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ユ・ファオヴィス ~完全支配とそれに至るまで~  作者: 工藤十七


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目が覚めたの。


眩しいの。


すぐに慣れるわ。大丈夫よ。


そのまま生きてね。


頑張って食べてね。


美味しくないかもしれないけれど。

足りないかもしれないけれど。


羽ばたいてね。


増えてね。


もっと、生きてね。






連合の有力者「ゴームド・ノルクーム」は、誰に呼ばれた訳でもなく、瞼を閉じたまま、我に返って現世を感じる。


まず暑さが気に食わなかった。

そして、多少の冷たさはあるものの、硬くて無機質な、地面についても不快だった。


酷い憔悴に苛まれ、しかしそれは、病とは違った、足場を砕かれて、かろうじて飄々とする自尊心のようで、状況の把握もままならず、しかし身体に伝わる感触によって、野外で倒れているということは知覚していた。


有力者とは、力有る者と書くが、さて、何処の誰が、この姿を見て、溢れる力を感じ取るだろうか。


威厳と呼べるものは、指先の、そのまた先の、人体と呼べるギリギリまでを探してもまるで見当たらず、こと切れた魚のような頼りなさで、ただ現状への憤りは沸々としていた。


思うに二日酔いの、あの冒涜の渦の中、心地よい小風すら罵詈雑言と成り、ボウっと衝動、仄かな明かりすら鬱陶しくて、白であろうと藻掻く内蔵と、ふやけた皮膚と、後は少々に、見放された人間一個。


そもそも目覚めとは、柔で身体の隅々まで包み込む寝具と、若く麗らかなメイドの敬意に溢れた声、夢の余韻が香る紅茶で作られるものであって、それは常識で、苛立つ身体は、少ない体力の中から拳を形作る。


不足を憂う拳である。


こんな所で私は眠っていたのか・・・そのままの体勢でゴームドは自問する。


唐突な睡眠というものを、長い人生の中で、幾度か経験したゴームドだったが、唐突には唐突なりの順序があって、やれ酒を浴びただとか、やれ柔の誘いだとか、思い返すと枠に嵌るような納得が付き物で、前述の通り、不満の現在においては、やはりただの睡眠として看過できるものではなかった。


本当に私は眠っていたのか。


頭の中で走った小さな反発が、朧げな意識に発破をかけ、先の光景が、鮮明な映像となって、瞼の裏で再現される。


燃える連合本部、震える偉大な同志たち、それは、信じて疑うことのなかった絶対の陰り。


その一秒一秒が、鋭い頭痛を誘発して、綻びを忘れた美の冷徹も、黒き悪魔も、何よりあのレルディオスなる存在も、全て現世にあってはならないモノであると、痛みの中で拵えた、精神の抵抗は、夢、そう、夢であると、この上ない悪夢であると、逃避とも取れる推論を導き出す。


逃避を嫌うのは、権力者として、ありがちなことだが、しかし、一見そうであるというだけで、存外、正しいことは大いにあって、これもその一例と、ゴームドは考える。


繰り返すが、ゴームドは世界連合の有力者である。


至って理知的な、正常な思考からくる経験則として、強きモノが倒れることなど、革命の果て、全てがひっくり返ることなど、起こり得ないのだ。


強きモノは強く、強いから倒れない、このどこに反論の余地があるのだろうか。


そうだ、我々は世界連合だ、泣く子も黙る強権の執行者だ。

世界に散る254の国、それらの大半を掌握し、啓蒙し、繁栄に至らしめる無比の実体だ。


こんなことが現実である訳がない。


ゴームドは、縋るように、結論を補強して、己の納得を積み上げた。


そうして積みあがった納得は、筋繊維を刺激しながら、指から込み上がって、瞼へと到達する。


覚悟を決めた、というような仰々しいものではない。


何一つとして変わりのない、支配という日常の、簡単な確認を、施す為である。


恐怖もなければ期待もない、流暢のみが出張った手先で、曇ったレンズを拭き取って、ぼやけた像が段々と線を結ぶように、気ままで朧な意識に少しずつ、されど確実に、現実が入り込んでくる。


