第八夜┊四「エントランスホールは騒々しい」前編
扉の向こうは、異世界に足を踏み入れたのではないかと錯覚するほどの豪奢な空間が広がっていた。
白基調の大理石と、金の装飾が織りなす壮麗なホールには、高い天井を支える朱塗りの柱が林立し、上部には金箔を散りばめた彫刻が施されている。刻み込まれた龍の彫像は、今にも天に昇っていきそうな躍動感を放っていた。
床には深紅の絨毯が敷き詰められていて、雲の上を漂うような柔らかさを足裏に感じる。開放的なホールには、待ち合わせ中らしき人々が点々と集まって、めいめい会話に花を咲かせていた。太陽のように輝く豪盛なシャンデリアが、そんな彼らに光の雨を降らせている。
ここが玄関だなんて信じられない。
何もかもが別世界に感じるホールの中で、焚きしめられた白檀の香りだけが、かすかに覚えのあるものだった。
その既視感に少しだけほっとする。若宮さんの着物と同じ香りだ。
「あの宮司が来るまで、俺らはここで待ってないといけないんだよな。あんまり待たされないといいけど」
緊張に肩を強張らせる僕とは打って変わって、星蓮は退屈そうに柱に寄りかかる。
彼の体が一般的な体重計では測定できない重さであることを知っている僕は、柱が折れてしまうんじゃないかと内心ヒヤヒヤした。
こんな建物に傷をつけたりしたら、僕らは一生タダ働きだろう。
雛遊先生は電話で、「綾取さんが来るまで、絶対に中には入らないでください」と言っていた。
エントランスホールの奥には会場への入り口らしき扉があるが、こちらは閉ざされていて中の様子は窺えない。
既に開場自体はされているようで、何人かは自らの手でその重そうな扉を開くと、会場の中へと体を滑り込ませていった。
若宮さんが来るまですることはないので、僕も星蓮にならってぐるりと会場を見渡す。
ちょうど誰かが来たのだろうか。カツ、カツ、とヒールが床を叩く音が高らかに響いて、四、五人連れの一行がエントランスホールに入った途端、ひそやかだった周囲の歓談の声が、ざわざわと高まっていった。
「主催代理、お食事の準備が整いました」
「ありがとう。お飲み物と軽食からお出しして。ああ、もうすぐ総司さんがいらっしゃるわ、くれぐれも失礼のないようにね。それからアトリが手を出さないよう、前菜からアボカドを抜いてちょうだい」
「承知いたしました」
決して大きな声ではないのに、竹を割るような凛とした声がホール全体に響き渡る。
声の主に何気なく目をやって、僕と星蓮は悲鳴を上げないようお互いに口を押さえた。
右側の高い位置で結ばれたサイドテールの黒髪と、大胆なスリットの入った白練のチャイナドレス。猫のような瞳に、はっきりとした顔立ち。格好こそ違ったけれど、その顔は若宮さんと瓜二つだった。
豊かな胸のふくらみがなければ、うっかり声を掛けていたかもしれない。
「に、二卵性双生児だからちっとも似てないって言ってなかったか。そっくりじゃないか。本人かと思ったぞ……!」
声を潜める星蓮に、こくこくと頷く。
間違いなくあの人が、以前言っていた若宮さんの双子の妹だろう。
二人して柱の陰に隠れながら、そっと妹さんを覗き見る。
彼女は僕らを知らないはずだけど、この場で若宮さんを待っているというだけで、どこか後ろめたい気持ちになった。
以前聞いていた通り、自分の仕事はしっかりする人のようだ。テキパキと指示を下す妹さんの態度には、確かに気安さこそないものの、無駄な威圧感もない。一礼して去っていく使用人たちの顔は生き生きとしていて、妹さんの人望の高さが窺えた。
髪を掻き上げて書類に目を落としている彼女の顔には、若宮さんとは左右反対の頬に祟り除けの隈取りが施されている。
十字の花のような紋様は、彼女が耳につけている飾り紐のピアスと同じ形をしていた。
「総角結びだな。魔除けと護符の効果がある」
星蓮の解説に、「へえ、結び方ひとつで魔除けになったりするんだな」と小学生みたいな感想を返す。
厳重な祟り除けは、彼女も神々を相手にするという証拠だろうか。
息を潜めて見つめていると、長駆の男が妹さんに近付いていった。こちらも丈の長いブラックシルクの中華服を身にまとっている。
黒髪の間から覗く男の耳にも、妹さんと似たような飾り紐のピアスが揺れていた。控えていた他の人達と違って、へりくだらない態度で妹さんに声を掛けている。
「今日は襲も来るんだろ? 塩でも撒いておこうか」
「およしなさい、塩と時間がもったいないわ」
ピンポイントで待ち合わせ相手の名前が挙がって、肩が跳ねた。こうも分かりやすく嫌われているといっそ清々しい。
ここに若宮さんと連れ立って入るのは、もしかしてかなり勇気がいることなのではないだろうか、と不安になってきた僕の横で、星蓮が瑠璃色の瞳を真剣に細める。
「あいつ人間じゃないな。神獣だ。それも多分、九尾の狐より高位のやつだぞ」
「え、あの黒髪の男の人?」
星蓮に言われてその男の人を見ていると、ちらりと男がこちらに目を向けて、僕らと視線がかち合った。
「……っ!」
こちらに来るかと身構えたが、男は口の端だけで笑うと、何事もなかったかのように妹さんと会話を続ける。やがて彼らはそのまま会場の中へと消えていった。
「び、びっくりした——……」
「気付かれてたけど見逃されたな。取るに足らない存在だと思われたんだろ」
「今の人って、君より強いの?」
「うーん、神獣っていうのは俺と全く種類が違うからなあ。ケーキとパスタ、どっちが旨いか比べるようなものだぞ。……喰うか喰われるかだったら俺は大抵の奴に勝てるけど、あいつがおまえを狙ってきたとするだろ。んで、多分あいつのことは食べちゃダメだって言われるだろ? そうすると俺に出来ることはほとんどない」
なるほど、具体的でわかりやすい説明だった。
餓者髑髏の時もそうだが、全てを丸呑みにしてしまう彼の性質上、食べてはいけないものとの相性がすこぶる悪い。
「この会場で喰っていいやつなんていないだろうし、それはイコール、俺が戦って勝てるやつがいないのと同じだ。おまえのことも守ってやれなくなるから、あんまり目立たないようにしような」
子供に言い聞かせるように星蓮に優しく諭されて、「まるでいつも僕が騒動を持ち込んでるみたいじゃないか」と口を尖らせる。
祓わないでと言って困らせたことは何度かあるけれど、僕が厄介事を持ち込んだことは今までなかったはずだ。多分。