第四章 ‶眠り姫‶ 玖院風花
全てのカーテンの閉め切られた豪華な内装の部屋に、一人。大人二人は優に寝ることができるベッドの端に座りながら契助は壁に設置されたテレビの電源を点ける。
チャンネルを適当に弄るが、どのニュース番組も昨日のテロ事件の報道ばかりだった。学園都市内でも滅多に起こらない能力犯罪、それも学園都市を賑やかす『学都祭』の開催が近い時期での事件だ。誰しもが注目するのは当然とも言える。
情報統制がされているのか、犯人の要求内容に《アダム》、《月下猟犬》を匂わせる説明はない。能力犯罪を犯した者の解放を望んでいた犯人が警察と学都管理局に爆破テロを起こすと脅し、交渉の余地もなく実行に移したと報道されている。
ニュースのコメンテーターが「犯人は本気であることを示したのではないか。次のテロが犯人の本命だ」などと予想している。
内情を知らなければそんなものか、と契助が溜息を吐いているところにチョーカーから通信音声が届く。
『やあ、ケースケ。勝田宗生について、裏が取れた。研究所で君が倒して蘇生した‶狂戦士‶が自白したよ。勝田が研究所の所長をしていたことを』
「そうか、確定したんだな」
『警察や学都管理局には勝田について伝えている。昨日、事件後に勝田宗生と思われる人物がモール付近を歩いていたという情報も入っているし。そこから、また行方をくらませられちゃったけど』
「勝田宗生の狙いは、なんだったと思う? 能力犯罪者の解放は建前で、真の狙いがあっただろ」
『さぁね。テロの名目でケースケを殺すつもりだったか、トラウマを刺激するような八重波七海に対する嫌がらせか、それらがついでの愉快犯か……聞いてみないとわからないよ』
「だよな……」
先程よりも深い溜息を吐きながら、ドサリとベッドに倒れ込む。
死者四名、重傷者二十八名、その他軽傷者数名。
《月下猟犬》の迅速な対応により、死者は爆弾へと変えられてしまった男女二人だけで済んだ。四人中のもう二人は契助と七海の偽装分だ。
即死の二人以外、爆発に巻き込まれて瀕死だった被害者は‶騎士団長‶の部下である‶ベータ‶を筆頭とした臨時救護部隊によって一命を取り留めている。
「あと少し早く、殺す判断ができていれば……」
必死に助けを乞う異常な様子の二人を見て、すぐさま首を刎ねるという選択をしなかった。‶殺人鬼‶たる契助なら、間違いなく人目があろうと異常を消すために行動していたはずだ。
迷い、躊躇った理由は……言うまでもなく、契助は理解していた。
『話は変わるけど、研究所に残されていたデータ……まぁ消去されていたり暗号化されていたりで全ての解明はまだ終わっていないんだけど、データの一部は読み解けたよ』
「ナイスだ、相棒。それで、何がわかったんだ?」
『ケースケ達が踏み込んだ研究所――【エリアL-2】と呼ばれてたらしいけど。そこで行われてるのは、やっぱり人体実験だったよ』
有能な『能力』を持つ子供を誘拐し、実験体とする。いつもの《アダム》の手口だ。
【エリアL-2】では、その子供達を利用した能力向上研究、能力相殺実験、能力合成開発などを行っていた記録が残されていたらしい。
能力をより強く発展させる能力向上研究、異なる能力を用いて能力同士の効果を打ち消すことを調べる能力相殺実験、違う種類の能力を組み合わせて新たな効果を生み出す能力合成開発。
これらが非倫理的な手段で、非人道的な目的のために研究されている。
許せねぇ、と契助は唇を噛む。
『研究はそれだけじゃないよ。勝田宗生が生み出した新薬の実験の記録もある。人を化物へと変化させる『Mドラッグ』、体内から爆発を生み出す『Bドラッグ』、効果はわからないけど、他にも『Aドラッグ』や『Nドラッグ』って薬もあるみたい』
「未だ世に出回っていない新薬か……こんなのが広まったら、いつ何が起こるかわからないな」
『幸いなのは、これを生み出せるのは『薬剤精製』を持つ勝田宗生だけ。勝田さえ捕まえれば全て解決する』
「だな……あとは奴の居場所さえ突き止めれば……」
『そこはボクらの仕事だからね。頑張るさ』