映る、瞳が開かれる・・・



そこには、先ず、炎が、あった。


高く、高くへ昇る火柱は、ついでであるかのようにそこら中を巻き込んで、軽作業とでも言うのか、語り尽くせない複雑を、粛々と単純な炭へと変えていた。


立ち込める煙が、一瞬、炎を隠して、灰色に包む、それでも、消えた訳ではないと、主張するように、まだ沢山、残りがあるというように、炎は勢いを止めない。


そして、視覚が起こす発端は、それほどまでに強力なのか、それとも、理解を拒んだ脳が、無と処理していたのか、今まで聞こえていなかった、炎が滾る、ごおごおという音が、ゴームドを取り囲んで、全方位から同時に鳴っている。


悪夢そのものだった。


振り向く余裕はなかった。

目の前だけで、十分だった。


視線の先の、崩れ落ちた建物は、燃料となって、これ以上を求める炎の、よき理解者として、燃やされて、何が何かと、判らない形になっている。


傍らには、文明の破片が散乱している。

あんなにも彩られていた世界の色は、せいぜい赤と黒の二色に呈色され尽くされ、男女の比であるかのように、拮抗している。


そして、多少の慣れがそうさせたのか、認識が冴えてきて、そこら中に転がる、赤と黒の中に、血か、焦げた皮膚か、糞便か、或いはその全てか、つまり、人間の死体があることに、ゴームドは気が付いた。


彼の持つ、現実だと理解する理性と、それを上回る混乱、そして何より、文字通り、身を焦がす熱気が跋扈する、何もかもを投げ出してしまいたくなる状況で、皮肉にも、己の両に備わった、理性と混乱が故、その場でただ静止して、仮初の冷静さを伴っていた。


例えば、ほんの数十メートル先で赫赫としている、一際大きな燃料は、元々金庫だったと、足繁く通い詰めたゴームドの記憶がそう伝える。


貯蔵される金銀財宝、及び、強靭強固な防衛設備が物語る中核庫、それは連合の象徴として、彼らの権威の化身として、被写体となり、絵画となり、名所となり、本来以上の利益を生み出していた。


当然のこととして、蟻一匹は勿論、実体のない、霊体か、それに類するモノの侵入も許さない、神の如き結界、そして、護り手として立ち並ぶは人類の屈指、武器を持ち、鎧を纏い、謀略の立案すら馬鹿らしくさせる眼光を携え、やはりそれは、途方もないような防衛策が講じられていた。


それが何故こうなった。


「どうしてだ・・・」


踊る火の粉の爛漫さが、ゴームドを陽気にさせることはなく、苦を伴った当惑は、思春期の昼下がり以来の、弱々とした呟きを、一寸先に落とす。


弱さの中には、純粋な、疑問があって、納得と安心を求める人間の、現実への対峙と逃避の両面性が、彼の、ただ時計を見るという動作にも現れていた。


およそ午後十時。


議事堂の一件からそれほど時間は経っていない。


裏を返せば、この短時間で、これか、と、文字盤を睨みつける感情の背景には、正午4799時や複素数時刻など、ああ、夢だ、そう思わせてくれる無茶苦茶への、ほんの少しの期待と、それを粉微塵に打ち砕く、午後十時という、普段なら酒か女か、両方か、彼にとっての日常が、色濃く浮かぶ、十分な現実らしさへの変貌があった。


