第九夜┊十九「血染めの白衣」
「っ桜子!!」
状況を理解して、弾かれたように手を伸ばす。
桜子は血で染まった自分の手を呆然と見下ろしとったけど、やがて「ふふ」と自嘲するように声を漏らした。
「こんなになっても、まだ生きてる……。すごいわね、鴉取の生八つ橋……」
「っ……阿呆抜かせ、八ツ橋にそんな効果あるわけないやろ! ……痛いやろうけど少しだけ頑張りや、すぐに助けが来るからな」
気休めにもならない言葉を掛けながら、桜子を助ける方法を脳内で必死に考える。
無理や、間に合うわけない、って頭ん中でどこか冷静な自分が反論しとったけど、それを振り払って意味のない止血を施した。
「なんだか……初めて会った時のことを思い出すわね……。こういうのを……、走馬灯っていうのかしら……」
「ふざけたこと言うとらんと、気をしっかり持ちや! 今日までこない頑張って生きてきたんやろ、こんなところで終わらせんなや!」
「そうね……、今日まで、たくさん……、いろんなことがあったわね……」
だんだんと虚ろになっていく桜子の瞳に、ああまずい、どないしよう、と焦りばかりが先に立つ。
止まらない血が俺の服にじっとりと染み込んで、その重さの分だけ桜子の身体が軽くなっていくのが怖かった。
応急手当はできても、瀕死の仲間を助ける手段なんて持っとらん。焦燥に駆られる俺に反して、桜子の表情はひどく穏やかやった。
「雛遊に嫁いできた日は……、内心すごく心細かったわ……。こんな大きなお屋敷で、やっていけるのかしらって……」
「分かったからもう口閉じや!」
「あなたたちにも、歓迎されてないことはわかってた……。でも、鴉取も蜜鬼ちゃんも、きちんと私に向き合ってくれた……。私を無視することも、閉じ込めることもしなかった……。私が間違ってたらちゃんと叱って、いつだって、正しい道を教えてくれた……」
何も言えへん俺に、「私、すごく楽しかったわ。本当よ」と桜子が微笑みかける。
楽しいわけあるか。今日まで辛くて苦しい思いばっかしてきたくせに。なんでそんな別れの言葉みたいなこと言うとるんや。
それ以上聞きたくなくて、無我夢中で桜子から溢れる血を止めようと力を込める。
桜子は苦しげに喘鳴しながらも、微笑みだけは絶やさんかった。
「ねえ、鴉取……。昔、あなたが出してくれたテスト……、覚えてる……?」
「テスト?」
必死に圧迫止血を続ける俺に、桜子は静かな声で諳んじる。
俺がかつて、桜子に投げ掛けた問いを。
——俺は瀕死の重傷、アンタは無傷。他メンバーははぐれて生死不明。目の前には俺が仕留め損ねた怪異……。
今度は逆ね、と桜子が笑んだ。
「正解は、『私を置いて逃げる』でしょう……?」
「っド阿呆! 治癒士の命が最優先やって、何度言ったら分かるんや! アンタが俺を置いて逃げることはあっても、その逆はないんよ!」
「わかってるわ。私、あれからとっても勉強したもの。……でも、治癒士よりも大事なものが、ここにいるでしょう」
桜子が冷え切った指で自分の腹を撫でる。
その中にいるのは、——雛遊の後継者。
総司の血を継ぐ、唯一の男児。
直感的に嫌な予感がして、サッと血の気が引く。
両手が空いとれば耳を塞いでうずくまったやろうけど、残念ながら俺は無意味な止血で手一杯やった。
「母体の呼吸が止まったら、胎児も窒息してしまうの……。だから、お願い……。私が死ぬ前に、あなたがその手で取り出して……」
縋るような桜子の言葉に、ぶわっと全身が毛羽立つ。
その意味を理解して、震える喉から「無茶言わんといてや」となんとか声を絞り出した。