またエナドリ発注してもらわないと、というネコの溜息がチョーカーから流れてくる。スーパーハッカーでも、やはり裏社会最大規模の犯罪組織相手には一筋縄ではいかないらしい。
契助としては無茶だけはしないでもらいたいが、そうも言ってられないのが現状なのだろう。勝田宗生を捕まえるまでは、今回の件は何も終わらないのだから。
『そうそう。大事なことを言い忘れてた』
「ん?」
『能力者の実験とか薬の精製とかはいつもの《アダム》らしいんだけどさ、もう一つ何か実験していたっぽいんだよね。実験というか……開発?』
「詳細は?」
『ごめん、完全に消去されていて何もわからない。ただ、別のところのログから、それを匂わせる名前が出てきた』
――『新兵器ASNA開発計画』。
他のどこにも記載されていない、名前だけが発見された計画。それが【エリアL-2】で行われていたという。
『この計画がどうなったのかはわからない。まだ開発前なのか、頓挫したのか、それとも……既に開発が終わったのか』
「新兵器、か。ASNAという文字に心当たりは?」
『ないね。今まで《アダム》の研究所を何個か潰したけど、ASNAなんて文字は出てこなかった。だから……うん。見慣れない兵器には気をつけて』
「戦闘面は丸投げかよ。ま、そのために俺がいるようなモンだしな」
よいしょ、と声を出して体を起こす。未だ続くテロ犯罪の討論を映すテレビの電源を切りながら、別室の方へ顔を向ける。
そろそろ、七海の支度が終わる頃だろう。昨日の事件があって七海の精神はかなり疲弊しているようだが、朝食に誘えば「食べます」と返事していたのでひとまずは様子見だな、と契助は頭を掻く。
『ボクからの報告は以上だよ。朝食の後は……ああ、そうだったね』
「おう。今日の予定は決まってる」
――妹に、風花に会いに行く。
▽
ぷつり、と通信が途絶える音が届く。
暗い電灯に、目に刺さるような眩しいモニターの光が支配する空間。部屋中にコードが波打ち、掃除しきれていない部屋の隅や積まれた物の上には埃が被っている。
机の上には、ファンシーなキーボードやマウスパッド、そして食べ散らかされてお菓子に放置されたエナジードリンクの空き缶。定期的に部屋を掃除しに来る家政婦がいなければ、この部屋は既にゴミで溢れていただろう、そんな空間。
キーボードをタイピングする手を止めて、グッと腕を天に向けて伸ばす。そして、ポスっと背もたれに背を預けながら、ふわぁと大きな欠伸をした。
研究所の調査、《月下猟犬》本部との連絡、世界各国からの情報収集に勝田宗生の追跡。やることは山積みで、終わる気配はない。
それもこれもケースケのためならば、と奮起して作業するが肝心の契助は別の少女と急接近中だ。
「ぐぬぬ、ボクのケースケなのにぃ……!」
脳内で不老不死の少女をポカポカと殴るが気は晴れず。集中力が切れた、とチェアの背もたれを倒して体重を預ける。
「ケースケ、ボクに飽きちゃったのかな」
最初に出会ったのは自分のはずなのに、気付けば契助の隣には金髪幼女にロリJKがいる。胸の奥にあるズンと重い気持ちは嫉妬か、自己嫌悪か。
「……いけない。集中、集中。さっさと終わらせて、ボクも支度しなきゃなんだから」
再び、薄暗い空間にタイピング音が鳴り始める。
全ては、敬愛する‶殺人鬼‶のために。
▽
パラパラと窓を打つ雨の音が部屋に響く。黒雲に覆われた空を眺めていた契助は、やがてカーテンを閉めて振り返った。そこには、椅子に座った七海と、もう一人。
「……風花」
契助の妹、玖院風花がベッドに横たわっていた。すぅすぅと一定の感覚で呼吸をしているその様子に、契助は少しだけ安心する。たとえ妹が目覚めないと知っていても。
契助達がいるのは、第五学区にある《月下猟犬》が裏で支援している病院だ。公には最先端の医療研究を主とした目的の私立病院として運営をしていることになっており、《月下猟犬》が保護した被害者や怪我をした隊員、そして風花のような患者が一般人に混ざって入院している。
そのため、普通の病院には過剰なまでの防衛装置が備えられており、病院内には《月下猟犬》の部隊が常駐している。
