第五章 救いたがりの‶殺人鬼‶ 玖院契助 第一話
第五学区から中央である第一学区を抜け、第三学区へと戻る頃には夕暮れの時刻となっていた。
ネコの住むマンションは第三学区の中でも西側、第一学区に近い場所にある。学園都市の暗黙のルール、その内の一つである『高級地は中央寄り』をそのまま示しているように、その一帯は高級住宅や高層マンションが立ち並んでいた。
そして、マンションの中でも最も高さを持つ高層マンションこそ、契助の相棒の住処だった。
いや、より正確に言うならば生活フロアは最上階のみ。それ以外のフロアは全て特注の大型コンピューターが配置されている、タワーマンションの外観をしたハッキング施設だ。
外壁はかなりの強度を持つアダマンスチール合金で基本構築され、理論上はミサイルの直撃にも耐え切れる頑強さがある。
また、屋上にある避雷針や複数のアンテナには純ミスリルが使われており、自然の雷を断絶しつつネコの能力を循環させやすくするといった、金のかかっているマンションなのだ。
このマンションの住民は、ネコとメイドだけ。それぞれの私室とリビング、キッチン、トイレに風呂以外の場所は全て電子機器系統で埋め尽くされている。
契助達は地下駐車場で車を降りた後、何重ものセキュリティゲートを通過してようやく最上階直通のエレベーターフロアに辿り着く。メイドから順にエレベーターに乗り込み、最後のセキュリティチェックが行われ、最上階へと浮上していった。
「ケースケが泊まりに来るのは久し振りかな?」
「……そうだな。あの夜以来、ここには来ていない気がする」
「うんうん、ボク達が結ばれた初夜だよね」
「結ばれてないからノーカウントだ」
「ふ〜ん? ま、そういうことにしとこっか。どうせ今夜はお楽しみになるんだから。ふひひ」
そう言うとネコは契助の腕に抱き着いて頬をスリスリと擦り付けた。こんな風に甘えられるのも久し振りだ、と契助はネコの頭を撫でながら思う。
少し前までは他人を信用せず、ただ人を殺すだけの鬼だった自分が、こうも落ち込んでいるのは笑い話というべきか。笑いたかったが、上手く笑えない。それくらい気落ちしている自分が嫌になった。
カチンッ、と音がしてエレベーターが止まる。最上階、この建物唯一の生活フロアだ。
「……風呂、先に入ってもいいか?」
「ん、いいよ。替えの服は適当に用意しておくからさ」
「助かる。お前も服、着替えとけよ。風邪を引く」
「ケースケに言われたくないよ」
目的の場所で立ち止まった契助は、クスクスと笑いながら去っていくネコの背中を見送る。玄関を兼ねたエレベーターフロアから一番近い部屋、契助の目の前の場所が風呂場だ。契助はその扉を開けて中に入り、脱衣所で濡れた服を脱ぎ捨て、濡れ物用のプラスチック製の籠に置く。
そして、脱衣所と浴室を隔てる戸をガラリと開けた。ふわっ、と湯気が契助を包み込み、溶けるように消えていく。風呂に入るのを見越していたのか、大きな浴槽には一杯に湯が張られていた。
「少し、休むか。色々とあって疲れたからな」
気持ちの整理をするためにも、と契助は風呂桶で湯を被り、足からゆっくりと入浴する。腰を下ろして肩まで浸かったところで、ほぅ……と息を吐いた。
こうも落ち着いて入浴するのは、いつ以来だろうか。
ネコと出会い、‶毒蜘蛛‶と対峙してから依頼は落ち着いたものの、ネコの夜這いや‶毒蜘蛛‶の躾で忙しい日々が続いていた。それも段々と収まってきた時に今回の案件だ。
「……疲れたなぁ」
その呟きは、静寂の浴室によく響いた。湯船の水面から湯気が揺れ昇るのを見て、時間が経つのに身を任せる。
『契助さんのバカっ!』
『信じていたのに……っ』
ふとした瞬間に、脳裏に過ぎる七海の声。契助は首を振って、非難の声を振り払おうとする。
「……分かってんだよ。自分がいかに『バカ』かなんて」
妹の風花を傷付けた時から、知っていた。
でも、仕方ない。
こうすることが、七海にとっての幸せなのだと契助は心の底から信じている。そのために七海からの信頼が壊れようと、関係ない。
