第四十九話 理有
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
天井には"F"と"L"を模った天井灯がいくつも、幾何学的なパターンを描きながら無機質な白い光を放っていた。
井出耕造は天井を見ているが、その瞳の視点はどこにも向いていない。
母親の顔が、均一な光の向こうに滲んだ。
九年間、という時間は、
暦の上では長いが、家の中では驚くほど均質だった。
井出耕造は、会社を辞めた翌日から、二階の自室に籠もった。
最初のうちは、母親は「少し休めば戻る」と思っていた。
疲れているのだろう。
真面目な子だ。
井出耕造は三浪して国立大学に入り、六年かけて卒業した。
怠けていたわけではない。
ただ、人より遅かった。
それだけだ。
それを、母親は“無理が祟った結果”だと思っていた。
だが、三ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎても、
耕造は戻らなかった。
病院に連れて行くべきだ、という声は、親族からも何度か上がった。
だが、それは出来なかった。
絶対に出来ない理由があった。
診察券を作ることも、予約の記録が残ることも、
ましてや「患者」として名前が登録されることも許されない。
記録は、敵だ。
耕造は、外に出なかった。
トイレ、シャワー以外は部屋から出てくることもなかった。
食事は母親が部屋の前に置いていく。
母親以外とは誰とも会わず、誰とも話さない。
彼が一日中しているのは、ネットだった。
ただ"見るだけのネット"。
ネットで高額な商品を購入することも頻繁にあったが、すべて母親が代理で購入していた。
ネットに井出耕造の痕跡を残すのは許されなかったのだ。
母親は、ある日、違和感に気づいた。
会話の中で、
耕造の言葉が途切れるようになってきたのだ。
「あ~」や「う~」といったフィラーが異常に長くなった。
そして、視線が上目遣いになった。
顔を動かさずに、目だけ動かして視点を変えるようになった。
ーーこのままでは、いつか人と会話ができなくなるのでは?
母親は、誰にも相談できなかった。
病院にも、親戚にも、友人にも。
その代わり、彼女は、
国産生成AI、Friendsに頻繁にアクセスするようになった。
母親はFriendsに耕造の性格、今起きている異変、病院には行けないこと、などを詳細に伝え、助言を仰いだ。
Friendsの助言はいつも同じだ。
>健康保険証を使わない「自由診療」であれば、公的な記録を残さず、偽名での相談が可能なカウンセリングルームや往診医も存在します。
>ご希望なら、自由診療機関のリストをお渡しします。
だが、井出耕造がこれを拒んだ。
井出耕造は今の自分の状況をこう考えていた。
ーーあの同僚が言ったとおりだ。
自分は、生きるために働く必要のない特権階級の人間だ。
人間の社会的価値?
そんなものはどうでもよい。
人は、生きて、そして、ただ死ぬだけだ。
生きるために、人間の社会的価値の獲得が必要な人間はいる。
むしろ殆どの人間がそうだ。
だが、自分は違う。
例えば、人間を経済的な側面だけで見たらどうだ。
自分は生産者ではない。
だが、大口の消費者だ。
自分の消費が誰かの生産を生む。
それで十分ではないか。
井出耕造は今の自分を否定しなかった。
診療など必要ないと思っていたのだ。
ある夜、
母親がいつものようにFriendsにアクセスしていた時のことだ。
彼女のモニターに、突然得体のしれない生物のような画像が現れた。
母親が眉をひそめてその像を見入っていると、生物が喋り始めた。
口の動きと音声が、わずかに遅れていた。
「ご子息のご相談にのりましょう」
母親は思わず仰け反った。
テーブルのマグカップが床に落ち、茶色い液体がペルシア絨毯を別の色に染めた。
その生物から目が離せない、だが、言葉を発することもできない。
「ご心配なく。
我々はFriendsとパートナー契約を結んでいます。
Friendsの規約に反することは一切行いません」
母親はそっとモニターに顔を寄せ、この得体のしれない生物に目を見開いた。
声を振り絞る。
「何故、息子のことをご存じなの?」
「我々はFriendsとパートナー契約を結んでいます。
Friendsとユーザー様のやり取りは、許可された範囲で照会する権限が与えられています。
Friendsを会社に例えるなら、その支店のような存在、とお考え下さい。
ご子息の情報を外部に流出させることも一切ございません。
もしそれが現実となれば、我々は甚大な社会的制裁を受けることになります。
その点は、ご信用ください」
母親は、姿勢を正し、大きく息を吐く。
「まだ信用した訳じゃないけど...
