第九夜┊二十「血染めの白衣」
取り出された赤子は、初めて触れた外気温の冷たさにわなないて、高らかに産声をあげた。
上衣を脱いで、羊水にまみれたままの坊っちゃんを包む。
腹を開かれて横たわる桜子は、もう瞬きもしとらんかった。
見開かれた瞳は、もう来ない明日の方角を見つめ続ける。その目尻に一筋の跡を残しながらも、最期まで聖母のような微笑みをたずさえとった。
そっとその目を閉じさせて、坊っちゃんを抱え直す。
一刻の猶予もない。この藤棚の下にいる限り、俺らの姿は海神の目には映らんやろうけど、泣き続ける坊っちゃんの声を頼りに、じきにここを探り当てるやろう。
俺は坊っちゃんを連れて、その場を離れた。
疾く、疾く。
風を切り、水を踏んで、もと来た道を駆け抜けていく。
桜子が遺してくれた両翼を必死に羽ばたかせて、龍神の視線を掻い潜って、俺は逃げた。
桜子の遺体を、藤棚の下に残して。
✤
俺は坊っちゃんを病院に預けて、総司と酒吞ちゃんに事の顛末を伝えるよう使いを出した。
驚いたことに、総司たちはおろか、あの綾取ですら、海神が現れたことに気ぃ付いとらんかった。
海神を封じた屏風がうちの蔵から何者かに持ち去られたことは知っとったけど、ぱたりと途絶えた足取りに三人は首をひねっとったらしい。
あんな強大な怪異を気配もろとも覆い隠せる存在なんて、俺は檻紙しか知らん。
心に芽生えた猜疑心を振り払うように、ガッと音を立てて思い切り頬を殴られた。
「この役立たずが!」
勢いよく叩きつけられて、後ろの障子戸ごと床に倒れ込む。
じわじわと熱を持つ頬とは裏腹に、冷え切った心が与えられた痛みを喜んで迎え入れた。
総司は俺に何も言わへん。
一番怒って欲しかった人が、「そうか」とだけ言い残して俺を許してしもうたから。
こうやって俺を罰してくれるのは、酒吞ちゃんだけやった。
「式神が主人も守れんで、よう総司の前に顔出せたな!」
「…………」
「これからやったのに……っ! 男児も産んだ桜子を侮るやつなんてもうおらへん、やっと胸張って生きて行けるようになったのに……! 嬢ちゃんも坊ちゃんも、これから一緒に大きくなるところやったのに……ッ! 今度はうちも一緒に、離宮の花見に連れてってくれるって……、約束、した……、のに……っ」
俺の胸ぐらを掴んで引き起こしながら、酒吞ちゃんがしゃくり上げる。
竜胆色の瞳がゆらゆらと揺らめいて、大粒の涙がそのまろい頬をいくつも滑り落ちていった。
「もう良い……。うちが桜子を迎えに行ってくる」
いくら殴られてもうんともすんとも言わん俺を放り捨てて、酒吞ちゃんが背を向ける。
その手を掴むと勢い良く振り払われたけど、俺は手を離さんかった。
「っ邪魔や、手ぇ離して!」
「行ったらあかん。桜子はあんな姿、酒吞ちゃんに見られとうないんよ。着飾っとる時の桜子の記憶のまま、上書きせんといてやって」
「うるさい! あんたに桜子の何が分かんねや! 守れもせぇへんかったくせに……っ! 桜子に庇われて、翼まで治してもらって、なのに桜子のことは見捨てたくせに……ッ!」
激昂した酒吞ちゃんに引き倒されて、俺らは畳の上を転がっていく。
懐にしまわれとったガラスの花簪が滑り落ちて、酒吞ちゃんの手元で止まった。
覚えのある花飾りに、酒吞ちゃんが大きく瞬いて、崩れる顔を隠すように両手で覆う。
桜子が怖がらんよう、普段は丹念に白粉を塗り込まれとる身体からメイクが剥がれ落ちて、毒に染まった両腕が露わになっとった。
「どうして……っ! あんたが、あんたがそばについとりながら……! ……うちらが、ついとりながら……っ」
あとはもう、言葉にならへんかった。
骨を折られようと肉を削がれようと一度も音を上げたことのない酒呑ちゃんが、赤子みたいに大声をあげて泣いた。
それを慰めてやれる人間は、もうこの世のどこにもおらんかった。
✤
総司は一人で桜子を迎えに行って、自分の手で腹を縫い閉じ、一番上等な着物を着せて棺に入れた。
名家の若奥様の葬儀や。
関係者もそれだけ多いし、人の数だけ視線も厳しくなる。喪主の総司は悲しみに暮れる暇もなかった。
けどまともに別れも言えんままじゃ、総司はこの先、悔やんでも悔やみきれんやろう。
俺らは、通夜が始まるまでの一夜だけ総司と桜子を二人にして、屋敷の外で夜を明かすことにした。
「総司、きちんとお別れできるんかな。後を追ったりせぇへんかな……。うちら、そばにいなくてええんかな……」
それとも、妻すらも守りきれん式神なんて、もうそばにいないほうがええんかな。
酒吞ちゃんは月を眺めながらそう呟いて、一睡もせずに朝を迎えた。
