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魔術院を出ていない俺が、王立魔術法務団のエースに拾われて法務官になった件  作者: 御蔭
魔術法務官の条件

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2-2

 ヴィクトルの傍らに、もう一人の男が立っていた。若い男だ。糊のきいた法務官の制服を着こなしている。カイより二、三歳年上に見えた。


「紹介しよう。エーリッヒだ。去年の選考で採用された法務官だ」


 ヴィクトルの声は平坦だった。エーリッヒがカイに軽く頭を下げた。顔は緊張に強張っていたが、その立ち姿からは自信が窺える。


「魔術院を首席で卒業している。この一年で最も期待されていた人材だ」


 エーリッヒの頬が微かに緩んだ。称賛を受け、誇らしげに顎を引く。だが、カイは直感的に違和感を覚えた。ヴィクトルの声には、人間を褒める時の温度が微塵もなかったからだ。それは紹介というより、商品に値札をつけてから棚から下ろす、検品作業のような響きだった。


「こちらに座れ」


 ヴィクトルが壁際の椅子を指した。カイに向けた言葉だった。余計な口を挟まずに見ていろ、という意味だと理解した。


 ヴィクトルがエーリッヒに向き直った。


「先月の案件、魔力残留の鑑定結果はどうなった」


「……術式の痕跡が想定以上に複雑で、正確を期すためにもう少し時間をいただければ——」


「鑑定の基本手順は五つあるはずだ」


 ヴィクトルの声は静かだった。怒鳴ることも、声を荒げることもしない。それがかえって、室内の空気を急速に凍りつかせた。


「マナの残留密度、術式の構造解析、発動時刻の推定、術者の魔力署名、そして周辺への影響評価。どれが終わっていない」


 エーリッヒが喉を鳴らした。唾を呑み込む音が、静寂の中でやけに大きく響いた。さっきまでの「期待の新人」の余裕は霧散していた。


「……魔力署名の、照合が遅れております」


「催促は三度目だ」


 ヴィクトルの声の温度が、もう一段下がった。銀縁の眼鏡の奥にある目が、逃げ場を塞ぐようにエーリッヒを射抜いた。


「術式の解析一つまともにできない法務官に、この団にいる資格はない。明日から来なくていい」


 エーリッヒの顔から、さあっと血の気が引いた。信じられないといった様子で口を半端に開け、そのまま閉じた。魔術院を首席で卒業し、嘱望されていた男が、カイの目の前で一瞬にして切り捨てられた。

 首席でも、こうなるのか。

 カイは自分の喉が、砂を噛んだように乾いていくのを感じた。


 エーリッヒが幽霊のような足取りで一礼し、部屋を出ていった。扉が閉まる重苦しい音が、いつまでも耳に残った。


 ヴィクトルがカイに向き直った。無造作に眼鏡の位置を直した。その神経質な指の動きが、次の言葉こそが本題であるという合図だった。


「私の下では、魔術の基礎すらできない人間は残れない。首席だろうと、家柄が良かろうと、関係ない。……覚えておけ」


---


 日が暮れてから、カイは宿に戻った。


 路地の奥にある安宿。壁が薄く、隣の部屋の寝息が聞こえるような場所だった。孤児院を出てからずっとここにいる。家賃は月に銅貨数枚。それでも、自分だけの扉があるというのは悪くなかった。


 扉が開いていた。


 カイの足が止まった。朝、鍵はかけた。かけたはずだった。右手が腰に伸びかけて、止めた。武器は持っていない。法務官になったのだ。路地の喧嘩の癖を出す場面ではなかった。


 中を覗いた。ニコが椅子に座っていた。カイの椅子に。カイのテーブルに足を乗せて、安酒の瓶を傾けている。窓から差し込む月明かりで、丸い顔が白く浮いていた。


「おう。引っ越したのかと思って見に来た」


 悪びれた様子はなかった。いつものニコだった。いつものように勝手に入って、いつものように笑っている。


「どうやって入った」


「鍵なんかかかってなかったぞ」


 嘘だった。カイは今朝鍵をかけた。ニコには鍵がなくても入る方法がある。孤児院の頃から、そういう男だった。


「出てってくれ」


「待てよ」


 ニコが椅子から立ち上がった。酒瓶をテーブルに置いた。瓶が木に当たる音が、狭い部屋に響いた。笑顔が消えていた。


「チルトン亭の件、どうなった。あの荷物は」


「おとり捜査だった」


 ニコの体が止まった。一瞬だけ。すぐに動き出したが、カイはその一瞬を見逃さなかった。


「捕まってたら終わりだった。わかるか。禁制呪具の運搬だぞ。投獄だ」


 カイの声が上がった。平坦にしていたはずの声が、勝手に上がった。


「ミーシャがいるんだ。俺が捕まったら、あいつの治療費を誰が払う。誰があいつのところに行く。誰が——」


 声が詰まった。カイは自分の声が震えていることに気づいて、口を閉じた。息を吐いた。もう一度吸った。


「知ってたのか」


「前の晩に聞いた。連絡しようとした。けど——」


「けど、できなかった。いつもそうだ」


 カイの声は平坦に戻っていた。怒りが引いた後に残る声だった。もっと冷たいものだった。


「今回は本当に——」


「孤児院の食料庫の件、覚えてるか」


 ニコの目が泳いだ。笑顔を作ろうとして、作れなかった。


「お前が盗んだのに、院長には俺がやったことになってた。お前は黙ってた」


「あれはガキの頃の——」


「市場で追われた時も、お前が先に逃げて俺が捕まった。港の仕事でも、南区画の件でも、毎回お前は『知らなかった』『仕方なかった』で、毎回俺が走って逃げてる」


 ニコの口が閉じた。反論ではなかった。反論する言葉を探す目だった。けれど見つからなかった。カイが言っていることは、全部本当だったから。


「ガキの頃からずっとだ。お前は自分が逃げる時に、隣にいる奴のことを考えない。考えられない。そういう人間だ」


 部屋の空気が重くなった。窓の外で野良犬が吠えた。遠い声だった。


「お前とは、もう縁を切る」


 カイは静かに、しかし決定的な響きで告げた。


 ニコが一歩前に出た。目が赤くなっていた。酒のせいかもしれない。けれど声は、酒の声ではなかった。


「本気かよ。孤児院からずっと一緒だったろ。お前がいない世界なんて——生きてても面白くない」


「なら死ね」


 言葉が落ちた。石が水に落ちるように、波紋も立てずに沈んだ。


 ニコの目が丸くなった。冗談を待っている目だった。カイがいつものように笑って、「冗談だ」と言うのを待っている目だった。けれどカイの目は動かなかった。まばたきもしなかった。


 沈黙が伸びた。長い沈黙だった。狭い部屋に二人の呼吸だけが聞こえた。


 ニコが何か言おうとした。口が開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。言葉を見つけられなかったのではない。言葉にすると、本当に終わってしまうと思ったのかもしれない。


 カイは扉を開けたまま立っていた。出て行けという意味だった。


 ニコはカイの横を通り過ぎた。通り過ぎる時、肩が触れた。触れかけて、触れなかった。ニコの方が避けた。


 足音が路地に出た。遠ざかっていった。カイは足音が聞こえなくなるまで、扉を開けたまま立っていた。


 それから扉を閉めた。鍵をかけた。今度は確かめた。


 テーブルの上に、ニコの酒瓶が残っていた。半分ほど残っている安酒。カイはそれを見つめた。手を伸ばしかけて、やめた。瓶をそのまま窓の外に出して、路地に置いた。


 部屋に戻ると、ニコの座っていた椅子だけが、少しだけ位置がずれていた。



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