「いつまでボッとしてるんだ、剣でも銃でも、構えろ!」


虚実の隙間に、二十メートルほど先から、叫ぶ男の声が刺さる。

その男は、何のことはない、ある意味では似つかわしくない、悠然とした歩幅で、こちらの方に向かって、歩みを進めている。


こんな状況であろうとも、多少の距離があろうとも、声から滲む勇猛さ、闘気を象った凡その風貌から、ゴームドは、その男の正体を確りと認識していた。


「ああ、キリバス」


ただ己に潤いを与える為だけに、小さな声で呟く。


連合が保有する、唯一にして最強の武装組織「人類技核」。


世界全てを一つの集団と捉え、徹底した分業を望む世界連合。

その実現の為、運用される綻びのない管理システム。


そういった体制の維持・開拓には当然、武力が必要不可欠だった。


暗殺から戦まで、血を見ることは大抵やって、培われた経験の先に屯する、ツワモノの集い。


その中でも屈指の実力者と名高いのが、この惨状を悠々と闊歩する、剣の名手キリバス・ゴドリオスである。


かつてゴームドは、非加盟国同士の内紛を焚き付け、平和という名の大義名分を冠とし、殺戮をもって平定、解決した。


その功績が認められ、今の地位を確固たるものにしたゴームドだが、その時の実行隊長がキリバスだった。


キリバスはゴームドの予想をはるかに上回る武功を上げた。


我が子を守るために重なった父母の身体ごと、震える幼子の首をキリバスが一太刀で刎ねたときには、この剣を抱え続けることが出来れば、連合の主席も夢でないと、ゴームドは確信し、しばらくは酒の席でその話を、同僚の顔に小皺ができるまでしてまわったという。


そのキリバスが我が前に、それは未知と恐怖に晒されているゴームドにとって、この上ない安堵を授けた。


「おい、聞いているのか。さっさと動け」


声が詳細となるくらいまで、近付いたキリバス。


キリバスは誰に指示を出しているのだろうか、私の近くに彼の部下でもいるのか、ならば何故その者は私を助けない、不敬だ、というより愚かだ、兵士程度に相応しい馬鹿者だ、哀れみすら覚える。


「ああ、我が剣、キリバスよ。先ずは私を助けるのだ」


そして、愚かな兵士の首を刎ねるのだ、転がった首を掲げ、滴る血の潤いで私を日常に戻すのだ、そう、巡る考えの果て、ゴームドは笑みを浮かべた。


そして手を伸ばす。

安堵を掴むため。あの災いどもに目にものを見せてやるため。


キリバスは歩みを止めない。


ミシミシと鎧の擦れる音がして、足跡を刻んで、ゴームドの元へ。


そして、数センチで向かい合った。


座り込むゴームド、見下ろすキリバス。


炎が取り囲む上下は、キリバスのわざとらしい微笑みが始となり、先ず歯が見えて、入れ替わるように剣を握る腕が上がって、切っ先が歯よりも光って、流れ星、火の粉の落ちる速度より早く、そして真っ直ぐに振り下ろされ、ほんの一瞬の滞りもなく、服を、皮膚を、ゴームドの右脚を。


悪戯にドプリと貫いた。


ぼぼおおおお


溜まっていた泥水が、一気に流れ込んだか、淀む濁音。


それはゴームドから発せられた悲鳴だった。


本当に泥でも出てきそうな、悲鳴のみを扱うようになった口から、痛い、痛いと、言葉と成っていないものの、一通りの解釈しか生まれ得ない、地獄の叫びが、迸る。


強烈な痛みに相応しい、強烈な声量で。


光明であるはずの男の剣が、あろうことか、己に突き刺さったときの、あの、言葉に、実体にしたくもない、恐ろしい音をかき消すように。


「あああ、お前、お前」


単純から足が生えたように、段々と音にも輪郭ができて、言葉になった悲鳴は、彼の持つ怒りに手を加えることなく、そのまま表現する。


「ふざけるな、このわたしだ」


必死そのものの表情は、打ち砕かれた希望の成れの果て、形成された言葉が勢いを付けたが、付着した血を、汚れを祓うよう、剣を空中で振るキリバスまでは届かず、表情のせいか血のせいか、ただ顔をしかめている。


正に侮蔑の表情である。


「この」


腕で地面を弾く。


怒りを放つ為、腹部に力を込め、立ち上がったものの、今まであれば、怒りの姿勢を取るだけで、配下の剣が咲き乱れたものだから、実行には不慣れで、その未知への戸惑いが、一瞬、動きを止めて、言葉を止めて、思考も止まる寸前で、一つの違和感を拾った。


私は、今、立ったのか。


都合良く、炎が途切れ、少しの静けさが、違和感のお膳立てをするように舞った。


足裏に重みが乗って、掌は空中に放られ、見下ろすキリバスとの高低が縮んで、ゴームドは両の脚をしっかり用いて、それは、直立しているということで、やはり、間違いがなかった。