「あの……妹さんは、病気を……?」
躊躇う素振りを見せながらも、七海は契助に尋ねてきた。そろそろ来るだろうな、と予想していた契助は近くの椅子を引き寄せて、ベッドの近くで腰掛ける。手を伸ばして風花の頭を撫でながら、契助はゆっくりと首を横に振った。
「病気だったら、治せたかもしれないな」
「……怪我、ですか?」
「その程度なら、《猟犬》のメンバーに治してもらえるさ」
「……話して、くれないんですか」
「…………」
話したくない、というのが実際の本音ではあった。これは契助と風花の問題であり、他人に教えてどうこう思われるのは嫌だった。だが、ここに連れてきた以上は事情を言わねばならぬというものだろう。契助は深く息を吐くと、覚悟を決めたように七海にしっかり向き合った。
「俺の力……『能力』は、知っての通り蘇生の力だ。そして、風花……妹の能力は、『能力無効』だった」
「『能力無効』……他人の能力の無効化……」
「ああ。その反応だとお前も耳にしたことがあるらしいな。風花は自分に対する能力を無効化する能力者だ。風花の場合、‶自分に対する‶能力しか無効化できないが、そこは今はいいか」
契助は腰からナイフを引き抜くと、その持ち手側を風花に向けて、ぷにっと頬を突く。そして、七海に意地悪そうな笑みを向けた。
「さて、問題。『蘇生』能力を待つ俺が『能力無効』の妹を殺しました。さて、どうなるでしょうか」
『蘇生』と『能力無効』。
死者を甦らせる力と、能力の効果を否定する力。
「……無効化、される?」
「もう一度言おう。俺は、妹を‶殺しました‶。さて、どうなる?」
「……? あっ、そうか。契助さんの能力が発動するのは相手の死後……死んだ人間は能力の発動なんてできないから、答えは『蘇生』が発動する、ですね」
「ぶっぶー。不正解」
「じゃあ、やっぱり発動しない?」
「ぶっぶー。それも不正解」
「……それ以外の答えがあるんですか?」
「正解は……目の前の通り。成長もせず、朽ち果てもしない。時の止まった妹だけが残された」
「……っ!」
ヘラヘラと笑って契助は言うが、悲しい目をしていた。一転して二人は無言となり、パラパラと雨音だけが部屋に響く。契助は妹の頬に当てていたナイフを納めると、はぁ……とため息を吐いて背もたれにギシッと体を預けた。
「……『蘇生』した相手は万全の状態で復活する。完全に復活するまでは、あらゆる妨害を受けても止まらない。蘇生中に傷を付けようが、毒を飲ませようが、傷病異常全てをなかったかのように復活する」
「『能力無効』は生きている時には発動されているけど、死んだら発動されない……?」
「ああ。だが当然の話、‶生き返ったら‶発動する」
「っ! 能力同士の効果の反発……!」
「その通り。片や死者を復活させる力、片や能力を無効とする力。俺の能力により生き返るが、生き返った時には『能力無効』が発動して、『蘇生』を否定する。生き返るが故に、生き返りを無効とする。だが、生き返りを無効とした瞬間に死に、再び復活が行われる……終わりは、いつだ? その答えがこれ。折衷案みたいな、眠り姫の誕生だ」
「眠り、姫……」
眠り姫。魔女の呪いにより、長い間眠る呪いを掛けられてしまう姫。長い年月の後に城を訪れた王子のキスと共に目覚め、ハッピーエンドを迎える物語。
しかし、王子が居なければ。目覚めのキスがないならば。姫が目を覚ますことは、ない。
「目を覚まさせる方法は分からない。どれだけ金を積もうが、妹を目覚めさせる治療法は見つからない。だから、これは罰なんだろうな。唯一の家族を殺してしまった、俺への罰」
「……どうして、そうなってしまったんですか?」
「なに、簡単な話だ。俺は‶殺人鬼‶であることを露見させてしまった。そして、妹はそれを受け入れることができなかった」
反発。
考えの、信念の反発。
悪は我が身が悪になろうとも滅ぼすべし、それが兄。
どんな人間だとしても命は尊い、それが妹。
犯罪者に生きる価値はない、それが兄。
殺人はどのような理由があろうと認められない、それが妹。
