復帰のタイミング
3月。村重厩舎は騎手を引退した人を新たに1人迎え入れた。
彼の名前は紅寿稀。関東所属で、見習騎手としての5年間に平地で20勝、障害で6勝を挙げていた。
(※これまでの作品では見習い期間は3年でしたが、本作品では5年に変更になっています。)
しかし落馬事故によるケガや成績不振によって騎乗依頼が減少し、最後の6ヶ月間は勝利を挙げることができなかった。
引退前にはテレビ特番である「クビを宣告されたジョッキーたち」の取材を受けていたが、その時には絶望的なまでの表情でインタビューに答えていた。
だがその後、村重厩舎からのオファーが届き、最終的には希望に満ちた表情で取材を締めくくることができた。
(※「クビを宣告されたジョッキーたち」に関しては、「下克上 ~弥富騎手、引退危機からの逆転劇~参照」)
紅君は、厩舎で善郎達の前に立つと、緊張しながらあいさつに臨んだ。
「初めまして。えっと、紅 寿稀です。この度は、僕を調教助手として採用していただき、誠にありがとうございます。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」
彼はそう言うと、深々とお辞儀をした。
「こちらこそ、よろしく。ライスフィールドという活躍馬がいる分、まわりからの期待も大きいですが、君なら貢献していけると思っています。期待していますよ。」
「分かりました、村重先生!これから1頭でも多くの活躍馬を輩出できるように頑張ります!」
「よし、頑張ってくれ。それから僕のことは村重先生と呼ばなくていいよ。ここでは親しい名称で呼び合うことになっているから、僕のことはヨシさんと呼んでくれ。ヨシでもいいけれど。」
「正直、呼び捨てでは恐れ多いので、ヨシさんと呼ぶことにします。ちなみに、僕のことは『トッキー』と呼んでください。」
「分かりました、トッキー。これから頑張ってくれよ。」
「はい、頑張ります!」
紅君は善郎とのあいさつを済ませると、道脇君、鴨宮君、アキ達にも一人ずつあいさつをして回った。
その後、各自で担当する馬について話し合った結果、紅君はユーアーザギターと厩舎に入ってきたばかりの2歳馬2頭を担当することになった。
その週の土曜日。オーバーアゲインが阪神スプリングジャンプ(J・GⅡ 阪神、芝3900m)に出走した。
厩舎からは善郎、道脇君、アキが阪神競馬場に駆けつけた。
(※鴨宮君は騎乗のために中山競馬場におり、紅君は厩舎で留守番。)
結果は14頭立ての13着に終わり、惨敗だった。
「ヨシ。この馬はもう11歳だし、いくらなんでも限界じゃないの?」
アキはクールダウンしているオーバーアゲインを見ながら善郎に問いかけた。
「それは僕も気付いていないわけではない。でも馬主さんは来月行われる中山グランドジャンプに出したがっているようだし、少なくともそこまでは現役を続けたいと考えている。それに…。」
「それに?」
「この馬はまだ引退後の行き先が決まっていないんだ。障害GⅢを1勝しているものの、それだけでは不十分なようだし…。」
善郎はどこか寂しげな表情で答えた。
「そう…。大変ねえ…。」
アキはそれ以上は何も言わず、弟の横顔を見つめていた。
オーバーアゲインが馬運車で競馬場を出発すると、善郎達も競馬場を後にし、新幹線で関東に向かった。
翌日。今度は中山競馬場でフロントラインとユーアーザギターがレースに出走した。
鞍上はどちらも鴨宮君で、結果は次の通りだった。
フロントライン 4歳以上1000万下(中山、ダート1200m)15頭立て、10着
ユーアーザギター 4歳以上1000万下(中山、ダート1800m)12頭立て、11着。
「シン、どうだった?今日の内容は?」
「両馬共に展開がハマらなかったようです。さらにユーアーザギターは力不足だったようにも感じました。」
「まあ、ギターは11番人気だったし、ちょっと実力的にきつかったかもしれんな。」
「でも、どのレースも勝つつもりですし、次は頑張ります。」
「分かった。頼んだぞ。」
「はい、ヨシさん。」
鴨宮君は善郎と簡単に会話を交わした後、検量室へと向かっていった。
それから間もなく、ライスフィールドはようやく厩舎に戻ってくることができた。
厩舎ではしばらく勝利がないだけに、メンバー達は期待の馬の復帰を心から喜んだ。
一方、2歳戦を戦ってきたライバル馬達は、続々と皐月賞のトライアルレースに出走してきた。
そしてトランクゼウスやフシチョウ、トゥーオブアスは順当に皐月賞の優先出走権を獲得し、準備を整えてきていた。
このトライアルレースではそれまで無名だったシドニーメルボルンという馬(関東馬)が波乱を起こして優先出走権を獲得し、新たに名乗りを上げてきた。
ちなみにシリコンヒルは優先出走権こそ獲得できなかったが、賞金的に除外の可能性はほぼない状況だった。
そんな中、ライスフィールドを担当している道脇君は調整に頭を痛めていた。
(うーーん、なかなか調子が上向いていかないなあ。元々体が小さい上に、ちょっと食欲も上がっていないようだから、強い調教で体を絞ることはできないし、どうすればいいんだ。このままでは皐月賞に間に合わない。)
彼はこのことについて、善郎と話し合うことにした。
「ヨシさん。調教でのタイムも良くないですし、正直、皐月賞はどうしましょう?」
「そうだなあ…。登録すれば除外はまず無いだろうが、うちらは勝たなければならない立場だからなあ。」
「そうですね。それに他の陣営はライスフィールドを相当意識しているようですからねえ。中でもトランクゼウスの陣営は朝日杯の雪辱に相当燃えていますし。」
「うん。だからこそ、生半可な仕上がりで出すわけにはいかない。出すからにはチャンピオンとして出なければな。」
2人はライスフィールドをどうするかについて、色々意見を交わした。
さらにはアキ、鴨宮君、紅君をも交えて、何日もかけて慎重に意見を交わした。
そしてついに結論を出した陣営は、野々森牧場に連絡を取ることにし、善郎自らが蓉子に電話をかけた。
「そうですか。皐月賞は回避するんですね。期待していただけに残念です。」
「本当に申し訳ありませんが、何卒ご了承ください。」
「いえいえ。こちらこそ、放牧中にケガをさせてしまって、調整を遅らせてたので、こちらこそ申し訳ないです。」
「その点は気にしないで下さい。ただ、皐月賞は回避しても、青葉賞かNHKマイルCで復帰できるように調整していきますので、ダービーにはぜひ期待してください。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
牧場側の了解も得た善郎は、早速マスコミにライスフィールドが皐月賞を回避することを打ち明けた。
他の陣営や、ファンの人達は一斉に残念がっていたが、善郎の心はブレなかった。
(これで良かったんだ。これで次のレースまで時間ができた。NHKか青葉賞かはまだ未定だが、しっかりと調整して、レースに出す。そしてどんな馬の挑戦でも受けて立つ。)
そう思っている彼の目線はすでに皐月賞の先に向けられていた。