貫かれた右脚を使って・・・


あれほどの痛みが、消えている・・・


正当化に走る脳の出した、暫定の結論は、興奮状態というものだった。


しかし、この変わりようは・・・


恐る恐る、視線を下げる。


キリバスの剣が突き刺さった右の脚を捉える。


血は残っていた。ダラダラと下へ向かっていた。

衣服が破れ、素肌が露出していた。


悲鳴から想起される、悲劇の形である。


しかし、確実にあったはずの、剣を型とした、傷というものは、一切なかった。


健康そのものの相が、赤の世界において、白く映えている。


この白さを、ゴームドは受け入れられなかった。


ぱちぱちと、火の粉も遊んでいることだし、とりあえず笑って見せようか、しかし、痛みの後の笑顔は、気味が悪いか、午後十時の風が、許しはしないか、誰かが、悪い、と言うまでは、むしろ、静こそが、害か、ここで左脚の肉でも噛み千切ってあれ左だったかとお道化て生食はいかんと吐く悪態を予見していやあ火はそこら中にあるから今からでも遅くはないと反芻ののち炙って見せてしかし左手の方が美味と巷では専らの噂ですよ惜しいことをしましたねと午前零時の涙が語りかけるまでに、これは、醒めるのか。


混乱、脳細胞の全てが逆立ちして、前転して、ただ浮かぶ。


しかし、浮遊を許さないキリバスは、


「お前らみたいなタダの兵隊はな、そのカラダ使って俺の役に立てばいいんだよ。」


と、足裏から声を出しているのか、靴の底面を無駄にしないように、押し付け、蹴り押し、抵抗できるはずもなく、またしても、地面の乱雑さを、ゴームドは感じる。


「そうだそうだ、役に立て。ほらもっとだ、立てよほら!」


キリバスはゴームドを何度も踏みつける。


痛みはなかった。

混乱に勝る感情など、入り込む余地はなかった。


むしろ、いい塩梅か、ぷかぷかと、遊ぶ身体を、この地に留めてくれる、キリバスの足技が、心地良くもあった。


「ふふはは」


心地良さに呆けた笑みではない。


敢えて言うなら、達成への笑みである。


心地良さと混乱は、時に人間を新たな段階へと導くのか、そのままを押し殺した代償か、精神だけが、くっきりと分断され、同一性が危ぶまれるほど俯瞰する、己というものが、その肉体が抱える、混沌へと認識の手を伸ばし、たった今、到達した、その業に対する笑みだ。


ようやく、ゴームドは気が付いたのだ。


やっぱり、私でなくなっているのか・・・


キリバスの侮蔑と、傷が消えた壮健な脚の延長線上で、馴染めていない頭が、合流するように答えを掴んだ。


自分のモノでない、他人の身体の中に入り込んでいる。


思い返せば、示唆の中に、ずっといた、と、溜息が出る、しかし、この息も、通る器官も、送り込む肺も、司る脳も、自分のものではないと、また溜息が出る。


そう、知覚するゴームドの自我を除く全てが、名も知れぬ兵士のモノに変わっていた。


二十歳そこそこか、破れた衣服から、垣間見える右脚の、腿あたり、若い男の酸っぱさが香って、血も心なしか鮮やかで、キリバスが足蹴にしているのだから、恐らくはただの一兵卒だろう。


ゴームドの記憶にはない人間、替えが利くというよりは、そもそもが代替である、そういった人間、現場を担う勇猛果敢が、円滑を求めるなら、払われるべき犠牲の筆頭、つまり、この足蹴には、全くの不条理がない。


キリバスが、縺れるように放つ一蹴一蹴の、その頼りなさは、ことの異常であって、もしゴームドが指揮する状況なら、何か、その異常を振り払える何かを提案するだろう。


ただ一つ、ゴームドが兵士となっていることを除けば、素晴らしき支配の一幕である。


こうなってしまったのなら、回復の機序については些細な問題であった。


より正確に言うなら、心当たりがあった。


これは、かつてゴームドが打ち立てた、連合兵士における自動回復魔法の付与、という施策によるものだろう。


一定の限度まで、自らの身体の損傷を修復し、その際に生じた恐怖心なども取り除く、強力だが不死身ではない、組織運営に有効となる分岐点を見極めた、己の有力者たる立場を確固とする渾身の一手だった。