七海は光のある世界で生き、契助は闇の中の世界で生きている。二人が交わることは、もう二度とないのだから。
七海の安全を考え、今後の人生を幸せに過ごさせるなら、この方法が最善手に違いない。
なのに――
「なんで、なんだよ……これ……っ」
苦しい。
胸の奥が締め付けられるような感覚。
幾度となく死を彷徨い、幾度となく人を殺したことで湧かなくなった感情。こんなにも『失いたくない』と思えるのは、契助自身には全く分からなかった。
光を目指して浮上していた深海魚が、目に見えない力によって再び底の見えない深海に引き込まれるように、契助も闇の中に落ちていく感覚に囚われる。
「――ケースケ? 随分と長いけど、大丈夫?」
ハッ、と意識が現実に戻される。
戸の向こうに人影が映り、「ケースケ?」とネコの心配そうな声色がもう一度届く。契助が「悪い、すぐに上がる」と向こうに聞こえるように声を出すと、戸の向こうの人影は離れて消えていった。
消えない胸の内の圧迫感を覚えながら、湯船から立ち上がって外に出る。垂れた前髪を掻き上げて深呼吸を一つ挟み、契助は浴室を後にした。
▽
「ケースケ。お待たせ」
「……ああ」
ディスプレイの青白い光だけが部屋を占める中、契助はベッドの端に腰掛けていた。部屋の扉が開く音と共に廊下の光が漏れ入り、その後にネコが顔を出す。契助がそちらを向くと、ネコは少し恥ずかしそうに目を逸らした。
ネコは身体を腕で隠しながら部屋に入って扉を閉じると、照れた顔を隠すように俯いて「ど、どうかな……?」と契助に尋ねる。
腕を広げたネコの格好は、惜しむことなく肌を晒すような黒色のネグリジェだった。華奢な肩や細長い四肢は透き通る素材で覆われており、レースの入った裾は際どい部分まで太ももを露わにしている。
羞恥のあまりネコはもじもじと体を動かすが、それによって薄布がふわりと扇状的に揺れた。
「寒そうだな」
「もうっ。ケースケったら、たまには素直になってくれてもいいのに」
「素直な感想だろ」
「ちーがーうー! 『存在がエッチエチだ……』とか『俺の息子もサムズアップしてるぜ』とかだよ!」
「それは果たして素直な俺なのか……?」
ムーッと頬を膨らませながら、契助の元へダイブするネコ。それを軽く受け止め、契助はネコを膝の上に乗せる。背中から抱きしめながら、ポスンと頬をネコの頭の上に置いた。
「なんだか落ち着くな。最近はしてなかったが、たまには悪くない」
「そうだね。君ったら別の女に夢中なんだもの。金髪幼女にロリJK。ケースケはボクの物だってのに」
「お前のじゃねーよ」
「あうっ」
ペシッ、と軽くチョップをする。ネコはそれすら嬉しいのか、笑みを浮かべながら、すりすりと契助に体を寄せる。
それからは無言の時間が続いた。思い出話をすることもなく、これからについて話すこともなく、ただこのひと時を堪能するように会話を交わさないで過ごす。
「……ねぇ、しよっか」
どれくらいの時間が経ったか、不意にネコが呟いた。
契助が視線を落とせば、そこには柔らかい表情で契助を見つめるネコの顔が映る。契助は軽く口を開き、一度ギュッと口を結んで、もう一度開いた。
「……愛してる、ネコ」
「ボクもだよ。ケースケ」
するり、と契助の抱擁をすり抜けてネコはベッドに横たわる。口端からペロリと舌舐めずりをすると、契助を手招きした。
契助もまた、その誘いに応じてベッドに上がる。ネコに覆いかぶさるように四つん這いになり、片手でネコの頬を撫でる。
「ふふっ。くすぐったいよ、ケースケ」
ネコは嬉しそうに目を細めると、「ねぇ、キスして」と告げた。
契助はネコの頬に手を添え、ゆっくりと顔を落とす。
ネコは目を閉じ、軽く唇を差し出した。
鼻先が触れる。
互いの呼吸が交わる。
そして、唇が触れ――
『ビ――ッ‼︎ ビ――ッ‼︎』
静寂を、けたたましい警報が打ち破った。
▽
警報音は鳴り響き続ける。
