重い現実(1)
7月。宝塚記念も終わり、世間はすっかり夏競馬のムードになった。
ライスフィールドが休養を取っている間も、野々森牧場の馬達は何頭かレースに出走していた。
その中、未だ未勝利のクリスタルコンパスが函館で3歳未勝利戦に出走した。
これまで関東や関西で行われた未勝利戦に所属馬が1頭だけ出走した場合、牧場からは1人か2人程度しか駆けつけなかったが、今回は牧場から近いため、競馬場には蓉子、葉月、太郎、米太が駆けつけた。
一方、村重厩舎も必勝を期す意味も込めて、善郎、道脇君、紅君が駆けつけた。
クリスタルコンパスはこれまで6戦走って1着こそないものの、2着が1回、4着が1回あることが評価され、単勝は3.8倍で、12頭立ての2番人気だった。
レースでは中段につけ、3コーナーから徐々に上がっていき、最後の直線で一気にスパートに打って出る作戦だった。
その作戦は4コーナーまでは順調だったが、直線の入り口で思わぬことが起こった。
『クリスタルコンパスが下がっていくが、何かあったのか?故障か?クリスタルコンパスに故障が発生したのか!?』
場内でそういうアナウンスが流れると同時に、同馬に賭けていた人達は一斉に悲鳴を上げた。
さらに蓉子をはじめとする牧場の陣営や、善郎をはじめとする厩舎の陣営も、顔を青ざめさせながら悲鳴を上げていた。
クリスタルコンパスは倒れこそしなかったものの、レース後に馬運車に乗せられて競馬場を後にしていった。
「蓉子さん、葉月さん、太郎さん、本当に申し訳ありません。何とか勝たせてあげたかったのですが…。」
善郎は申し訳ない表情をしながら謝罪をした。
「こればかりは仕方のないことです。村重先生、謝らないでください。」
蓉子は悔しい気持ちを必死にこらえながらそう言った。
葉月と太郎も言いたいことは色々あったが、口に出すわけにもいかず、善郎達の顔をにらみつけることしかできずにいた。
検査の結果、クリスタルコンパスのは重度の骨折を負っていた。
しかも生還できる保証はなく、たとえ助かっても競走馬としての復帰は不可能だろうというだった。
受け入れがたい結果を突き付けられた蓉子達は、話し合いの中でクリスタルコンパスをどうするのかについて話し合った。
「悔しいけれど、この馬は抹消するしかなさそうね。もしも無事だったら未勝利戦がなくなっても500万下に出すつもりだったけれど…。」
葉月は無念そうな表情を浮かべながら自分の考えを打ち明けた。
「そう…。太郎はどう考えているの?」
「残念だけれど、せめて繁殖牝馬になれるのならそうさせてあげたい。重賞勝ち馬であるクォーツクリスタルの仔だけに、この馬には期待しているから。」
「分かりました。ではこの馬は今日を以って現役を引退します。そして命の危機を脱するまでの間、治療費を払い続けることにしますが、よろしいですか?」
「はい、賛成です。」
「僕も同感です。」
彼女らの話し合いにより、クリスタルコンパスは登録抹消が決まった。
一方、ライスフィールドは温泉施設に来てすでに1ヵ月が経過していた。
クリスタルコンパスのショックが癒えない中、蓉子は施設の人と連絡を取り、近況を確認した。
「そうですか…。ライスフィールド、疲れや体の痛みがまだ取れていないだけでなく、夏バテで馬体重がかなり落ちているんですね。つまり現時点では厩舎に戻って調教できる目処は立っていないということですね。」
「引退して種牡馬入りを考えているかですか?いえ。こちらとしてはまだやれると信じていますし、このままでは終われないと思っています。」
「こちらとしては復帰してレースで勝利を挙げてくれることを信じて費用を払い続けます。そちらも最善を尽くしていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。」
彼女は渋い表情をしながら通話を終え、電話を切った。
その後、蓉子は葉月と話し合いの場を設け、今後のことについて話し合った。
「葉月としてはライスフィールドについてどう考えているの?」
「もし骨折とか屈腱炎を発症していたら仕方ないとあきらめもつくけれど、そうでないのであれば現役を続けてほしい。お母さんは?」
「私も同じね。でも今の成績で引退したら、種牡馬としての今後が心配なのよね。現にGⅠ1勝で引退したフシチョウは馬体重600kgにも及ぶ体の大きさが災いしてか、去年は16頭、今年は10頭しか牝馬が集まらず、かなり苦戦しているそうだし。」
「その一方で、ファントムブレインはものすごい勢いで牝馬を集めているそうね、お母さん。」
「そうね。うらやましい限りね。でも仮にもしライスフィールドが今の成績のままで引退したら、フシチョウに近い現実が待っていそうね。GⅠこそ2勝しているけれど、小柄だの、脚部不安馬だの回復力がないだの色々言われてきたから。」
「こちらとしても肩身が狭かったわね。相手の人達からは長所よりも短所ばかりをしてきされるような感じだったし。」
「相手もお金を払うわけだから妥協はできないでしょうし、仕方ないわ。こちらも種牡馬候補の馬を持つのは初めてだから全てが手探りだし、まだまだ色々と交渉のノウハウを学ばなければいけないでしょう。」
「とはいえ、ライスフィールドが現役でいられるのは今年いっぱいになるんでしょ?お母さん。」
「それは間違いないわね。脚部不安に加えて回復力が落ちてきていることを考えると、今年の有馬記念が最後になるでしょう。もしそれが終わった時にGⅠの勝利数が2つのままだったら、その時は現実を受け入れていく覚悟がある?」
「うん。ライスフィールドが必死に走って勝ち取った勲章だから、責めたりしないし、誇りに思いながら種牡馬として迎えるつもりでいる。」
「あとは太郎がどう思うかだけれど、葉月は彼を説得できそう?」
「説得してみせる。もしライスフィールドに文句を言うようなことがあったら、また業務停止処分にしてやる!」
「それは言い過ぎでしょうけれど、頼んだわよ、葉月。」
「まかしといて。」
2人の心の中には、すでにライスフィールドを5歳で引退させて、種牡馬として出迎える覚悟が出来上がっていた。
一方、あの3歳未勝利戦から2週間が経過した頃、関東のトレセンには紅君と面会した太郎の姿があった。
「寿稀さん、あれからクリスタルコンパスの件で皆さんには色々とお手数をおかけしてしまい、すみませんでした。」
「いえ、太郎さん、とんでもないです。こちらとしては最善を尽くしましたし、できることは全てやり尽くしました。ですが、望んでいた結果にならず、本当に申し訳ありません。」
「気にしないでください。あなた達は悪くないです。それで、僕としては最後まで生きることをあきらめなかったクリスタルコンパスの姿を一目見たいのですが、よろしいでしょうか?」
「分かりました。本来なら関係者以外立ち入り禁止ですが、ちょっと相談してきます。少々お待ちいただけますか?」
「分かりました。」
紅君は会話を終えると、一目散に善郎や獣医師さん達に相談に向かった。
そして特別に許可をもらうことができた太郎はクリスタルコンパスの姿を見届け、持っていた花束をそっと置いた。
そしてたてがみを少しずつ切り取っていき、それを持って牧場へと戻っていった。
クリスタルコンパス 最終成績:7戦0勝、2着1回、4着1回




