第24話 糸を手繰る
――前回のあらすじ――
捕らえていた賊の頭・裴牛を、俺は力ではなく、仲間の命を見せることで、配下に迎えた。だがその裴牛の口から、不穏な事実が漏れた。あの襲撃の裏に、商人風の男がいた。武器も銭も用意し、「ある御方のご意向だ」と言い残して消えた、と。裴牛たちの襲撃は、偶然ではなかった。誰かが、暗がりから、糸を引いていた。そしてその狙いは――名を上げはじめた俺ではなく、李家そのものだったのかもしれない。俺は見えない敵の輪郭を、手繰りはじめる。
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敵が見えない。
これほど厄介なものはない。
前世でいちばん怖かった競合は、顔の見える相手ではなかった。名刺を交換し、酒を酌み交わし、堂々と価格で殴り合う相手なら、まだいい。本当に怖いのは、どこかでこちらの手の内を覗き、いつのまにか足元を掬っていく影の相手だ。誰がいつ何を仕掛けてくるか、わからない。それは、夜道で背後の足音だけが聞こえているようなものだ。
今の俺がまさに、それだった。
決戦に勝ち、裴牛を配下に迎え、劉表にも認められた。表向きは、すべてうまくいっている。だがその足元に、見えない穴が開いているかもしれない。そう思うと、勝利の充実感は急速に色を失った。前世で、絶好調の四半期の裏側に致命的な不良債権が隠れていたときの感覚に、似ていた。順調なときほど、足元は危うい。
「子徹どの」徐庶が書き物の手を止めて、俺を見た。「お顔の色が、よくありません」
「眠れなくてな」俺は苦笑した。「見えない敵ってのは、たちが悪い。何を警戒すればいいのか、それすらわからない」
「ならば」徐庶は、筆を置いた。「まず、敵を見えるように、しましょう」
―――
俺たちは、裴牛から、聞き出した手がかりを、並べた。
一つ。襄陽の李家を襲うよう賊をそそのかした、商人風の男がいた。二つ。その男は、武器と銭を用意した。三つ。男は「ある御方のご意向だ」と言い残した。
「商人風の男、というのが引っかかります」徐庶は、顎に手を当てた。「武器と銭を、ぽんと用意できる商人。それも、賊と渡りをつけ、襲撃の段取りまで、組める。……ただの、商人では、ありません」
「裏の仕事に慣れてる、ってことか」
「ええ。そしてその背後に『ある御方』がいる。つまり、その商人は雇われです。糸の端っこにすぎない」
俺は頷いた。
糸の端を、手繰れば、必ず、その先に、結び目がある。商人風の男を辿れば、「ある御方」へ、行き着く。問題は、その糸がもう切れているかもしれない、ということだ。襲撃は失敗した。雇い主は、用済みになった糸をとっくに切り捨てているだろう。
「趙累」俺は組織化の名手を呼んだ。「お前の、人脈で、調べてほしい。冬の前、襄陽の周りで妙な動きをしていた商人がいなかったか。大量の武器を買い集めた者。賊と接触していた者」
「お安い御用で」趙累は、にやりと笑った。「人足や荷運びの連中は、よく、見ています。銭で動く者ほど、口も軽い。何か、引っかかるでしょう」
―――
数日が過ぎた。
その間、俺は努めて、いつも通りに過ごした。
不安を顔に出せば、家中がざわつく。父や母を、いたずらに怖がらせたくはなかった。綾には、なおさらだ。だから俺は、妹と本の話をし、兄と剣の素振りを眺め、商いの帳面に目を通した。日常を崩さないこと。それも、見えない敵へのひとつの構えだった。
兄・李澄は、このごろ剣の腕をめきめき上げていた。素振りの音が、以前より鋭い。俺が縁側で眺めていると、兄は汗を拭いながらぽつりと言った。「お前が頭で戦うなら、おれは腕で守る。それぞれの戦い方だ」と。俺は笑って頷いた。兄は、何も詳しくは聞かない。だが、何かを察している。そして、自分にできることを黙って磨いている。ありがたい、と思った。
動揺している姿を見せれば、敵を喜ばせるだけだ。
前世の商談でも、同じだった。不利な状況ほど、平然と構える。焦りを悟られた瞬間に、足元を見られる。
四日目の夜。趙累が、戻ってきた。
その顔は、いつもの飄々としたものではなかった。どこか、硬い。
「子徹どの。……一人、いました」趙累は声を落とした。「冬の少し前、襄陽の北の宿場町にひと月ほど滞在していた商人がいる。絹を扱っていると名乗っていたそうですが――その割に、絹を、売り買いした様子が、まるで、ない」
「絹を扱わない絹商人か」
「ええ。代わりに、人とよく会っていた。それも、堅気には、見えない連中と。宿場の主人が、覚えていました。背の高い痩せた男で――左の頬に古い刀傷があった、と」
左の頬に、刀傷。
俺はその特徴を、頭に、刻んだ。
「その男は今どこに」
