を出てから十分ほど歩いただけなのに、湿った空気は思っていた以上に体力を奪うらしかった。
もっとも、それは暑さのせいだけではなかった。
文化祭まで、あと二週間。
その言葉が最近ずっと頭のどこかに引っ掛かっている。
軽音楽部の部長になったのは春だった。
最初は単純に嬉しかったと思う。
三年生の先輩たちから部を引き継ぎ、自分たちの代になったという実感もあったし、少しだけ認められたような気持ちもあった。
けれど、実際にやってみると部長という役割は思っていたよりずっと地味だった。
ライブで目立つわけでもない。
誰かに褒められるわけでもない。
むしろ、人の見ていない場所でやることばかり増えていく。
出演順の調整。
機材の確認。
提出書類。
先生との打ち合わせ。
予算の確認。
練習日程の管理。
そうした仕事の合間にも、誰かの相談があったり、急な変更が入ったりして、一日の終わりには何をしていたのか自分でもよく分からなくなることがあった。
別に嫌ではない。
嫌ではないのだが、気付けば部活のことを考えている時間が以前よりずっと増えていた。
拓海は、楽器店へ向かう途中だった。
文化祭で使うシールドケーブルの本数が足りなかったのである。
自分の目で確かめた限りでは倉庫のどこにも見当たらなかった。
実際には倉庫の奥を隅から隅までひっくり返せば見つかるのかもしれない。
誰かに倉庫の確認を頼めば済む話なのかもしれない。
それでも、自分で確かめないと何となく落ち着かなかった。
昔からそういうところがあった。
自分でやった方が早い。
自分で確認した方が安心できる。
良いことなのか悪いことなのかは分からない。
ただ、その考え方が染み付いてしまっていた。
駅前広場へ差しかかった時だった。
ふと、視界の端に小さな違和感が映り込んだ。
路線図の前に、一人のおばあさんが立っている。
歳は七十代くらいだろうか。
薄い色のカーディガンを羽織り、小さな手提げ袋を持っていた。
その手には折り畳まれた紙が握られていて、路線図を見上げては紙へ視線を落とし、また路線図へ目を戻している。
何度も。
何度も。
まるで答えが見つからない問題を前にしているみたいに。
拓海は歩きながらその姿を見る。
ただ、それだけだった。
特に足を止めることもなく、そのまま前を向く。
駅には毎日たくさんの人がいる。
道に迷う人もいる。
困っている人もいる。
誰かが助けることもある。
珍しいことではない。
だから、自分が関わる理由も特にないように思えた。
そのまま歩き続ける。
改札へ向かう人の流れを横目に見ながら、駅前の横断歩道を渡る。
十歩。
十五歩。
二十歩。
そのくらい進んだところで、何となく振り返った。
おばあさんはまだそこにいた。
周囲の人々は絶えず行き交っている。
誰かが横を通り過ぎる。
誰かが立ち止まる。
誰かが急ぎ足で駅へ向かう。
けれど、おばあさんの前だけがぽっかりと空いているように見えた。
拓海は立ち止まる。
そしてすぐに前を向いた。
別に自分じゃなくてもいい。
そう思う。
駅前には人がたくさんいる。
誰かが声を掛けるだろう。
誰かが教えてくれるだろう。
その考えは間違っていない。
むしろ正しい。
けれど、歩き出した足はどこか落ち着かなかった。
胸の奥に小さな棘が引っ掛かったような感覚が残る。
忘れ物をした時に似ている気もしたし、やるべきことを後回しにした時の気持ちにも少し似ていた。
理由はうまく説明できない。
ただ、気になる。
それだけだった。
拓海はもう一度振り返る。
夕陽が傾き始めている。
おばあさんは相変わらず路線図の前に立ったままだった。
今度は紙を顔の近くまで持ち上げている。
少し困っているようにも見えた。
少し心細そうにも見えた。
「ああ……」
小さく息を吐く。
たった一言、声を掛けるだけのことなのに、なぜこんなに面倒なのだろうと思う。
もし勘違いだったら。
もし迷惑そうな顔をされたら。
もし聞こえなかったら。
考え始めると次々に理由が浮かんでくる。
やらない理由だけは、昔からよく思いついた。
そのくせ、やる理由を見つけるのはあまり得意ではない。
だから時々、自分でも面倒な性格だと思う。
それでも。
気になってしまった以上、このまま歩いてもたぶん楽器店へ着くまで考え続けるのだろう。
そう思った。
そして、それが少しだけ嫌だった。
拓海は踵を返した。
一歩。
二歩。
三歩。
おばあさんとの距離が少しずつ縮まっていく。
心臓が妙に大きな音を立てていた。
別に悪いことをするわけでもないのに、不思議だった。
あと数歩。
その数歩が思っていたより遠い。
途中で引き返そうかという考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、ここまで来てしまうと、それもまた妙に格好が悪い気がした。
おばあさんはまだ路線図を見上げている。
紙と路線図を見比べては首をかしげ、また紙へ目を落とす。その動作を繰り返しているうちに、だんだん周囲の景色から切り離されていくようにも見えた。
駅前を歩く人々は誰も足を止めない。
それは冷たいからではない。
皆、自分の用事があるのだ。
約束の時間があり、帰る家があり、買わなければならない物があり、会わなければならない人がいる。
それだけのことだった。
だからこそ、自分が声を掛ける理由も特にない。
そう思う一方で、ここまで来てしまった以上、もう声を掛けない理由も見つからなかった。
拓海は小さく息を吸った。
「…あの…」
思ったより普通の声が出た。
おばあさんが顔を上げる。
その瞬間、拓海はまず最初に安堵した。
ちゃんと聞こえていた。
聞き返されることもなかった。
迷惑そうな顔もされなかった。
