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Article 9 永遠の愛 — それは福音なのか、呪文なのか PART I  作者: あみれん


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第五十四話 前夜

1.依頼者の呼称


本作に登場する九条斎のビジネスは、

その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。

クライアントは取引の進度に応じて、

九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。


サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。

ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。


〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客


仲介組織を通じて紹介された直後の段階。

動機は不明瞭で、価値も未定義。

ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。

ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。


〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者


九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。

依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。

アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。


〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者


具体的な作業に入り始める段階。

ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。

この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。


〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者


取引の核心に触れつつある段階。

ガンマに至るクライアントは極めて少なく、

慎重な監視と調整が行われる。

実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。


〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)


九条斎のみが扱う特別な分類。

一般のクライアントとは異なり、

ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。

その詳細はミナトにも共有されず、

オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。


◆【補記】


この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、

外部には一切公開されない。


段階は技術的な進度だけでなく、

クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・

そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。


この分類は、

物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」

というテーマとも密接に結びついている。


2.仲介組織について

《ミトコンドリア》──

それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。


ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。

上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。

構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、

必要な時だけ一時的に接続される。


その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。

部分を切り離されても全体は崩れず、

事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。


情報はチェーン化された経路を通って流れ、

誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。

あるのは“つながり”だけ。

誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。


ミトコンドリアの役割はただ一つ。

九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。


それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、

候補者自身が最終的に知ることになる。

三日後の夜。


井出耕造プロジェクトは、予定工程通りに進行していた。

本日までに《53 User Acceptance Test》が完了。

残る工程は――

カウンセリング。

そして、リリース判定。

それだけだ。


リサはマンションの自室で、フレックス・シートを広げていた。

薄い光が、机の上に淡く滲んでいる。

シートに記録したログを、ノートPCへ転記する。

井出耕造プロジェクトの作業ログは、フリーランチャーの資産。

本来は、持ち出し厳禁の機密情報だ。

それを、リサは記事の素材として書き写している。


キーを打つ音が、やけに大きく響く。


井出耕造の脳。

オフィーリアの容姿。

若返った母の声。

………


指が、止まる。


(私はいったい……何を見た?)


あれは化け物か。

それとも、人類の進化か。

言葉が見つからない。


突然、スマートフォンが鳴った。

リサの肩が、わずかに跳ねる。


(メイコ?)


画面を確認する。

田村メイコ。

リサは、通話をタップする。


「立花さん? 田村です。こんな時間にごめんなさい」


「立花です」


形式的な応答。

数秒の沈黙。


「明日のカウンセリングの前に、話しておきたいことがあるの」


リサの手に、無意識に力が入る。


「はい」


一拍。


メイコの声が、わずかに低くなる。


「リサさん。この話は――フリーランチャーの社員同士の会話ではないの」


リサの視線が、フレックス・シートのログへ落ちる。


(わざわざ、この時間に電話してくるのだ。

そんなことは、分かっている)


それに。


(初めて、私を“立花”ではなく、“リサ”と呼んだ)


空気が変わる。

明日のカウンセリングは、

予定工程の一つではない。


ーーーここからが、本番なのだ。


「分かりました」


「ご存知のように、私はETHICのメンバー。一年前、ここを爆破した側の人間よ」


「知っています」


「明日のカウンセリングでは、あの気色悪い男に"ある刷り込み"を行うの」


「……」


「あの男の帰宅後に、あのオフィーリアとの生活を公にさせるため。そうなれば、何が起きるか分かる?」


リサは、初出勤の朝を思い出した。


――フラップゲート前。


緑のハチマキ。

拡声器のハウリング。

スマホのレンズ。


「——バイオAI反対!」

「——企業の暴走を許すな!」


ハッピの背に刷られたロゴ。

北九州の市民団体。


リサは答える。


「ええ…分かるわ。

でも井出耕造はフリーランチャーとNDAを結んでいたのでは?」


「ええ、ソレが起これば、フリーランチャーは井出耕造を訴えるでしょうね。でも、それは私には関係のないこと」


「井出耕造が、あなたにそそのかされた、と言ったら?」


「あんな異常な男の言葉を真正直に信じる人はいないはず」


リサは体の向きを変え、窓ガラスの向こうの繁華街の灯りを見る。


「それで…。明日のカウンセリングのログだけど、適当にそれっぽく書いて欲しいの。意味、分かる?」


ーーもし、カウンセリングの内容を正直に記録したログを村上が読めば、村上は最後のリリース判定の工程でこのプロジェクトを中止する。

当然だ。

村上がそんなリスクを冒すはずがない。

それは同時に、メイコのしてきた事が土壇場で無駄になる事を意味する。


「事実を書かずに、捏造する…」


「ジャーナリストのあなたなら、簡単なことでしょう?」


「……」


「これは、あなたにとってもいいチャンスのはずよ」


ーーメイコは私がログを転記していることを知っている…


「フリーランチャーが世間の晒し首になれば、一部始終を見てきたあなたの記事は…分かるわよね?」


「あなたは…」


リサは、

ーーあなたはどうするの?

そう、聞こうとして口を噤んだ。


「井出耕造がここを出て行ったら、リサさん、あなたはここを辞めて自分のフィールドに戻るのよ」


「それはつまり…」


「そう、フリーランチャーを辞めるの」


ーーなるほど。

フリーランチャーが世間の晒し首になっている時に、私がジャーナリストとして記事を公表すれば、世間のフリーランチャーに対する風当たりは更に強くなる。

何故なら、これがファンタジーではなく”現実”という事実の提示になるからだ。

社会の土台をひっくり返すフリーランチャーを、人々は許さないだろう。

フリーランチャーは、この国では生き延びられないだろう。

それが、ETHICの狙い。


「記事を公表するかどうかは、あなたに任せる。勿論、自己責任でね」


ーーそんな事は分かっている。

あの爆破の中で、二人の命と引き換えに倉庫から運び出された”神経転写キー”。

私はそれを一年間追ってきた。

それが、何であるのか、そして何をもたらすのかを。

それが何であろうと、その事実を並べて公表する。

それが、私が引き受けるモノだ。


「それと...

これはどうでもいいことなんだけど。

デュプリカント・プロジェクトには、本来カウンセリングなんていうタスクは無いの。

私が勝手に工程表に入れたの、"刷り込み"のために。

でも、村上は何も言わなかった。

何故だかわかる?」


ーー理由なんていくらでもありそうだ。


「いえ」


「私、村上に体を許したの。

一度だけじゃないわ。

それじゃ、明日」


通話が終わる。


リサは立ち上がり、眼下の繁華街の灯りたちを見下ろす。


ーー村上がカウンセリングを許した理由などどうでもいい。

万華鏡のような女。

抹殺されるのは、メイコか村上か。

それは分からない。

自分はただ、事実を拾い、起きた順に並べ、ノイズを拾い、そのノイズの向こう側にあるモノを発掘する。

それだけだ。


リサはテーブルの上のカギを手にし、玄関に向かいかけて足を止めた。


ーー今夜は...…やめておこう。

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