【第2話】鼓動と香り(下)
復帰初日。
この三日間、何事も無かったかのように、日常が戻ってくる。
エレベーターで偶然ロマンと乗り合わせ、ノゾミは何食わぬ顔をして小声で挨拶する。
「天城先生、おはようございます。この度は、突然ご迷惑をお掛けしまして申し訳ありません」
「いえいえ、お気になさらず。紬先生は、もうお加減は良くなられましたか?」
(この人は、今日もいい匂いがするのね)
一番奥で他人行儀な会話を交わしながら、二人は手の甲をさりげなく密着させていた。
「ありがとうございます。おかげさまで、まるで生まれ変わったかのように体調良好です」
「それは良かった。でもまだあまりご無理はなさらないでくださいね。ではお先に失礼します」
ロマンはノゾミより先の階で降りた。
病棟の大部屋。
ノゾミは、術後患者の経過を確認していた。
ティッシュ・スキャナー(組織診断スキャナー) を手に取り、患者の患部に淡い光を走らせた。
「……内部の炎症はありませんね。経過は順調です」
患者は安堵したように笑ったが、患部を指差して首を傾ける。
「ところで先生、この格子みたいなのは何ですか?」
ノゾミは穏やかに微笑み、答えた。
「これは スキン・ラティス といって、ナノゲルでできたフィルムです。皮膚の内側を寄せて、自然につながるのを助けているんです」
患者は、さらに表面の膜を指差す。
「じゃあ、表面のこの透明な膜は?」
「それは バイオ・シール。外側を覆う自己修復型のスキン・パッチです。傷ついた皮膚の代わりみたいな物ですね。外の菌や乾燥から傷口を守って、役目を終えると自然に剥がれますよ」
「はあ……私にはちょっと難しいですけれど、早く治って家に帰りたいんです。家族がちゃんと食事しているか、ペットが寂しがっているんじゃないかと、あれこれ気になって……」
「そうですよね。気になりますよね。でも今は、ご自身が元気になることだけを考えてください。順調にいけば、予定より早く退院できるかもしれませんよ」
患者の表情が緩み、ノゾミもほっと笑みを返した。
「次に、歩行チェックをしてみましょう。違和感があったら言ってくださいね」
患者が立ち上がった、そのとき――。
「失礼します。紬先生、カルテの確認よろしいでしょうか」
開け放したままのドアをノックしながら、落ち着いた声とともに、ロマンが病室に入ってきた。
「分かりました。後ほど」
ノゾミは患者に向き直る。
「では、少し歩いてみましょうか」
二人の医師に見守られながら、患者は廊下の手摺りの側を数メートル歩いて見せる。
「うん、大丈夫そうですね」
ノゾミは患者の様子を見ながら頷いた。
そこにロマンがさりげなく言う。
「念のためニューロ・スキャン(神経伝導走査)、しておきましょうか」
(……今のタイミングで?)
ノゾミは怪訝に思ったが、表情は崩さずに微笑んでいた。
「はい、もういいですよ」
彼女は患者をベッドにそっと横たわらせ、シーツを整える。
「先生……私まだ、他に何か……悪いところでもあるんでしょうか?」
「そうじゃありません、形式的なものですよ。元気に退院するためにも、“念には念”ですからね」
ノゾミは操作パネルに触れ、スマート・スクリーン(防音除菌パネル)を上げた。
淡い光のシールドがベッドを包み込み、外の視線と音を遮断、空気まで清浄な空間へと変える。
病室を出ると、少し離れてロマンが待っていた。
「どうして追加検査を?」
歩きながら思わず問いかけるノゾミの声が、わずかに上ずっていた。
ロマンは前を向いたまま答える。
「歩行のとき、足先の運びがわずかに硬直していた。大腿神経に軽い圧迫が残っている可能性があります」
ノゾミの心臓がどくんと跳ねた――。
(そんな微細な変化、私には見えなかった。……なぜ気づけたの?)