ただ突然話しかけられて少し驚いただけ、そんな表情だった。
「あっ」
おばあさんの目が少し丸くなる。
「ごめんなさいね」
なぜか先に謝られてしまった。
拓海は思わず笑いそうになる。
「いえ、大丈夫です」
「あら、ごめんなさいね、本当に」
「何か困っていますか」
そう聞くと、おばあさんは手元の紙を見た。
そして少し安心したような顔で、それを差し出した。
「この病院へ行きたいんだけどねぇ」
紙には病院名と住所が印刷されていた。
市立中央病院。
拓海にも見覚えのある名前だった。
中学生の頃、部活中に指を痛めて一度だけ行ったことがある。
「ああ、ここなら隣の駅ですよ」
「そうなの?」
「はい。電車で一駅です」
おばあさんの表情が少し明るくなる。
それを見て、拓海も肩の力が抜けた。
どうやら本当に困っていたらしい。
路線図を指差しながら説明する。
何番ホームから乗ればいいのか。
どこで降りればいいのか。
改札はどちらなのか。
おばあさんは何度も頷きながら話を聞いていた。
「なるほどねぇ」
紙を見て。
路線図を見て。
また拓海を見る。
その繰り返し。
まるで授業を受けている生徒みたいだと、ふと思った。
「これなら行けそうですか」
「うん、大丈夫」
おばあさんは笑った。
さっきまでの困ったような表情が消えている。
それだけで十分な気がした。
「ありがとうねぇ」
「いえ」
「助かったわ」
言われてみると少し照れくさい。
何か特別なことをしたわけではない。
路線図を読んだだけだ。
たまたま知っていただけだ。
それでも、相手にとっては違ったのかもしれない。
人に感謝されることに慣れているわけではなかった。
だから返事の仕方がよく分からない。
「気を付けて行ってください」
結局、そんな当たり障りのない言葉しか出てこなかった。
おばあさんは嬉しそうに頷く。
「あなた、優しいのねぇ」
その言葉に、拓海は少しだけ困った。
優しいのだろうか。
本当に優しい人なら、あんなに長く迷わない気もする。
最初から声を掛けている気もする。
だから何となく、その言葉を素直には受け取れなかった。
「そんなことないですよ」
そう言って軽く頭を下げる。
おばあさんも会釈を返した。
そして改札の方へ歩いていく。
人の流れに混じりながら、その背中は少しずつ小さくなっていった。
途中で一度だけ振り返り、もう一度頭を下げる。
拓海も慌てて頭を下げ返した。
それから、おばあさんの姿は改札の向こうへ消えていった。
残ったのは、いつもの駅前だった。
バスが発車する音。
改札を通る人々。
商店街から聞こえてくる店員の呼び込み。
ついさっきまでと何も変わらない。
けれど、自分だけが少し長い時間そこに立っていたような気がした。
時計を見る。
実際には数分も経っていない。
それなのに、不思議と疲れた気もするし、少しだけ肩の荷が下りた気もする。
最初から声を掛ければよかった。
そう思う。
けれど、おそらく次も同じように迷うのだろうとも思った。
人はそんなに急には変われない。
少なくとも、自分はそうだった。
夕陽は駅前のガラス窓に反射しながら、街を橙色に染めている。
その光の中を歩き出しながら、拓海はふと考えた。
あのおばあさんは、無事に病院へ着くだろうか。
たぶん着くだろう。
大丈夫だと思う。
根拠はない。
ただ、そんな気がした。
そしてその時、自分でも理由の分からない小さな満足感が胸の奥に残っていることに気付いた。
誰かを助けたからではない。
迷ったまま終わらなかったからかもしれない。
その違いは、まだうまく言葉にできなかった。
拓海は肩に掛けたギターケースを持ち直し、再び歩き始めた。
駅前の広場を抜けると、緩やかな上り坂が続いている。
陽ノ坂市の名前の由来になった坂だと聞いたことがあった。もっとも、本当かどうかは知らない。昔からそう呼ばれているだけかもしれないし、誰かが後から付けた話なのかもしれない。
ただ、夕方になるとその坂に西日が差し込み、街全体が柔らかな橙色に染まる光景だけは、子どもの頃から変わらなかった。
坂の途中には古いパン屋がある。
その隣には文房具店があり、さらに少し進むと小さな公園が見えてくる。
毎日のように通っている道だった。
だから特別な景色だと思ったことはない。
けれど、もし明日この街を離れることになったら、きっと真っ先に思い出すのはこういう風景なのだろうとも思う。
名前も知らない誰かとすれ違い、見慣れた店の前を通り過ぎ、夕焼けに照らされた坂道を上って帰る。
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことなのに、人は案外そういうものを覚えている。
坂の途中で足を止める。
振り返ると、駅前のロータリーが少しだけ見えた。
さっきまでいた場所はもう遠い。
おばあさんの姿も見えない。
きっともう電車に乗っている頃だろう。
拓海は小さく息を吐いた。
あの時、振り返らなければどうなっていただろう。
そのまま楽器店へ向かっていたら。
あるいは、声を掛けようとしてやめていたら。
たぶん何も変わらなかった。
夕飯を食べて。
風呂に入って。
宿題をして。
明日も学校へ行く。
それだけだ。
それでも、どこかに小さな引っ掛かりだけは残った気がする。
そういうものが、いつまでも消えずに残ることを拓海は知っていた。
だからこそ、今日は少しだけ違った。
本当に少しだけ。
三歩だったのかもしれない。
あるいは、それより短かったのかもしれない。
けれど確かに、自分はあの場所で立ち止まり、振り返り、前へ進んだ。
それだけは間違いなかった。
夕陽は坂道の先まで続いている。
拓海は再び歩き出した。
家へ向かうために。
そして、まだ知らない明日の方へ向かうために。




