第四話 影契
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
「我々はミトコンドリアだ」
九条はゆっくりと答える。
「知らんな……」
Friends がハッキングされることはあり得ない。
何故ならーー
通常、AI を乗っ取る手口は“保存されたデータ”の改ざんだ。
たとえばディープラーニングであれば、膨大な学習から形成される重みパラメータや、内部表現を書き換えることで、AI は簡単に狂う。
だが、Friends はそもそも 外部から書き換え可能なデータを持っていない。
構造推論学習(SRL)方式 は、利用者一人ひとりの言葉や行動をつなぎ合わせ、
「その人だけの物語の地図――IM(Individual Map)」を作り上げる。
この“地図”はファイルでもパラメータでもなく、
脳の神経回路のような 内部構造そのもの として生成される。
外部に保存も出力もされず、
ただ チップ内部の状態変化としてのみ存在 する。
だから外部攻撃者は、
「どこをどう書き換えれば地図が変わるのか?」
その“入口”すら特定できない。
仮に無理やり改ざんしても、
SRL は即座に 整合性違反として巻き戻し、自己修復する。
何より、SRL の核心部は
外部ネットワークから完全隔離された物理回路 に宿っている。
ーーFriends の生みの親である九条は、当然それらすべてを理解している。
Friends は、セッションの制御権限を “他” に委譲する場合がある。
つまり、あるユーザーがFriendsと会話している最中に、その会話に突然第三者が割り込む事があるのだ。
“他”とは、Friends と厳格な 協働契約 を交わし、
アクセスを許された外部ノードーーCP(Collaborative Partners)のみ。
各省庁や自治体などの公共機関による緊急速報や、調査の実施などが目的だ。
九条は鼻で笑った。
「……なるほど。Friends と協働契約したわけか。大したもんだな」
「俺が知っている限り、Friends の CP はすべて公共機関が運用するノードだけだ。
……だが、お前は違うようだな」
九条の声は静かでありながら、鋭い刃のようだった。
「さすが、Friends の生みの親だけあるな。
我々がセッションをインタラプトして驚かなかったユーザーは、あなただけだ」
「何の用だ」
「あなたとビジネスがしたい」
九条は沈黙する。
Friends の CP は、契約に基づく範囲内でのみ IM を参照できる。
協働契約を交わさない限り、IM は例え内閣総理大臣であっても見ることはできない。
そして Friends は、犯罪歴や素性に関わらず、すべてのユーザーを平等に扱う。
これらはすべて、九条自身が設計した原則だった。
だからこそ、デジタル庁を追われた今も、彼は Friends を使い続けている。
ミトコンドリアは、九条の IM を見ているはずだ。
つまり、九条という人間が「何を欲しているのか」をある程度知っているのだ。
「ビジネス? ほう、飛び込み営業とは今どき珍しいな」
「我々の自己紹介は不要なはずだ」
「……要件を具体的に、簡潔に言え」
「Article 9 のラムダを斡旋したい」
モニターの生物の口の動きは不器用にズレている。
九条は眉間に皺を寄せ、目を細めた。
「ほう、そのコードネームをどこで知った、などという問いは、ヤボなようだな。その斡旋とやらもFriendsとの契約事項か?」
「それは重要ではない。Friendsと我々は、互いの協働が互いの目的を達成する上で極めてフィジビリティが高い、その一点だけで協働契約を結んだ。互いの実現手段には一切口を挟まないし、口外しない。これは契約事項に含まれている」
九条は上唇をゆっくりと舐める、九条の癖だ。
「一週間以内に最低一人のラムダを連れて来い。あらゆるリスクから我々を保護する為の誓約書を書かせろ。これはテストだ。話はこれにパスしてからだ」
「分かった」
モニターの生物がゆっくりと消えていくと、再び通常のプロンプト・ウインドウが現れた。
九条は立ち上がる。
「ふっ」
セピアのライトに照らされた九条の顔に、僅かな笑みが浮かんだ。