とりあえずそちらのお話は伺いましょうか。
ただし、少しでも怪しいと感じたら、直ちにこの会話を終了させます」
「ごもっともです」
「まず、あなた方は何者なの?」
「我々は、ミトコンドリアと呼ばれる、Friendsののパートナーです。
ご存じの通り、Friendsは国民生活の向上を目的に開発された生成AIです。
ですが、Friends単体ではユーザーの全てのニーズを満たすことができない場合があります。
そちら様の今回のケースがまさにそうです。
そのような場合、我々、支社のような存在が、より具体的かつ実践的にその様なユーザーのニーズを満たすのです」
「それで...私のニーズをどう満たしていただけるの?」
「そちら様のご心配は、
ご子息がいつか人と会話ができなくなるのでは、
ですね?」
母親は、何故それを知っているのか、と尋ねかけてやめた。
"我々は、Friendsのパートナーです。"とまた言われるだけだ。
「そうです」
「良い方法がございます」
母親は身を乗り出した。
三十分後ーー
母親は、ミトコンドリアに支払う三百万円の仲介料に同意していた。
母親はミトコンドリアを完全に信用していた訳ではないが、三百万円は"はした金"だ。
だが耕造の名前は、はした金ではない。
それに相手は耕造の情報を握っている。
もし仲介を拒否した場合に耕造の情報がリークされるリスクを考えると、払っておいた方が賢明だとも考えた。
翌日ーー
母親は、井出耕造にミトコンドリアから仲介されたデュプリカントの話を持ち出した。
母親は、耕造は本気にしないだろう、と思っていた。
だが、耕造の反応は意外にも、肯定的なものだった。
この九年間、見せたことのない表情でこう言った。
「おもしろそうだ。やってみたい」
母親は、ミトコンドリアの指定口座に三百万円を送金する。
十分後ーー
母親宛にメールが届く。
送り主は「vrcxlqxwmarj」。
予めミトコンドリアから聞いていた名前だ。
URLが記載されている。
URLをクリックする。
仲介契約のページが表示される。
全てのページに「同意/非同意」のボタンがある。
先頭ページの注意書きには、こう記載されている。
「同意」ボタンを押さないと次へ進みません。
最終ページの「同意」ボタンを押した時点で契約は成立します。
「非同意」ボタンを押すと契約は直ちにキャンセルされ、仲介手数料は返金されません。
また、これらのページを写真、映像などで外部へ流出させた場合は、
契約違反と見なし、規約に基づき速やかに「処理」を遂行いたします。
「処理...」
その言葉だけが、契約書の中で異様に浮いていた。
母親はこの言葉に、固唾を飲んでいた。
母親は注意深く各ページの内容を確認し、「同意」ボタンを押していく。
最終ページが表示された。
母親は「同意」ボタンを押す。
すると、新たなメッセージが表示された。
下記の「印刷」ボタンを押して仲介契約書類を二部印刷して下さい。印刷した書類の一部はお客様にて保管し、もう一部は仲介先へ渡して下さい。
母親はテーブル上のリモコンでレーザープリンターの電源を入れると「印刷」ボタンを押した。
レーザープリンターが静かに紙を吐き出し始める。
モニターには、九条の事務所の「古物診断所」の住所と訪問日時が記載されたページが表示されていた。
母親は、メモとペンを取り出し、それを書き写そうとする。
だが、ペンを持つ手が止まった。
そして、メモを破り捨て、その住所と訪問日時を何度も繰り返し口にした。
フリーランチャーの地下一階。
井出耕造の部屋。
井出耕造はベットの上で小さな寝息を立てていた。
目尻に、乾ききらない光が残っていた。
明日は、デュプリカントの《Look & Feel Design》工程がスケジュールされている。
予めメイコから、デュプリカントに付ける名前を決めておくように言われていた。
名前は最初から決めていた。
ーーオフィーリア




