新たな従業員
2月。ライスフィールドが休養している間、ライスパディーとユーアーザギターがそれぞれレースに出走した。
(オーバーアゲインは4月に行われる中山グランドジャンプ(J・GⅠ)に向けて調整中。フロントラインは厩舎に戻ってきたばかりだった。)
結果は次の通りだった。
ライスパディー 3歳未勝利(東京、芝2300m)10頭立て、1着
ユーアーザギター 4歳以上500万下(東京、ダート1600m) 14頭立て、1着
2頭はそれまでなかなか勝てなかったのが嘘のような好走を見せ、見事に勝利をつかんだ。
両馬にまたがった鴨宮君はこれで通算勝利数が28になった。
「ヨシさんやりました!うまいこと作戦がハマりました!」
「さすがだ、シン。よくやってくれた。これで31勝が見えてきたな。」
「はい。この調子でジャンジャン騎乗をつかみ取っていきますっ!」
「うん。頼んだぞ!」
鴨宮君と善郎は引き上げ場でがっちりと握手を交わし、愛馬の健闘をたたえ合った。
競馬場には牧場が所有している他の馬を見に来た太郎が駆けつけており、ライスパディー勝利時には彼も生産者の一員として歓喜の輪の中に加わった。
(※蓉子と葉月は不参加。)
「村重先生、ありがとうございます!ライスフィールドが活躍する一方で、この馬は一体どうなってしまうんだろうと心配していましたが、やっとこれで安心できました。」
「それはこちらも同じでした。この馬を未勝利のまま戦力外にしたくないとずっと思っていましたので、そちらの期待に応えられてうれしいです。」
2人は喜びの声を掛け合った後、ウィナーズサークルへと向かっていった。
そして道脇君、鴨宮君と馬主の人を加えた5人で記念撮影に臨んだ。
彼らが満面の笑顔を浮かべている中で、その様子を見ていた一部のファンの人達の表情は冷ややかだった。
「何ニヤニヤしてんだよ。こっちの馬券を外れにしやがって。」
「ここで勝ったところで、たかが未勝利戦でしょ?」
「地味だねえ。こんなレースに勝って喜べるなんて。」
その声は善郎の耳にも入ってきた。
(他人には「たかが未勝利戦」に見えるかもしれんが、こっちにとっては「されど未勝利戦」だ。この1勝のためにこれまでどれだけの努力をしてきたか。それにこの時期に勝てたのは大きい。これでまた2歳の有力馬を獲得しやすくなった。とにかく1頭でもたくさんの馬を預かれるようにならねば…。)
彼は喜びながら、これまでの努力の日々、さらには今後のことを色々と考えていた。
そして撮影が終わると、ライスパディーのこれからについて話し合い、その結果、未勝利を脱出したご褒美として、放牧に出されることになった。
ただ、この馬は寒さを嫌うため、野々森牧場ではなく、本州にある育成施設に行くことになった。
太郎や馬主の人は1勝という大きな関門を突破したライスパディーが馬運車に乗せられ、競馬場を後にしていく光景をじっと見つめていた。
その後、村重厩舎は従業員増員の募集の結果、まず1人を採用することになった。
その人は善郎の姉である風晴アキであった。
彼女は3か月前まで美浦の別の厩舎で働いた後、旦那の実家に住んでいた。
その間、その場所で旦那の両親と過ごして英気を養っていた。
そんなある日、善郎からぜひ来てほしいという声がかかり、話し合いを重ねた末に採用となった。
村重厩舎での初日、アキは善郎と一緒に従業員の前にやってきて、あいさつをすることになった。
「皆さん初めまして。風晴アキと申します。この度、弟の呼びかけにより、この厩舎で働くことになりました。皆さんの力になれるように頑張りますので、よろしくお願いします。」
彼女はこれまで厩舎の最年長だった善郎よりもさらに7歳年上のため、他の人達よりも年齢差はあったが、まるで若手の新入社員のように深々とお辞儀をした。
「道脇長伸です。こちらこそ、よろしくお願いします。僕のことはミチと呼んでください。」
「鴨宮新です。シンと呼んでください。一緒に頑張りましょう。風晴さんのことは何て呼べばいいですか?」
「姉さんと呼んでくれればいいですよ。」
この厩舎ではお互い親しい名称で呼び合っていることを知っているアキは、笑顔でそう答えた。
(とりあえず早い段階で1人増やすことができて良かった。だが、馬の数を考えると、もう1人欲しいな。すでに何人か候補は絞っているし、その中から1人を選んでみようかな。)
アキ、道脇君、鴨宮君が楽しそうに話し合っている中で、善郎はさらなる手を打とうと考えていた。
一方、ライスフィールドはけがも治り、春のクラシックに向けて動き始めようとしたが、今度は体調を崩してしまい、なかなか本格的な調教を開始できずにいた。
そんな状況を把握していた葉月は蓉子と相談した結果、村重厩舎に電話をかけることにした。