「それが」趙累の顔が、曇った。「襲撃のあったすぐ後に、宿を引き払って姿を消した。行き先は、誰も知らない。……ですが」
「ですが?」
「宿の払いを、その男はある屋号の手形で済ませていた」趙累は一枚の紙片を差し出した。「『豊隆号』。襄陽では、聞かない屋号です。調べてみると――これは、南郡の大きな商家の屋号でした」
俺は、その紙片を受け取った。墨の跡は、もうかなり古びている。だが、押された印は、はっきりと読めた。豊隆号。聞いたことのない名だ。それでも、この一枚の紙片から物語の重みが、ずしりと増した気がした。賊を雇った男は、確かに実在した。その証が今、俺の手の中にある。
南郡。
俺の頭の中で、地図が開いた。荊州の中心。州都・江陵を擁する要の郡だ。劉表のお膝元でもある。
商人風の男は、南郡の商家と繋がっていた。
―――
俺はしばらくその紙片を、見つめていた。
ここから先は、慎重に進まなければならない。
南郡の商家、豊隆号。その名が、糸の次の結び目だ。だがいきなり踏み込むのは、危険だ。相手は、賊を、動かし、襲撃を、仕掛けるほどの、力と、悪意を、持っている。下手に、突けば、こちらの動きを、悟られ、次の手を、打たれる。
それに――豊隆号そのものが、黒幕とは限らない。
商人風の男が雇われだったように、豊隆号もまた、もっと上の誰かに使われている駒かもしれない。「ある御方」は、まだずっと奥にいる。
俺はふとひとつの、考えに、行き着いた。
この件、俺一人で抱えるには、大きすぎる。
「徐庶」俺は言った。「この話、機伯どのに相談してみようと思う」
徐庶の眉が、動いた。
「伊籍どのに? しかし、これは、李家の、内々の話。荊州牧のお役人に明かすのは――」
「だからこそ、だ」俺は言った。「豊隆号は、南郡の商家。南郡は、劉表さまの、お膝元だ。もし本当にその奥に『ある御方』がいるとしたら――それは、荊州の、内側にいる、誰か、かもしれない。だとすればこれは、もう李家だけの、問題じゃない」
俺は、息を吐いた。
「それに機伯どのは、人を、見る名人だ。豊隆号という糸を渡せば、その先に何が繋がっているか、俺なんかよりよっぽど早く見抜くだろう」
徐庶はしばらく考えていた。
それからゆっくりと頷いた。
「……賢明なご判断かと。ですが、子徹どの。ひとつ、忠告を」軍師の目が、鋭くなった。「伊籍どのは、信頼に、足る御方だ。それは、間違いない。ですが――伊籍どのが仕えているのは、劉表さまです。あなたでは、ない」
「わかってる」
「もし、この糸の先が荊州の中枢の奥深くに繋がっていたとしたら。伊籍どのは、あなたと劉表さま、どちらを選ぶか。……その覚悟だけは、しておかれませ」
―――
翌日、俺は伊籍を李家に、招いた。
いつもの客間で。だが、いつもの世間話では、なかった。
俺は裴牛から、聞いた話を、すべて、伊籍に打ち明けた。商人風の男のこと。「ある御方」のこと。そして、左頬に刀傷のある絹を扱わない絹商人と、豊隆号の手形のこと。
伊籍は、黙って聞いていた。
その線の細い顔から、いつもの人懐こさが消えていた。代わりに、深い思索の影が差していた。
話し終えると、伊籍は長いこと沈黙した。
その沈黙の長さが、事の重さを物語っていた。いつもなら、伊籍はこちらの話の途中で要点を掴み、軽く相槌を打つ。だが今日は、一言も口を挟まなかった。最後まで黙って聞いた。それは、この話が彼自身の中で簡単には処理しきれない何かに触れた、ということだ。
やがてぽつりと言った。
「李どの。あなたは、なぜこれを、わたしに」
「機伯どのが、いちばん信頼できるからです」俺は、正直に言った。「そしてこれは、李家だけの、問題では、ないかもしれない。荊州の内側に、賊を動かすほどの悪意を持った者がいるとしたら。それは、いずれ、劉表さまの、平らかな州を、揺るがす」
伊籍の目が、わずかに、揺れた。
それは、徐庶が案じていた、まさに、その一点だった。俺は伊籍に選択を、迫っていた。李家の味方として、動くのか。それとも、劉表の臣として、これを、上に、報せるのか。
だが、俺はあえて、その二択を突きつけなかった。
「機伯どの。俺はあなたに、味方になってくれとは言いません」俺は言った。「ただこの糸の先に、何があるのか。それを、あなたの、目で、見極めてほしいんです。それが、劉表さまのためにも、なると、俺は思うから」
伊籍は俺をじっと見つめていた。
それから深く息を、吐いた。
「……末恐ろしい御方だ」伊籍は、苦笑した。「あなたは、わたしに、李家と劉表さま、どちらかを選ばせない。両方のためになる、と言って、わたしを動かす。……断れぬ頼み方を、なさる」
「営業の癖です」