しかし、決して、入れ替わりの魔法など、許可したつもりはない、と、狂乱を纏って、空気を掻き混ぜるように歯を見せて、嘶きながら、何度も踏み下ろす、キリバスの飛んでいきそうな顔を見ながら、ゴームドは、思考の中で愚痴を吐く。


夢。現実。


どうすれば戻れるのか。

どうすれば・・・


誰か、助けてくれ。



瞬間、何かが光る。


瞬きの寸前で、ほんの一瞬、光って、瞼を開いた頃には消えていた。


少し遅れて、燃える街の、無視できない轟音の中で、氷が弾けたような、亀裂か、細い細い音がした。


どちらも、この状況によらずとも、些細な、取るに足らないこと、小さな光と音、しかし、それらは、残していったのか、余韻の代わりか、ゴームドの目の前に、最大級の異常を落とす。


台が、立っている。


そこそこの大きさの長方形。


頂点は、平面。

水平の美。


その美に歓喜するように、我儘な赤が、その平面から、吹き出ている。


この赤は、血だ。

血が吹き出ているのだ。


しゅぷしゅぷと、血管の窮屈を鬱陶しがる流々が、天へと昇っている。


つまり、この台は、キリバスの身体である。

強靭で、屈強な、肉体。


溢れ続ける血の量に、説得力を持たせる、肉体。


そんな肉体だけが、置き忘れられたように、ただ、立っていた。


頭が、消えたのだ。


瞬きの、その一瞬の間に。

消失した。消滅した。霧散した。


これが死であることは、すぐに理解した。


血の根本は、艶、断ち切られた命を丁寧に、伝える、断面。


こんなものは死でしかない。


色もそうだ。


死の赤、いや、所々の白、骨か、脂も回って。


それでも、一番は赤だった。


照らされようとも、赤だった。


死が照らされていた。


どうして、照らされているのだ。


断面、鮮血を処理した脳内が、空気の読めない、軽微な違和感を、ふと言葉に変える。


夜なのに、光が。


自分を取り巻くその全てが、恐ろしく明々として、破壊された街灯の最後の明かり、一歩を否定し覆い尽くす炎、そのどちらを以てしても過剰な、夜を滅亡させる光、そんな違和感を、言葉というものは結実させてしまった。