反発に反発を重ね、意地でも譲らない兄妹。
『――お兄ちゃん』
『――風花と一緒に、死のうよ』
妹は、兄の罪を背負って共に命で償おうとした。幼い頃から格闘技をしていた妹は、不意を突けば契助にも劣らない。契助を抱き締めていた風花は、その姿勢から素早く絞め技に切り替えて――
「……だから俺は、妹を殺した」
正当防衛。
殺さなければ殺される。長年の勘が警鐘を鳴らした時には、契助は既に妹の首筋にナイフを突き立てていた。目を見開いて生き絶える妹と、その目に反射して見えた自分の顔。
『う、そ……つき……』
妹の最後の言葉は、それだった。契助の『殺した相手を蘇生する能力』と風花の『相手の能力が自身に干渉することを無効化する能力』により反発が発生し、残されたのが眠り姫となった風花というわけである。
呼吸はする。心臓も動いている。だが、成長しない。老化もしない。止まってしまった、風化の概念。永遠に朽ちることなく眠るとするならば、それはある意味『不老不死』の存在。この状態を生きているとするならば。
「俺は、駄目な兄貴だよなぁ。両親が死んだことも、俺が犯罪者になったことも、風花に隠し続けてきたんだから」
「それでも、契助さんは……妹さんを想って、そうしたんですよね。妹さんに辛い思いをさせたくないから……」
「ああ。でも、俺の行動は間違っていた。最初から、俺は間違えた。正直に話すべきだった。一緒に抱え込むべきだった。俺は……結局、風花を傷付けてしまった」
――風花の心も、体も。
契助はポツリと呟いて、それきり何も言わなかった。七海もキュッと唇を結んで契助と風花を、悲しい兄妹を無言で見守る。ただ沈黙の空気と雨音だけが、いつまで経っても消えないでいた。
▽
病院にいた時間は、一時間。
その一時間の間、会話をしたのはたったの数分だけ。どうして風花が眠り姫になったのかを話した後は、契助は一言も話さなかった。
部屋を退出し、病院の外に出て、呆然とするように目の前の雨を眺める。七海はそんな契助の少し後ろに立ちながら、遠慮がちに口を開いた。
「あの……契助さん」
「……どうした」
「契助さんが《猟犬》で‶殺人鬼‶をやっているのは、もしかして妹さんのためですか?」
「……半分はそうだな。病院で寝かせるにも金が要る。治療法を探すにも金が要る。‶殺人鬼‶であれば金も情報も揃う上に悪人も殺せる。一石二鳥だ」
「でしたら、残りの半分は?」
「俺が‶殺人鬼‶だからだ。《猟犬》で活動しているから‶殺人鬼‶になったんじゃない。逆だ。俺は‶殺人鬼‶だから、こうして人を殺し回っているんだよ」
――もっとも、そのせいで妹を失ったけどな。
契助はフッと自嘲しながら、足を前に出した。ぴしゃりと水溜まりを踏んで、雨の降る道を進み始める。
「ちょ、契助さん! 濡れますよ――ッ⁉︎」
慌てて追い掛けようと七海が踏み出した時、ゴウッ! と、二人の間をワゴン車が通り抜けた。轢かれそうになった七海は止まり、契助は振り返る。
その大きめのワゴン車は二人の間を通り過ぎた直後に急停止し、ドアが開けられた。まず最初に金髪の幼女、それに続いて二人のスーツ姿の男が姿を現す。
そして最後に……
「やぁ、ケースケ。約束の時間だ」
黒色のネコミミパーカーを着た少女が降りてきた。真っ白な足がパーカーの裾の部分から続いており、何も履いていないのではと思わせるほどにギリギリまで太ももを晒している。やや気怠げそうな顔をした少女はパーカーのポケットに両手を突っ込んで、契助の動きを待った。
「け、契助、さん?」
「……悪い。お前とはここでお別れだ」
何かを察したような七海が震える声で契助を呼ぶが、契助はすっと目を逸らす。止まない雨は契助に絶えず降り注ぎ、長く伸びた前髪を濡らして垂らす。
隠れる契助の表情は、悲しい顔か、苦しい顔か。それは七海には分からなかった。
「……私、やっぱり迷惑だったんですね」
「…………」
「ずっと、甘えてる自覚はあったんです。いつかこうなるだろうことも、分かっていました」
「…………」
「ねぇ、契助さん。どうして……どうして、何も言ってくれないんですかっ……」
