第九話 操演
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
リサ・モリヤマは、AI専門のフリー・ジャーナリストだ。
企業にも、大学にも、政府にも属さない。
だが、いたるところ声がかかる。
彼女が書くのは、思想でも、評論でも、論考でも、予測でもない。
事実だ。
アーキテクチャ。
コード。
資金の流れ。
そして――
それが社会に与えた、実際の影響。
彼女のクライアントたちは皆、
そうした事実だけを必要としていた。
彼女は善悪を裁かない。
正しさを主張しない。
ただ、
起きたことを、起きた順に並べる。
一見すれば単純な作業に見える。
だが、机上のPCで拾った情報に色を付け、
それを“レポート”と称する行為とは、まったく別物だった。
事実を伝えるには、
時間、労力、資金、そしてリスクを引き受ける覚悟が要る。
当然、彼女の報酬は桁違いに高い。
一年前、東京―――
リサはいつもと変わらず、
自宅のデスクで原稿を推敲していた。
時刻は、午前二時過ぎ。
端末が、控えめな通知音を鳴らす。
メール。
差出人は、不明。
件名は、ない。
本文は、短い。
****
三日後
九州の建設現場でテロ
これは警告ではない
記録だ
APDEY
****
その下に、
二つの画像が添付されていた。
ひとつは――
巨大なパイロン。
もうひとつは――
闇の中で、目だけが光るフクロウ。
リサは、眉をひそめた。
(また……悪戯ね)
この手の悪ふざけメールは、嫌というほど送られてきた。
共通点は単純だ。
差出人不明。
BCC送信。
TorによるIP隠匿。
暗号めいた文面。
彼女は、メールを既読にし、
削除ボタンをタップしようとして――その手を止めた。
(APDEY……)
リサは画面の文字を見つめたまま、
頭の中で五文字をずらす。
A
P
D
E
Y
シーザー暗号。
古典的すぎる手口だ。
A → E
P → T
D → H
E → I
Y → C
「ETHIC」―――
未遂も含め、
これまで数々のテロ行為を行ってきた、
武装倫理団体のコードネームだ。
リサは、改めてメールを開く。
ヘッダーを表示し、IPアドレスをコピーする。
TorノードのIPリストを開き、照合する。
――ヒット。
「……っ」
舌打ちが、静かな部屋に落ちた。
添付画像に視線を戻す。
パイロン――
送電設備ではない。
研究施設の建設現場を示す、無機質な構造物。
特に、
外部に秘匿された研究所ほど、
ああした記号的な構造を好む。
次に、フクロウ。
夜行性。
沈黙。
そして、知性。
西洋では、
知恵の象徴。
だが、
人類の知性そのものを示唆する記号として、
これほど都合のいい存在もない。
つまり――
建設中の知的研究機関。
研究所。
爆破……?
(……まさか)
リサは、椅子に深く腰掛け直した。
モニターに、建築ジャーナルのサイトを呼び出す。
検索キーワードを入力する。
地域:九州
カテゴリ:研究所/研究センター/ラボ/シンクタンク/大学/大学院
ステータス:建築予定/建築中/改築予定/改築中
検索。
――四件ヒット。
リサの視線が、その中の一件に吸い寄せられる。
施主:フリーランチャー株式会社
カテゴリ:研究所
所在地:北九州市〇〇〇
総工費:約90億円
敷地面積:6,096㎡
建築面積:2,652㎡
延床面積:8,529㎡
構造:RC造 地上3階/地下3階
地上高:約20m/地下:約18m
その他:平屋倉庫一棟
フリーランチャー株式会社――
元デジタル庁FFY研究員、村上俊哉が立ち上げたAI開発企業。
バイオAI開発計画を発表し、激しい論争の渦中にある。
倫理団体。
宗教団体。
中止を求める声。
(これ……か)
リサはしばらく、
人差し指でモニターの縁を軽く叩いていた。
そして、
迷いを切るように旅行会社のサイトを開く。
北九州行きのフライト。
空港近くのビジネスホテル。
即決だった。
依頼主のない、博打のような取材。
単なる悪ふざけかもしれない。
だが――
賭けなかったことを、後悔したくはなかった。
それが、
リサ・モリヤマにとって
事実を捕まえるための、唯一の動機だった。
そして、もしこれが悪ふざけでなければ、「ETHIC」はリサにテロをレポートさせようとしている。
リサは知っている。
それが、自分が引き受けに行くリスクだと。




