第七話 侵誘
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
エコー
ネットでは、そう呼ばれている謎の存在だ。
エコーは Friends フォーラム、スレッド#108442 のログを整え、暗号化されたパケットとして依頼主へ送信した。
議論は終わっている。
火は、完全に消えた。
エコーの仕事は、ネット炎上案件の火消しだ。
依頼主は一定していない。
エコーは依頼主を選ばない。
有名企業、現職の政治家、医師会、大学、時には個人。
共通しているのは、
「燃え続けることが許されない立場」
にあるという点だけだった。
エコーは弁護しない。
代弁もしない。
正当性を主張することもない。
ただ、
議論が続く理由そのものを破壊する。
エコーの端末では、
オートパイロット化された監視プログラムが常時稼働している。
SNS、掲示板、動画コメント、匿名フォーラム。
言葉が集まり、熱を帯びる場所すべてが、
エコーの巡回ルートだった。
依頼主に不利な兆候が検出されれば、
エコーは即座に“介入”する。
必要なのは長文ではない。
多弁はノイズだ。
長文は人間の勢いを削ぎ、リソースを無駄に消費する。
一行。
時には一文。
あるいは、単なる記号の組み合わせ。
それだけで、炎は酸欠を起こす。
普段、エコーはネット上では気配を消している。
毎回、違うハンドルネームを使う。
理由は単純だ。
エコーがスレッドにいると分かった瞬間、
人は書き込むのをやめる。
議論は消える。
だが、それでは商売にならない。
エコーの仕事は、
炎上を“一撃で終わらせること”ではない。
議論が再点火しない状態を作り、
その証拠を残すことだ。
エコーに消火されたスレッドは、
後から訪れる者は多い。
だが、書き込む者は一人もいない。
沈黙が続く。
完全な鎮火。
それが、請求書代わりの成果だった。
今回も同じだった。
Friends の多国語非対応を巡る、ありふれた論争。
答えは最初から決まっている。
だからこそ、エコーが投入された。
エコーは報酬の振込を確認し、
フォーラムのタブを閉じた。
表情は変わらない。
仕事は終わった。
それだけだ。
――はずだった。
端末が、静かに振動した。
通知音ではない。
監視プログラムのアラートでもない。
通信種別:インタラプト
送信元:Friends
エコーは眉を動かさない。
Friends が直接、個人に通信を投げることはない。
少なくとも、正規の業務では。
画面に表示されたのは、
発信者名のない、短い一文だった。
>この世に「永遠の愛」は実存すると思うかい?
エコーは、一瞬だけ画面を見つめた。
数秒後、次のメッセージが届く。
>リアリストの君なら、
>「分からない」とは言わないはずだ
>「知らない」
>そう答えるはずだ。
画面に、ゆっくりと文字が並ぶ。
>我々は、この問いに対する結論を持っていない
>君は、結論を持つ人間のために働いてきた
エコーは背もたれに体重を預けた。
>君に頼みたいのは、
>判断じゃない
>観測だ
>アウトレット
>正確に聞き、
>正確に伝える
>それだけでいい
エコーは目を細める。
>仕事になるのか?
エコーは短く返した。
数秒の沈黙。
>まだ分からない
>だが、
>見物する価値はある
>それも――高みの見物だ
エコーは通信を切った。
端末の画面は、通常の監視ログに戻っていた。
ーーアウトレット
ーー結論を持たない観測者
本来であれば、記憶するに値しないクズのようなメッセージだ。
だが、エコーはそれを「無視」しなかった。
シーリングライトがエコーの顔を照らす。
影が深く落ち、表情は判別できない。
口元の影だけが、わずかに形を変えた。
「…侵入…しやがった」