『もしもし。村重厩舎の風晴でございます。』
電話に出たのはアキだった。
「えっ!?あ、あの…。」
厩舎に女性が加わったことを知らずにいた葉月は、驚いて思わず言葉に詰まってしまった。
『もしもし?どうしましたか?』
「いえ、な、何でもないです。あ、あの…、実を言うと…。」
葉月はたどたどしい口調になりながらも、何とかライスフィールドに関する近況を打ち明けた。
『なるほど。つまり復帰がちょっと遅れそうだということですね。』
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。せっかく今年のクラシックに向けて意気込んでいる時なのに…。」
『大丈夫です。こちらとしてはきちんと治した状態で戻ってきていただければ十分なので、あせらなくていいですよ。』
「分かりました。1日でも早く治せるように努力していきます。」
葉月はしょんぼりとしたような声で会話を締め、受話器を置いた。
(これからライスフィールドはどうなっていくのかしら…。このままでは皐月賞の前にステップレースを使えなくなってしまう。GⅠ馬であり、最優秀2歳牡馬というタイトルを持っている以上、皐月賞には出るだけでなく、勝たなければいけない立場だし…。)
その後、彼女は椅子に座り込んだまま、GⅠ馬を所有しているということに対する悩み事に襲われていた。
現に朝日杯以降、牧場にはライスフィールド見たさにファンの人達が次々と訪れるようになり、彼女達は対応に追われるようになった。
それ自体は喜ばしいことだったが、中には無断で牧場に来て勝手に馬の写真を撮ろうとしたり、何かを投げつけようとする人がいて、カヤノキ、クォーツクリスタルなど、他の馬にも迷惑をかけていくことがあった。
その度に蓉子や葉月、太郎達は頭の痛い思いをしている状況だった。
そして今後ライスフィールドをこの牧場に放牧させることはやめようかと議論をしていた。
一方、ライスフィールドの帰厩が遅れることは善郎にとっても頭の痛いことだった。
(これでは皐月賞にぶっつけで出すしかないな。正直、ファンの人達はトライアル → 皐月賞 → ダービーというローテを想像していることだろうし、これができなければ周りからは素人調教師とか色々言われるかもしれないが…。)
彼は葛藤を抱えた中でアキ、道脇君、鴨宮君を集めてミーティングをし、その考えを打ち明けた。
「ヨシ。こういう時に他人の見る目を気にするのはやめた方がいいですよ。私自身、過去に所属していた厩舎で期待の馬に取り返しのつかないことをした経験がありますから。」
「えっ?姉さん、それはどういう経験ですか?」
「実はね…。」
善郎の問いかけを受け、アキはその時の体験談について語り始めた。
その馬は3歳夏の時点で重賞を2勝しており、GⅠを狙える逸材で、クラシックレースの最後の1冠である菊花賞に向けて調整されていた。
その際、事前にステップレースを使うべきか、ぶっつけで菊花賞に向かうかで意見が分かれた。
アキは無理をさせない方がいいと主張したが、調教師をはじめとする多数の人達はぶっつけで菊花賞を勝てるわけがない、一叩きしておいた方がいいと判断していた。
話し合いの結果、多数決でアキの主張は却下され、陣営は急仕上げで1度レースに使い、菊花賞に向かわせた。
その結果、前走の疲れが十分に取れていなかった同馬は菊花賞のレース中に…。
「その馬はその日が命日になってしまい、私を含めて厩舎の人達は、馬主や生産者の人達に泣きながら謝りました。あの時、何が何でも一叩きしようとした結果、私達は耐え切れない程の気持ちをずっと後まで引きずることになりました。」
アキはその時のことを話すと、あのような悲劇は2度と繰り返したくないという思いを善郎達に伝えた。
「そんなことがあったんですね。もしもそうなったらと思うとぞっとします。」
「僕も。多分、その時を一生悔むことになりそうな気がします。」
道脇君、鴨宮君はすっかり感情移入しながら答えた。
「正直、春のクラシックだけが全てではないですし、これから先の人生もありますので、今回はトライアルレースをパスしようと思います。ヨシ、それでいいでしょうか?」
アキは腕組みをしたままの善郎に問いかけた。
「姉さん、分かりました。では、皐月賞で復帰できるように調整していきます。アドバイス、ありがとうございます。」
善郎は腕組みを解くと、お辞儀をしながら姉に感謝をした。
そしてミーティングが終わるとすぐに自ら野々森牧場に電話をかけ、そのことを伝えることにした。
この判断のおかげで、ライスフィールドは無理使いを避けることができた。
だが、これからこの馬にあんな日々が待っているとは…。