これは天使の輝きか。


天使がいるならば、やはり天上だろうと、無い筈の信心が、無意識を占領して舵を取ったか、ゴームドは、目と口をかっ開いて、天を仰ぐ。


光。


一面を、光が覆っていた。


輝きが染み付いて、塊のまま、ゆらゆらと揺らめいていた。


全てを照らすほどの光なのだから、眩しい筈なのに、一切何も表情は変えずに、縋るように腕を伸ばす。


本当は夜ではないのか、それとも自分の目が可笑しくなってしまったのか。


しかし、疑問がどれほど生まれようとも、今の彼には、ただ手を伸ばすことしか出来ない。


絶望の中に、光が指した人間の、取れる唯一だからである。


光は応える。

ゴームドの元へ、降臨する。


伸ばされた腕の、指先の震えに呼応するかのように、強くなって、じわじわその領域を拡大して、揺らめいて、揺らめきながらも真っすぐで。


やはり、天使か。


救済の光か。浄化の光か。


祈る。


祈る。


眩しいくらいに、強くなって、チカチカと、二、三度目かの、瞬きの中で、ゴームドは気が付いた。


天使じゃない。


神聖に、ノイズが走るように、宗教画に入った怠慢のように、割れる、振動そのままの、ぶぶぶぶ、という音が。


羽音。


輝く複眼。


これは、無数のハエである。


大空を埋め尽くすほどの大群。

無数としか言い表せない、大群。


大群が、飛来する。


足先から夥しい数の毛が生えていて、脂ぎったような表面の光沢、二つの大きくて丸い複眼も、信じられないほど昆虫で。


ハエだ。あの、ハエだ。


無数のまま、津波のように押し寄せる。


五臓六腑の、そのまた最奥まで震わせる、爆撃のような羽音が、着々とゴームドに接近する。


ゴームドは身体を引き摺ることしか出来なかった。


それはキリバスに何度も足蹴にされたからではない。

燃え盛る街に付随する、醜悪な煙を吸い込んだためでもない。


それらが幸運としか思えぬほどの絶望を前にしているからだ。


動け、逃げろ、動け、頼む、糞尿を巻き散らしながらゴームドは希う。


ただその場から逃げたい、助かりたい、その一心で。


されどハエは止まらない。

もう、すぐそこまで、接近していた。


怖い、気持ち悪い、吐きそうだ、感情の語尾が形作られる前に、次の感情が流れ出る。


怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、恐怖の連続、そしてそれは、より強大で単純な感情によって、即座に上書きされた。


痛い。


辿り着いてしまった。


先ず、皮膚に、ザラザラとした足先が纏わりついた。


その内の幾つかは、毛穴に突き刺さって、踊るように蠢いて、そして、口吻から、その小さな体のどこに余裕があったのか、大量の緑色を噴射した。


消化液である。

粘着性があって、熟した赤子のような、鼻を虐げる刺激臭。


細胞を壊そうとしている。


次のハエも、また次のハエも、絶え間なく噴き付ける。


すぐにゴームドの全身が染まった。

カビに塗れたような様相と化した。


しかしすぐに、溶かされた肉と脂が、ドロドロと混じり合い始める。


赤の始まりである。


人間の構造が壊れて行く。


その欠陥から、ハエたちは潜り込んで、全身に行き渡って、皮膚を押し上げて、ハエの形そのままの、ニキビのような小さな膨らみが、ブツブツブツブツ、と、至る所に出来る。


膨らみは動く。

膨らみの中は、ハエなのだから、それぞれの動きがそのまま現れる。


皮膚が波打って、曲芸のようで。


そしてまた、耐えきれなくなった身体のどこかが、ふしゅりと破れる。


ハエが消化液を使うのは、栄養を摂取する為、ゴームドを喰らう為である。


溶けた肉を、口の先に付いたザラザラとしたモノで、舐め取っている。


顔の肉も例に漏れず溶けるのだから、その一部が、唇に付いて、唾液と混ざって、舌まで、鼻にもハエが詰まっているからか、臭いよりも、異常な塩気を感じさせた。


ここまで来ると、もう大部分を赤が占めている。


肉の薄茶色と、脂の白と、ハエの青銅色、しかしそれらも、赤の流動が、上書きをする。


そんな赤も、様々で、ただの流血もあれば、皮膚の下で貪るハエによって、薄く延ばされ強調された血管の赤、犇めく大群の、容赦ない摩擦によって齎された炎症の赤、胸の辺りの肉が曲がって開いて、外界に触れる内臓の赤、かろうじて、顔面の立体が、浸食を拒んだか、目頭、鼻先、人中、左の耳の少し下、それらは肌色を残す。


しかし激痛を訴える、眼球も口も、赤。


怪物となった痛々しい見た目に相応しい、死ぬほどの痛みが、かかって、痛い、痛い、鑢で表面を少しずつ抉られていくようで、ブチブチと音がして、その音も痛みとなって、ゴームドを襲う。


自分のものではない、若い兵士の肉体。


それでも、皮が、肉が、ねじ切られていく激痛も、死へと向かう激臭も、本能を逆撫でして心臓を締め付ける羽音の恐怖も、全てが、目の前で、自分のことだった。


「はっははああはああああ」


叫ぶ。


少しでも、自分の出す音で、この地獄を上書きしたいのか。


ただ叫ぶ。生のつもりとして、絶叫する。


叫ぶ、放つ勢いで、歯が折れるくらいに叫ぶ。


叫ぶ、つまり、大きく開いた口がそこにはある。


中は、程よく湿っている。


吐く息が誘う。


ああ、見つけた、というように、ハエが、ハエが。


一匹、十匹、百匹、千匹、無数、身体の限界を超えて、入ってくる。


ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ


震える喉と、容赦の知らない翅が、食道と気管、それぞれの中でぶつかりあって、その混雑が潰したハエの断末魔なのか、まるで怨霊の音がした。


その度に、魚の小骨のような、砕かれた外骨格が、突き刺さって、痛みに悶える人間の本能は振動を強め、まるでミキサー、生きているハエと、死んでいるハエの両方を、ぐちゃぐちゃに混ぜる。