「こんな、麻酔も医療器具もないとこで、アンタの腹ぁ掻っ捌いて中の子供を取り出せって? 正気の沙汰やない」
「鴉取、私はもう助からないわ……。でも、あなたならこの子は助けられる……」
「助けられへんよ! 仮にアンタから子供を取り上げたところで、俺らはこの藤棚の下から動けへん。もたもたしとるうちに亡くなってまうわ!」
半狂乱で叫ぶ俺を、「鴉取」と優しい声音が宥めすかす。
「私、知ってたわ……。あなたたちが私を生かしてくれたこと。あなたたちが、大事なものと引き換えに……、私を永らえさせてくれたこと」
パチン、と軽やかな音を立てて外された髪留めは、かつて酒吞ちゃんが桜子を着飾らせた時に選んだ、精巧なガラス細工の花簪。
桜子はそれを、宝物のように今日まで大事にしまっとった。
「蜜鬼ちゃんにあげてくれる……? ありがとう、約束を守れなくてごめんなさいって……」
「い、言えるわけないやろ……っ! 自分の足で帰って、自分の言葉で謝りや!」
「鴉取……。私はここまでなの。もうここから一歩も動けないのよ……」
「そんなん俺やって同じやよ。俺じゃ逆立ちしたって龍神になんか敵わへん。さっきやって、逃げることすらできひんかったから、アンタにこないな怪我負わせてもうたんやろうが……ッ! もう飛ぶこともできひん俺じゃ、アンタが言うように赤ちゃん取り出したところで、どこにも逃げられへんよ!」
自分の無能を声高に叫ぶ俺に、「いいえ、飛べるわ」と答えて桜子が頬に触れる。
「私、檻紙さんに尋ねたの。治癒士を極めたら、一体どこまで治せるのか……。不治の病を治療することはできるのか。失った手足を再び生やすことはできるのか。——神々に捧げたものでさえ、取り返すことができるのか」
このために私、すごく勉強したんだから。
そう言って瞬く瞳は、十八の時の桜子と何ら変わらない、強い色を宿しとった。
血の気を失って真っ白な指が、凄惨な傷跡の残る俺の腰を撫でる。
その手が辿る先に、呼び起こされた神経がざわざわとさざめいた。
「一つ、開いて鳳仙花
二つ、吹き抜く天ツ風
三つ、水面に神無月
四つ、向き合い杜若
五色の短冊、願い込め
六藤の折り目に厄祓う
七つの苦難を耐え抜いて
八重の桜に祈りを捧ぐ
——彼の者に再び、天翔ける翼を」
春風のような祝詞に包まれた刹那、失われたはずの器官がばさりと羽ばたいて、風を捉えるのを感じる。
……血統に恵まれたわけでもなく、後押しになる環境もなく。
己の努力と研鑽だけでついに頂点を極めた治癒士は、神々との取り引きにさえも手を掛けた。
俺の腰から再生されていく翼は、元のように羽を広げ、艷やかに光を映す。
時代が時代なら、神の御業とも讃えられる奇跡の術やろう。
——けど。
桜子の治療は、桜子自身の体力を大きく削る。
こんな奇跡の対価を払えるほど、桜子にはもう、体力が残されとらんかった。
「鴉取。あとのことは、頼んだわね……——」
俺の腕にぐったりと身を預けると、桜子は最期に俺にそう言い残して、笑った。
——もう、俺にやれることなんて、一つしか残されとらんかった。
唇を引き結び、クナイを握り締める俺を他所に、桜子が身をよじる。
もう何も映しとらん瞳が宙を向いて、なにかを追いかけるように虚空に手を伸ばした。
「ああ、総司さん……、これでやっと……、あなたの、となりに……」
その手がふっと力を失って、地面に叩きつけられた。
✤
——雛遊桜子。
享年二十九歳。
死後ようやく万人にその実力と努力を認められ、後世まで語り継がれるようになった天才治癒士の、短い生涯の幕が下りた瞬間やった。




