第五話 兆影
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
一週間後ーー
西崎千尋は、「古物診断所」とだけ書かれた、プレートの外れかけた質素なドアの前に立っていた。
千尋は目を閉じ、短く息を整えると、そっと瞼を開く。
それから、ためらうように二度ノックした。
応答はない。
千尋は数秒待ち、意を決してドアを押した。
軋む金属音が廊下に響き、やがて止む。
その静寂の中、薄闇に沈むカウンターの前で座っていた女ーー ミナトが、ゆっくりと立ち上がった。
表情は動かず、視線だけが訪問者を捉えている。
「こちらへ」
それだけ告げ、ミナトはパーティションで仕切られた狭い応接スペースへ歩き出す。
千尋はその無機質な応対に、一瞬だけ身体が強張ったが、
すぐに呼吸を整え、あとに続いた。
「お座りください。書類を確認いたします。テーブルの上にお願いします」
千尋は席に着きながら、ふと疑問を抱いた。
ーーもし私が、ただのセールスか何かで偶然この部屋に飛び込んだだけの人間だったら、どうするつもりだったのかしら?
だが、すぐにその仮定を否定する。
こんな廃屋のように古びたビルに、営業で飛び込む人間などいるはずがない。
そう考えると、目の前で無言のまま書類に目を通しているミナトの応対が、途端に“合理的”に思えてきた。
挨拶もない。
用件の確認すらしない。
ただ、必要最低限の動作だけで淡々と事務を進めていく。
(……恐らく、この廃屋のような古いビルも、挨拶を省く応対も、すべてが「最小の入力で最大の出力」を得るための“最適化”なんだ)
まるでミナト自身が、効率だけを目的に組まれたプログラムのように思えた。
千尋は、ここへ来るために決して安くない仲介料をミトコンドリアへ支払い、
誓約書を含む分厚い書類を読み、すべてにサインした。
だからこそ、この“無駄のなさ”は、
万が一これが詐欺だったらーーという最後の不安を、かすかに和らげてくれた。
書類を確認し終えたミナトは、何度か小さく頷いた。
「原本と控え、両方の書類に問題はございませんでした。原本はこちらで、控えはそちらで」
滑らかな手つきで仕分けられた書類は、なぜかまったく生活感を感じさせなかった。
まるで“職務”というより、“処理”という言葉の方が似合う動きだった。
千尋は控えをショルダーバッグにしまい込む。
「では」
ミナトは姿勢を正すと、千尋を真正面から見つめた。
その瞳は確かに美しい。
だが、そこに宿る光は氷のように無機質で、
“こちらを観察している”というより、“仕様どおりに動作している”とでも言うべき冷たさがあった。
ミナトは淡々と口を開く。
「まず初めに、どこでこの事業を知りましたか?」
「Friends を使っていた時、突然、こちらのサービスの内容を告げる広告みたいな……変な映像に切り替わりました。虫みたいな……生き物が話し始めて、それで……」
「承知しました。では、仲介者の登録番号と、仲介契約の手続きの方法を」
「登録番号は……聞いていません。
契約手続きについては……守秘義務事項に含まれていて、お話しできません」
「分かりました。規定の範囲内です。問題ございません」
ペン先が机を軽く叩く小さな音が響き、質問は次へ進む。
「私どもの守秘義務契約についても、内容はご理解されていますね。
業務内容、場所、担当者に関する情報を外部へ漏らした場合、仲介組織による“処理”が行われること」
千尋はゆっくりと、だが確かに頷いた。
(“処理”……)
ミトコンドリアがサインを促した書類の文言が脳裏に浮かぶ。
あの奇妙な生物の映像でさえ、今はむしろ“現実的”だった。
ここに来てしまった以上、もう後戻りはできない。
「……ご理解いただけているなら結構です。では――」
ミナトはわずかに顎を引き、
「依頼内容を、どうぞ」
と言った。
空気が、その一言を境に切り替わった。
手続きの場から、契約の本番。
重く密度のある空気が、千尋の肩に落ちる。
千尋は喉を鳴らし、指を組んでから、決意したように口を開いた。
そして、その依頼内容を完結に言い終えた。
ーーその瞬間。
ミナトのまぶたが、ぴたりと静止した。
それは一見、反応ではない。
だがーー“ミナトが「ある種の入力」を受け取ったときだけ起こる、僅かな処理遅延”だった。
本来、彼女には生じてはならない種類のラグ。
なぜならーー
今の依頼内容は、
Article 9 の中心にある“問い”
すなわち、
「人間は“愛という現象”を、構造ごと複製できるのか」
その一点に、正確に突き刺さっていたからだ。
ミナトは呼吸を一拍止めた。
それは驚愕というより、むしろ期待に近い沈黙だった。
この依頼は危険だ。
倫理にも、法にも、社会にも触れている。
人間という概念そのものに踏み込んでいる。
ミナトほどの思考速度をもってしても、
この依頼が持つ衝撃は処理に数秒を要した。
書類の端で揺れたのは指ではない。
ミナトの興味だった。
彼女は仕事上、どんな依頼にも感情を持ち込まない。
しかし今だけは違う。
千尋の言葉は、ミナトの“核心”を撃ち抜いた。
(……これは、世界を変え得る依頼だ)
ミナトは平静を装い、
「……確認させてください。
依頼内容の実現は、極めて困難です。
ただしーー理論上、不可能ではありません」
と告げた。
声はいつもどおり整っていたが、
胸の奥では別の歯車が回り始めていた。
それは、研究者としての衝動ーー“未知との遭遇”に反応する純粋な興奮に近い回転だった。
ミナトは千尋を見据えて言う。
「判断には時間が必要です。
あなたの“猶予”は、どれほどですか」
千尋のその返答を聞いた瞬間、ミナトは氷のような静けさを取り戻した。
「承知致しました……その期限までには結論を出します」
表情には出さない。
だがミナトは理解していた。
ーーこれは Article 9 がずっと待ち続けていた“本命の依頼”だ。
(ミトコンドリア……ヤバい連中。
九条先生はテスト期間と仰っていたけど、とんでもないラムダを送りこんできた)