医師としての“プライド”とロマンへの“感心”がないまぜになり、彼女は唇を震わせながら言う。
「……本当に、よく見ているんですね」
ロマンはカルテを閉じて、やわらかい表情をノゾミに向けながら告げる。
「腰椎麻酔の影響は消えています。だから、他の要因も考慮すべきかと思いました」
彼の冷静な声色に、ノゾミは心中穏やかではなかった。
(やっぱり、ただ者じゃないのね……。)
数日後。
ノゾミの背後から、ナース・ステーションの看護師たちのひそひそ話が届いた。
「天城先生って、ミステリアスで素敵よねー」
「でも、なーんか無愛想って言うか……」
「そうそう。私たちには愛想笑いひとつしないのに、患者さんにはすごく優しいんだから」
「ねぇ、誰か特別な人でもいるんじゃないの?」
気にはなったがノゾミは何食わぬ顔で通り過ぎ、自分の担当患者のもとへと向かった。
途中、手前の病室から漏れ聞こえる声に立ち止まり、壁際にそっと下がり覗きこむ。
そこには、老女の患者とロマンの姿があった。
「先生、息子はまだですか? 息子は来てくれるんでしょうか?」
彼は老女の手を握り、穏やかに微笑みかけている。
「息子さん、きっと来てくれますよ。それまでは僕が会いに来ますから。一緒に待ちましょう」
ノゾミは、そのやり取りを見て、胸がいっぱいになった。
リラクシング・ルーム。
癒しの空間は、二人の貸し切りだった。
ソファーに腰掛け、ノゾミが口を開いた。
「ロマン、あの患者さんは——」
彼女が言いかけると同時に、ロマンは立ち上がり飲み物を取りに行く。
「僕は栄養ドリンクですが、君はいつものココアで?」
「えっ、ええ……」
彼は無言のまま飲み物を注ぐ。
ノゾミにココアを渡すと、彼は間に二人分空けて腰をおろした。
「知っています。彼女に息子はいない。もう、ずいぶん前に亡くなったと聞きました」
「だけど、昨日は……」
ロマンは正面を向き、遠くを見るような目をしている。
ふいに――しばしの沈黙を破った。
「彼女はもう長くはない。今更、真実を告げても、傷付けるだけ。病が治る訳でもありません」
「優しいのね」
ノゾミは、言って後悔した。
「息子を亡くした悲しみが、彼女に忘れさせたのか。忘れてしまうことで救われているのか」
ロマンは、思いを巡らせながら話した。
「僕も家族を……母を亡くしました。立場は逆ですけど“気持ち”は痛いほど分かりますよ。でも、同情だけが理由でもないんです。これも医師の務めなのではないかと、僕は思ったから……」
しんみりとした空気の中、ノゾミは何も言えなくなってしまった。
(ずっと独り身のままなら、私もいつかは彼女と同じようになるのかもしれない……)
ロマンがこの病院に来た初日、自分が言ったことをノゾミはふいに思い出した。
私が医師になった理由、「人を助けたい」という初心。
そして、気付いてしまった。
“人を救う”日々の中で、いつの間にか誰かを“葬る”ことにも慣れてしまっていたことに——。
「ごめんなさい……」
ノゾミがやっと言葉に出来たのは、これが精一杯だった。
彼女がぼんやりしていると、気が付けばロマンが隣にいた。
彼は青い瞳を紫に染め、きっと今日いちばんであろう優しい笑顔をノゾミに向けて言った。
「だけど、僕が誰よりも優しくしたいのはノゾミ、君なんです。知っていましたか?」
ノゾミは俯き、ロマンへ心の距離を置くような態度で言った。
「この前はありがとう。おかげで命拾いしたわ。あの三日間も、まるで夢のような時間だった。でも分からない。まだ出会って間もないのに、あなたはなんで私にそこまでしてくれるの?」
ロマンは答えた。
「僕にも……。自分でも分からないんです。君から目が離せない理由が。いつも気になる訳が。非科学的な喩えですが、もし前世があるとしたら、出会うずっと前から君を知っていた気がする」
「あなたほどの人が、なんで私なの?」
「あなたほど?」
ロマンは彼女の言葉を拾い、その意味を探った。
「よく“天は二物を与えず”と言うけれど、あなたは、二物どころか、三つも四つも、何もかも持ってるように私には見えるから……。こんな劣等感はじめてよ」
自分の気持ちに素直になれないノゾミがいた。