汗を材料としたゼリーのようなどろどろ。


嗚咽を引き起こす。


しかし、逆流するソレと、入ってくるハエでは、後者の方が何倍も多で、ソレの流動性が、むしろ潤滑油となって、過剰な侵入を助長した。


それでも、今のゴームドにとって、嗚咽の終着点は口だけではない。


ハスの実のような、拡張された毛穴のような、穴の集合が、全身にあって、勿論、首元にもあって、その穴々から、ソレはダラダラと滴り落ちる。


滑って転ぶように、穴人間となったゴームドは、元来の仕組みを保つことが出来ず、膝が落ち、その場で仰向けに倒れる。


背中と地面の衝突は、数万のハエを潰した。


ぷちぷちと、にゅるにゅると、平らになった。


しかしそれはほんの一部であると、減少とするほどでもないと、衰えを知らない残り達は、倒れたゴームドの、開かれた両脚の間、直立では隠されていた、新たな穴を見つける。


尿道と肛門だ。


喉に比べれば狭いものの、確実な生来の穴として、そこに二つ。


誰が教えるでもなく、本能か、狭を攻略するように、その体をくるくると回転させて、捻じ込んで、力んだ肉壁に潰される個もいれば、面に残った汚物の滑を借りて、着々と進む個もいて、むしろその方がより多く、二つの穴の周辺、半径数センチに溜まった、流れ出てきた死骸の相対的な少量が、その根拠を示している。


その内、潜り込んだハエが、膀胱を刺激したのだろう、不慣れな刺激は、溜まった尿を、勢いよく垂れ流し、しかし、その下品な匂いもこの状況では多少のこと、赤を塗り替えるほどの色もなく、ほんの少し、ハエを剝がし流したが、直ぐにまた、二つの翅と、六本の肢を用いて、それぞれの収まる場所に戻り群がった。


存外、肢使いは丁寧だった。


穴だらけというのは、むしろ表面積を数百倍に拡張し、接着面を増やす。


その分敏感となった触覚に、爪や毛が、撫でと擽りの中間といった加減をもって、忙しなく動くものだから、全身の皮膚が、尋常ならざる痒みを強いられ、それはまるで、脱皮、といった気分にさせる。


痒みと痛みが交互に襲う。


こんな、ふざけた二元、じわじわと炙るように溶かされて、一息の終焉を待ち望む全身が、痛みと痒みから、いまだ解放されないのは、ゴームドが連合の為に兵士に施した回復術が、唯一の原因である。


肉体の修復が間に合うことはなく、薄氷の生命維持を優先とした術式は、かろうじてを繰り返し、何とか彼の魂を現世に踏みとどまらせるが、それが何よりの苦痛を産んで、この地獄をただ引き延ばすことになっているということを、悲劇の当人が気付かない訳もなく、それどころか、終わりを渇望する余りか、このままの先、その道程を、ゴームドは悟ってしまっていた。


卵だ。


ヌルヌルとした固が、腹の先から捩じり出された瞬間のヌポっとした音が、大量故に集音され、悲鳴にも負けぬ程になって、ハエの詰まった耳にまでなんとか届いて、身体の中に、蓄積されていく楕円形の正体を伝える。


卵だ。


この無数のハエは、その無数を維持するため、ゴームドの身体を、揺籃として活用するようである。


眼球の上を横切るハエの腹が、皺だらけになっていて、そこにはぎゅうぎゅうに命が詰まっていたのだろう、その命はゴームドの中で産まれ、生の営みを謳歌して、そしてまた次を残して、また産まれ、連環を成すのだろう、そして、この身体に施された術式が、素晴らしい装置として、極限なる連環の一助となるのだろう。


己に課された、逃れることのできない使命を悟って、ようやく赤一色となった肉体、どろどろと、地面と同化した姿は、ただそこに、歴史を宿す。


歴史となったソレが、人間であると知れば、何を想起するだろうか。


そこに、安らかに、眠っていると、思うだろうか。


それでも、やはり、ゴームドは眠っているつもりなどなかった。

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