「……悪い」
「っ……契助さんのバカっ!」
七海は雨に濡れるにも構わず契助に詰め寄り、平手を振り上げて……振り下ろすのをやめた。契助を叩こうとした手をだらりと脱力させて、踵を返す。
そのままワゴン車の方へ歩いていったが、最後に小さな声で「信じていたのに……っ」と口に出した。
最後まで見届けたいという七海の思い、契助はそれを一方的に捨てたのだから。
七海は二人のスーツの男を押し除けてワゴン車に乗り込む。それに続いて悲しそうな、困惑するような表情をした‶毒蜘蛛‶が契助に軽く頭を下げた後に、二人の男と共に乗車した。
ネコミミパーカーの少女は車に乗らず、外からドアを閉める。やがて大型のワゴン車は発進し、契助達の視界から去っていった。
「ケースケ。こっちにおいで」
ネコミミパーカーの少女――契助の相棒であるネコは、雨に打たれたまま動かない契助を優しい声音で呼ぶ。しかし契助は動かない。仕方なくネコは雨天の下に足を踏み出すと、契助の手を引いて屋根のある場所にまで歩かせた。
「こうなることは分かっていただろう? 君は地下に住む者で、彼女は地上を生きる者だ。地下の者には地上の光は眩し過ぎる。地上の者には地下の闇は暗過ぎる。共存なんて、元から無理な話なのさ」
「……ああ、そうだ。それに、俺はあいつを巻き込みたくない。だから、これで終わりにするべきだ。……なぁ、ネコ。そうだよな?」
「さぁね。それよりも……こうして埃を落として綺麗さっぱりな体でケースケに会いに来たってのに、君ってば他の女に夢中だなんて悲しいよ」
「……お前は、変わらないな」
「変わってるさ。ボクも君も、少しずつ変わっている。君が繊細なんだよ。儚くて儚くて……見てるこっちがハラハラする」
「…………」
「はぁ、これは重症だね……今日のところはボクの部屋においで。放って置いたら風邪引きそうだし」
ネコは『接続干渉』を用いて自身の世話をするメイドに車を回すように連絡すると、俯いたままの契助の手を握る。冷たくなっているその手を握りながら、ネコは深くため息を吐いた。
「本当にしっかりしてくれよ……」
数分後、二人の目の前に車が止まり、自動的にドアが開かれる。ネコは契助の手を引いてそれに乗ると、運転席の美人メイドに出発するよう指示を出した。メイドはコクリと頷くと、アクセルを踏んで車を走らせる。目指す場所は第三学区の高層ビル、ネコの拠点だ。
「……ネコ」
「なんだい? 帰ったらいっぱいエッチしてくれるのかい?」
「それも、悪くないな」
「っ⁉︎ デレた! ケースケが遂にデレたぁ! メアリちゃんっ、今夜はお赤飯だよ!」
「おめでとうございます」
むっふ――! と鼻息を荒げながらネコが腕をブンブンと振るう。メアリと呼ばれたメイドは無表情で淡々と祝福したが、そんなこともお構いなしにネコは「えへへ、ありがとぉ」と頬をゆるゆるにしていた。
とはいえ、それが本心から来た喜びなのかは契助には分からない。だが少なくとも、ネコは察していただろう。契助が求めたのは、先刻まで近くにいた少女の隙間を埋めるための代償行為なのだと。心の底から欲しているのは、自分ではなく別の人なのだと。
それでもネコは、ネコにとっては、契助に必要とされることが嬉しかった。
「むふふ、これでボクとケースケは相思相愛だ。どこぞの人魚に付け入る隙はなくなる……っ!」
クシュンッ! と、くしゃみをする七海を幻視しながらネコはニマニマと笑みを浮かべる。隣に座るケースケの腕をギュッと抱き締めて、コテンと肩に頭を預けた。暗い表情をする契助に甘えるように頬を擦り付け、微笑する。
「……ねえ、ケースケ。今夜くらいはボクだけを見てくれよ。ボクの側にいてくれよ。ボクは君になら、なんだって捧げるからさ」
だから――ボクを、この悲しく哀れな被埃姫を愛しておくれよ。
悲哀に満ちた、愛されたがりの被埃姫を。
そんなネコの言葉に、契助は何も言わなかった。
何も言わずに目を逸らして、窓の外を眺める。
不吉な予感の象徴、晴れない心の心象風景。
止まない雨を落とす黒雲は、より激しい雨を生み出していた。