ついまた、口を、滑らせた。だが今度は伊籍は聞き流さなかった。
「えいぎょう、と。前にも、言っておられたな」伊籍は、首を傾げた。「商いの符牒にしては、妙な言葉だ。……李どの。あなたは、ときどき、どこか遠い、別の国から、来た人のような、ことを、言う」
俺の心臓が、跳ねた。
危ない。この男は、人を見る名人だ。俺の正体の、糸口を、知らぬ間に、手繰りかけている。
「気のせいですよ」俺は、笑ってごまかした。「読んだ本が、多いだけです。本の中には、いろんな国の言葉が、ありますから」
伊籍はしばらく俺を見ていた。
それから、それ以上は追及せず、立ち上がった。
「豊隆号の件、調べてみましょう」伊籍は、言った。「ただし、内々に。あなたの名も、李家の名も、出さぬように。……これは、わたしと、あなたの、二人だけの、糸です」
【伊籍 信頼度:85 → 91】
―――
伊籍を見送った後。
俺は一人、庭に出た。
日が暮れかけていた。空が、茜色から藍色へと染まっていく。その境目の、淡い色を、俺はぼんやりと、眺めていた。
糸は、確かに手繰れた。商人風の男から、豊隆号へ。豊隆号から、いずれ「ある御方」へ。そして伊籍という、最も鋭い、目を、その糸に結びつけた。一歩、前に進んだ。
だが、進めば進むほど、わかってくることがあった。
この糸の先には、たぶん荊州の、いちばん、暗い、ところが、ある。賊を動かし、人の命を駒のように使う者。そういう人間が、平らかな荊州の裏側に潜んでいる。
俺はいつか、その人間と対峙する。
そのとき、俺は――殺さずに済むだろうか。
黄忠も、徐庶も裴牛も。これまでは、敵すら、味方に、変えてきた。誰も、殺さずに、ここまで、来た。それは、運が、よかったからでも、ある。相手が、最後には、心を、開いてくれる、人間だったからだ。
だが、もし。
心の鍵がどこにもない人間が、いたとしたら。守りたいものも、譲れない芯も、何も持たない。ただ人を、踏みつけることに、何の、痛みも、感じない。そういう、人間が、糸の先に、いたとしたら。
俺は、その人間をどうするのか。
背中に、冷たいものが走った。
「兄さま」
声に振り向くと、綾が立っていた。手には、いつもの竹簡。だが今日はそれを、読んでいなかった。じっと俺の顔を、見ている。
「兄さま、こわい顔、してる」
「……そうか」俺は慌てて表情を、緩めた。「ごめんな。なんでもないんだ」
「うそ」綾はまっすぐに言った。「兄さまは、わたしに心配かけまいとして、すぐうそをつく。前も、そうだった。賊が来たときも、こわくないって言ったでしょ。でも、ほんとはこわかったでしょ」
俺は、言葉に詰まった。
十二歳の妹に、見抜かれていた。
俺が家中に隠していた不安を。この子だけは、ちゃんと見ていた。信頼度100。完全解放。この子の興味スイッチは――置いていかれることを恐れる。だからこの子は、誰よりも、俺を見ている。俺がどこかへ、行ってしまわないか。一人で何かを抱え込んでいないか。
「綾」俺は、しゃがんで妹と目線を合わせた。「お前には、嘘はつけないな」
「あたりまえでしょ」綾は、ちょっと得意げに胸を張った。「わたし、兄さまの妹だもの」
俺は、笑った。
心の底から。
「実は、ちょっと厄介な相手と戦うことになりそうなんだ」俺は、正直に言った。「剣で戦うんじゃない。頭で戦う。だから、ちょっとこわい顔になってた」
「勝てる?」
「わからない」俺は、首を振った。「でも、勝つさ。お前を置いていかないって約束したからな」
綾の顔が、ぱっと輝いた。
「じゃあ、だいじょうぶだ」綾は言った。「兄さまは、わたしとの約束を破ったこと、一度もないもの」
その、まっすぐな信頼が、胸に刺さった。
ああそうだ、と俺は思った。見えない敵が何だ。糸の先に、どんな暗がりがあろうが。俺には、守りたいものがはっきりとある。この子の、この笑顔だ。
それだけは、絶対に譲れない俺の固い芯だ。
考えてみれば、これまで配下にしてきた者たちも、皆それぞれの「固い芯」を持っていた。徐庶は民を見捨てない仁を、黄忠は武人の誇りを、裴牛は仲間の命を。俺は、その芯を見つけることで、彼らと縁を結んできた。ならば、糸の先にいる「ある御方」とやらにも、きっと芯がある。それが何なのかを見極めることが、この戦いの勝ち筋だ。
たとえ、それがどれほど醜い芯だったとしても。
日が沈んだ。
藍色の、空に一番星が、瞬いた。
俺は綾の手を、引いて、家へ、戻った。明日もまた、糸を手繰る。一本ずつ確かに。そしていつか、その糸のいちばん奥に、いる者と、向き合う。
そのときまでに、俺はもっと強くならなければ。
力では、ない。人を見抜き、人を動かし、人を救う――その強さで。
(第24話・了)