「君からそう見えているだけ。知らないだけで、本当は、僕には欠けているものばかりなんです」
ロマンは寂しげに呟いた。
「ノゾミを追い詰めるつもりはなかったんです。難しいんですね。“距離感”というのは……」
彼は寂しげな背中を向け、リラクシング・ルームを後にした。
(どうして私って、いつもこうなの……)
ノゾミは膝を抱え、首をうなだれた。
翌朝。
ノゾミは無意識のうちに、ロマンが担当する老女の元へと足を運んでいた。
「えーっと……あなたは?」
老女は少し不安げに、ロマンを探すような素振りを見せた。
ノゾミはベッド横の椅子に座り、老女に聞こえやすいように話しかけた。
「天城先生なら、後で来ますよ。私はただ、お顔を見に寄ってみただけです」
「あら、そうなの? 誰かが来てくれるのは私も嬉しいわ。お名前は……何と読むのかしら?」
胸のバッジを前に出し、老女が近くで見えるようにして、ノゾミはハッキリと自己紹介した。
「私は、ツ、ム、ギ、 ノ、ゾ、ミ、と言います」
すると老女は、目を輝かせて微笑んだ。
「つむぎ、のぞみ、さん……とても縁起のいいお名前ねぇ……。希望をつむぐ……。こうして、あなたが来てくれたおかげで、私もまだまだ長生きできそうな気がしてきましたよ」
ノゾミは、できる限りの笑顔を老女に向けた。
内心、どんな表情をしていいか分からなかった。
ロマンは廊下のドアの側で、その一部始終を静かに聞いていた――。
それから間も無く、老女は亡くなった――。
ロマンはこっそり遺体安置所へ行き、指を組んだ彼女の手にそっと自分の手を重ねる。
白い布の上から顔の方を向き、彼は小さな声で亡骸に語りかけた。
「お疲れさまでした。やっと息子さんに会えますね。どうか——安らかに。光の中へ……」
ロマンは目を閉じ、手を合わせてから、姿勢を正して深く頭を下げた。
翌日、ロマンを見つけると、ノゾミが声を掛けてきた。
「天城先生、少しお時間ありますか?」
産婦人科へ行こうと誘われる。
お互い担当でもないし、理由も分からなかったがロマンはおとなしく彼女に同行した。
「亡くなったそうね。あの患者さん」
ガラス越しに見える新生児。
“生まれ出たばかりの命”と“失われてゆく命”との対比。
「……紬先生は、なぜこんなところへ?」
「私ね、担当の患者さんが亡くなった後は、必ずここへ来るの」
ノゾミは、しばしの沈黙のあと口を開いた。
「この前、あなたからお母様を亡くした話を聞いたでしょ。実はね、私には両親ともいないの」
ロマンはなにも言わず、彼女の話の続きを待った。
「父は考古学者だった。私が学生時代のある日、“まだ誰も見つけていない発見をしたかもしれない。帰ったら報告する”と言い残したきり、母と二人、そのまま行方不明に……。Q-Phoneの位置情報も掴めず、忽然と消えてしまったのよ。いまだに何の手がかりも無いわ」
ノゾミは続けた。
「だから私には、血縁者は誰もいないの。ひとりっ子だったから……。医者になるときは、結婚よりも仕事!って思ってたけど、やっぱり家族がほしいなって、最近は思ってる」
「家族……」
ロマンは少し考えて呟く。
「紬先生は、どんなお母さんになるんでしょうね……」
沈黙のまま、二人はしばらく並んで新生児を眺めていた。
——天城グループ 佐賀支社・会長室。
重厚な机の後ろの窓から眩しい光がさし込み、逆光の中に一人の男が佇んでいる。
ノックの音。
「失礼いたします」
秘書の百武が静かに入って一礼した。
「本日の報告でございます。……例の件は、予定どおり順調に進行中とのことです」
男は、ため息を吐く。
「百武、ロマンは、いま何をしている?」
「医療現場での研鑽をなさっておいでです。“人体”を知ることも研究の一環だと仰って……」
「そんな暇はないだろう。早く呼び戻せ」
「承知しました」百武が静かに退室する。
扉が閉まると、室内はふたたび静けさに沈む。
男は机の引き出しを開け、幾つかの写真立ての中から、ひとつの写真立てを取り出した。
そこに映るのは、妻・ルカの変わらない微笑み。
「やっぱり、どうしても似てしまうのか……」
肩を落とした影の、かすかな独り言が、窓に吸い込まれていった――。
「なぁ、ルカ……」




