1.メシュエ
逃げねばならない。娘はひたすら盗んだ馬に乗って駆けた。うだるような夏を何日も繰り返すたびに食料は尽きた。夜闇に紛れて忍び込んだ村々から水を盗み、家畜の餌を喰らい、そのまま逃げ続けた。やがて馬が死んだので、その血を啜り、肉を喰らい、腹を壊しながら先に進む。
メシュエは逃亡者であった。小領同士の争いで村は焼けた。敵領に戦利品として捕らえられた若い娘がたどる運命などたかが知れている。
敵領に仕える者らの慰み者として弄ばれ捨てられる運命はまっぴらであった。虜囚の身から成りあがることが出来るほどの幸運と美貌、狡猾さと図太さが己にあるとは思えなかった。故に、攫われていった侍女らの悲鳴と、さらに遠くから聞こえる強制されたかのような声を聞きながら、彼女は己を抱き寄せようとした男を隠し持っていた短剣で刺し殺して逃げ出した。焼けた故郷を背に、誰の物ともわからぬ馬を走らせ、死体から拾った十四の娘にはいささか重い剣を腰に佩いて。
行くあてはなかった。領は落ち、どこへ行けども敵地。安息の地など見つかりそうになかった。彼方から来た黎明女王を祖とする光の王朝が滅びて久しい。各領は争いに明け暮れ、互いの小さな土地を喰らい合っている。夜闇から魔物らが這い出てきた、などという噂もある。二つ頭の人喰い鬼や影を駆ける六本足の犬、それに、黎明女王の敵であった死を知らぬ夜の娘、名を消された魔女王が蘇ったとも言われている。
メシュエは物陰でひそやかに語られてきた恐ろしい物語の数々を思い出す。黎明女王が身にまとった光輝と威厳によって、永遠に封じられた怪物。魔にその身を捧げた者。血まみれの圧政者。血と骨で塔を築き上げ、そこから冷酷に世界を支配しようとした恐るべき悪鬼。
生ぬるい風に乗って、正体のつかぬ何かのうめき声がする。砂と土埃広がる荒野には隠れられそうな場所はない。夏の暑さは夜になっても引くことはない。熱で枯れ果てた草を踏みしだきながらただ遠くへと行く。口は乾き、飢えは続く。メシュエは逃げなければという動物的な本能に駆られて逃げている己と、誰も知らない場所ですべてを終わりにしたい、と望む自分がいることに気付いていた。どちらにせよ、逃げなければならない。生き延びるにせよ死ぬにせよ、結末は自分で決めたかった。
カダール領はルス村の代官の娘であるメシュエは、良家の子女にふさわしく学問や芸術を仕込まれてこそいたが、一番の得手は剣の扱いであった。父似らしく、背は成長期の少年たちを追い抜かんばかりの勢い。痩せぎすな体にはいくら食べても娘らしい丸みはつかず、目は厳しすぎた。やがて、見た目の愛らしさとは程遠いメシュエには良縁を見つけてやるより得意の剣の技で身を立てさせたほうが良いだろうと、両親らは諦める。そのような訳で、メシュエは名高い剣士の一人を師につけられ、適度に放置されて育った。
村の同世代の少年らがメシュエの性を意識するようになってからは孤独であった。同世代の娘らは少年のようなメシュエを畏怖とも恐怖とも、憧れとも嫌悪感ともつかぬ複雑な感情で見ていた。代官の子であるが故に大っぴらに嫌われてはいなかったが、村の娘らは逃げ水のようにメシュエから距離を置いていた。
結果、透けるほどに薄く青白い肌を闘志で薄紅に染めながら、師と打ち合うのが日課となる。実戦こそ知らなかったが、貴族が挨拶のように行う会話の如き優美な剣技ではなく、攻防一体の実用的な剣技はメシュエの中に叩き込まれていった。それが何に使われるのか、意味するところをぼんやりとしか理解されぬままに。メシュエが剣の意味を知ったのは、村が襲われてからだった。奪うための武器と奪うための技法をずっと学んできたのだ。そう思うと、気持ちが悪くなる。
夜通し歩き続ける。疲れ果てた時に気絶するように眠り、痛みを伴う後悔を覚えながら目覚める。それを繰り返す。メシュエが歩いているのは住む者の少ない荒野であった。段々村の数も減り、ここ数日は獣すら見ていなかった。メシュエはただ突き動かされるままに逃げていた。自分が今どこにいるかは皆目見当もつかなかった。
日は昇り、落ちる。
疎らに生えている棘の多い木を剣で切り、そこから液体を啜る。僅かな苦みの混じる青臭い味が口の中に広がる。毒があるか、そのようなことに構っていられなかった。生きているのに疲れたが、飢えで死にたくはなかった。
――どこかにいけば、雇ってもらえるだろうか。
故郷なき流れ者となった己のことをふと思う。メシュエの村を襲った兵士らの中には同じ年の者もいた。年経た大人の中には女戦士もいた。正規の兵ではなく、雇われ戦士だとメシュエを犯そうとしていた男は言っていた。男はメシュエの兄と同じような年頃に見え、それがたまらなく気持ち悪かった。雇われ戦士になる未来をメシュエは放り投げる。もう一人のメシュエをどこかで生み出すのは嫌だった。人を踏みにじる獣に堕す己を想像すると、空になった胃が焼けるように痛くなり、腰に佩いた剣を邪魔に感じる。人を刺し殺すのはあっさりとしており、それにためらいも感じなかった己を思い出すたびに吐きそうになる。
――どこに行っても、同じ。
故郷の無い者を誰も信用しない。雇われ戦士になるか、それが出来なければ森へ逃げて追剥まで身を落とすかしかない。どこかに所属していないものに住む地はないことを、代官の娘としてのメシュエは知っていた。父が苦い顔で締めだした逃亡者に芸人、流浪の民達。「居つかれたら、何を持ち込むか分かったものではない――」そう、父は言っていた。
今やメシュエは面倒の種だ。そう思うと、逃げて生き延びたいという欲求は、自分の望んだ瞬間に死にたい、という諦めの混じった思いに塗り替えられる。
いつしかサンダルは壊れ、メシュエは乾いた大地の上を、足を引きずりながら歩いていた。爪は割れ、足の所々から血が滲んでいる。夜明けの薄い月が見える。空は青みがかった黒から淡い紫へと変わりつつある。冷えた風は何度も繰り返されたように、これから暑くなるだろう。
大岩を見つけ、メシュエはもたれ掛かる。もう限界であった。空腹の感覚は馴染みのあるものになりすぎて、実感がなくなっていた。乾いた喉を潤せそうな木はどこにもない。
目を閉じれば蛮行の記憶が火傷のようにメシュエを苛む。
眠りに落ちれば、わずかな間は痛みから逃れられる。
――願わくば、次は目覚めませんように。
あてのない祈りを胸に、気絶するようにメシュエは眠りに落ちた。