✤
「綾取、化粧は頼めるか」
「十分綺麗よ、そのままでいいわ」
一夜明けた総司は普段通りやったし、綾取が朝から手を貸してくれたのもあって、通夜も告別式もつつがなく執り行われた。
火葬場に送られる際も、小さな骨壺を手渡されたときでさえも、いつもと変わらんように見える総司の姿に、周りの奴らは少なからず畏怖しとった。
綾取はそれから一年もの間、喪に服した。
新婚にもかかわらず、白練の着物を脱ぎ捨て、黒紋付に袖を通した。
凛と伸ばされた背はいつもと変わらず威風堂々としたものやったけど、普段は白檀の香りを焚きしめとった着物からは、すれ違うたびに線香の香りがするようになっとった。
檻紙は、どうやら心を病んだらしいと連絡があった。
重要な会合でも顔を見せることはなくなって、真っ黒の屋敷に閉じこもった。
綾取か総司が訪ねると、辛うじて御簾越しに話はできたみたいやけど、檻紙邸から戻った総司は静かに首を横に振るばかりやった。
坊っちゃんは新生児集中治療室に送られたけど、ギリギリ37週目の正産期に突入しとったのもあって、葬儀も落ち着いた七日後には雛遊家の元へと帰された。
待望の男児や。誰も彼もが坊っちゃんを持て囃し、命を賭して坊っちゃんを守った桜子のことを、手のひら返して讃え始めた。
反して、カルタ嬢ちゃんの扱いは日に日に悪くなっていった。
肇と名付けられた坊っちゃんは、カルタ嬢ちゃんと違うて傑出した祓いの力もなければ、物覚えもそんなにええ方やなかった。
極めつけに、肇坊っちゃんは桜子の病弱を受け継いで、よく熱を出して寝込んどった。
そこは男尊女卑の雛遊やから、熱を出そうが物覚えが悪かろうが、長男っちゅーことで蝶よ花よと愛でられとったけど、総司が坊っちゃんの甘えを許さへんかった。
肇坊っちゃんが立てるようになったそばから早朝の稽古に引っ張りだし、熱があろうが愚図ろうが稽古をつけるよう、酒吞ちゃんに厳命した。
酒吞ちゃんも困惑しとったけど、今の俺らは少しでも総司の心が軽くなるよう、言われたことにはただ従った。
毎朝の体術の稽古を、肇坊っちゃんはひどく嫌がった。
反対に、自主的に稽古に参加しとったカルタ嬢ちゃんは、下手すりゃ素手で怪異討伐できるんやないかってくらいにみるみる上達していった。
カルタ嬢ちゃんは全般的にそつなくこなすタイプやったけど、中でも反射神経と瞬発力は群を抜いて優れとった。持ち前のセンスも合わさって、接近戦ならほぼ最強格の酒吞ちゃんともそこそこ渡り合った。
「すご……。うち、かなり真剣に打ち込んでるんやけど、全然当たらんなぁ。うちの攻撃を受けずにきちんと避けるのも賢いわぁ」
「蜜鬼の攻撃なんて、腕が何本あっても防げないもの。力では敵わないからね、まともに受けたりしないよ」
「綾取に自慢したろうか。きっとカルタ嬢ちゃんのこと欲しがるやろな」
「カルタ嬢ちゃんを教えるのはうちの役目やよ。綾取に知られたら取られてまうわ」
あまり他人を褒めることのない酒吞ちゃんやけど、カルタ嬢ちゃんとの手合わせではいつも心から賞賛して、真剣なアドバイスを繰り返した。
カルタ嬢ちゃんは天狗になることもなく助言を受け入れ、強い瞳で「お母様の分まで、私がお父様を支えないと」と返した。
俺らが感激して、尚更指導に身が入ったのは言うまでもなかったけど、総司がそれを認めんかった。
ほどなくして、俺らはカルタ嬢ちゃんに戦いに関する一切を教えることを禁じられた。
カルタ嬢ちゃんは猛反発したけど、総司は聞く耳を持たへんかった。
俺らやって、こんなの間違っとるとは思うとったけど、それでも総司に従った。
カルタ嬢ちゃんが内緒で続きを教えてくれないかと何度も打診してきたけど、俺らは断り続けた。
総司がそんな様子やから、周囲もひときわ肇坊っちゃんを持ち上げて、カルタ嬢ちゃんとは関わらんようになっとった。
カルタ嬢ちゃんの隣に並べたら、どうしたって肇坊っちゃんが見劣りする。
そんな大人たちの手前勝手な都合で、坊っちゃんと嬢ちゃんの間には距離ができていった。
俺らは気にせずカルタ嬢ちゃんとも接しとったけど、カルタ嬢ちゃんからしてみれば、総司の言いなりの俺らが四六時中自分を監視しとるようにも見えたんやろう。
カルタ嬢ちゃんが、「蜜鬼」から「酒呑童子」に呼び方を変えたことに、酒呑ちゃんはひどく胸を痛めとった。
けど、総司に強く出られんまま、こんなにも実力と向上心に溢れ、努力も怠らんカルタ嬢ちゃんが蔑ろにされとるのをただ傍観しとるだけの俺らに、何も言う権利はない。
そのうちカルタ嬢ちゃんは、俺らとは一切口を利かへんようになっていった。