契助が何事かと顔を上げようとした時、「ダメだっ!」とネコの叫び声があがった。ネコの腕が契助の首の後ろに回り、抱き締められる。怪訝な顔の契助に、ネコは少し目を泳がせながらぎこちない笑みを浮かべた。
「ダメだよ、ケースケ。こんなの、ちょっと尖った音楽だよ。気にせず続けよう」
「……」
「こんな音だって、僕が能力を使えば……ほら、消えた。ちょっとした機材の誤作動だったみたい。ね、ね、ケースケ。気にしなくていいよ」
「……ネコ」
「ケースケ言ったよね? 『愛してる』って。ボクのこと、愛してるんだよね? だ、だからさっ、ボクも、君が好きだし、君もボクが好き。相思相愛だよ? ほら、続きをしよう? 別にボクはムードなんて気にしないよ。なんならボクからチューしちゃおっかなぁ」
「おい、ネコ。何を隠して……」
「ボクはッ!!」
契助の言葉を、ネコの鋭い叫声が遮る。
こんなにも大声を出すネコに驚いて戸惑っている中、ネコは一転してポツポツとか弱い声で話し始めた。
「……ボクは、こんなにもケースケが好きなのに。ケースケが望むなら……汚れ仕事もエッチも、どんなことだってしてあげるのに。……どうして、ボクの方を見てくれないの? なんで死にたがりのあんなヤツばかり目を向けるの? どうして……どうして……?」
「……七海に何かあったのか。そうだろ、ネコ。答えろ」
「いやだ。答えるもんか。絶対に答えてやるもんか。ケースケが『愛してる』のはボクなんだ。ボクが……いちばん……あいされて……ひぐっ……うっ……」
ボロボロと大粒の涙を溢し始めるネコ。契助はそれを黙って見つめ、やがて起き上がる。服を整え、置いていたナイフを腰へと装着し、狐鬼の面を手に取った。
「今日だってぇ……がんばってエッチな服を用意したのにぃ……いっぱいいっぱい愛されるように、ボクは……」
「ネコ、いつまで泣いてんだ」
「……行くなら勝手に行けよ。ボクは知らない。知るもんか」
「はぁ……ったく、お前がいないと俺は何が起きてるかも分かんねぇんだよ。俺の相棒はお前だけだ。お前以外にはあり得ない。それだけは確かな事実だろう?」
「そうだけど……ボクは一番じゃない。そんなの、イヤだ」
駄々をこねる子供のように、ネコはイヤイヤと首を振る。そんなネコの様子に頭を掻きながら、契助は溜息を吐いた。
「何言ってんだ。一番最初に出会って、一番最初にキスして、一番最初に大人になったじゃねぇか」
‶殺人鬼‶と‶被埃姫‶。二人の出逢いがなければ、きっと契助はただの殺戮機械となっていただろう。そうならなかったのは、守りたいと思う存在があったから。助けたいと望む存在と出会ったからだ。
「お前は、これからも俺の相棒だ」
違うか? と言うように契助はネコを見つめる。そんな契助にネコはぶんぶんと腕を振りながら唸る。
「うぅ……そうだけど、それとこれとは話が別というか……」
やがて諦めたように「うがー!」と声を上げながら立ち上がる。
「あぁ、もう分かったよ! ボクはケースケが一番好き! 世界で一番愛してる! だったらボクがケースケを支えないといけないよねっ! これでいいんでしょ!」
「ああ、それでいい」
開き直ってやけくそ気味に叫ぶネコへ優しく笑みを返しながら、契助は狐鬼の面を被る。装着と同時に電源が入りスタンバイモードが解除、自動的にネコの能力とリンクされる。
ネコはネグリジェの上からいつものパーカーを着ると、ディスプレイの並ぶデスクの前に座った。キーボードをいつもより強めに叩きながら、虚空に向かって「メアリちゃん、ケースケを屋上へ!」と声を出す。
「ケースケはメアリちゃんの誘導で屋上へ行って。何が起きたかはそれから話す。‶殺人鬼‶、緊急出動要請だよ!」
「了解だ。駄々こね子猫のせいで時間食っちまったからな。大急ぎで行くぞ」
「誰が駄々こね子猫だって⁉︎ このロリコン! 女誑し! 浮気者ぉ!」
「元気で何より。バックアップ頼むぞ、相棒!」
調子を取り戻したネコに踵を返すと、契助は部屋を出る。先に控えていたメイドのメアリの後を追い、屋上へと向かった。




