第三十六話 入状
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
フリーランチャー研究所のエントランス。
リサは、メイコの後ろを歩いている。
視界の先には、五台のフラッパーゲート。
その両脇に、二人の警備員。
さらに、タブレットを手にした一人の男が立っていた。
メイコは、フラッパーゲートの前で立ち止まり、リサを振り返る。
タブレットを持った男が、リサの前に進み出た。
「氏名と生年月日を言ってください」
リサは、氏名と生年月日を答える。
男は小さく頷くと、黒い指輪を差し出した。
「この指輪を、左手の人差し指にはめてください」
リサは、メイコを見る。
メイコは無表情のまま、何も言わずにリサを見返している。
リサは小さく息を吐き、黒い指輪を左手の人差し指にはめた。
「力を抜いて、楽にしてください」
男は、指輪が正しく装着されたのを確認すると、タブレットを操作し始める。
その瞬間。
リサの左手の人差し指に、ピッ、という微かな振動が走った。
痛みはない。
だが、はっきりと「何かが身体の奥まで走った」感覚だけが残る。
男は無言のまま、タブレットを操作し続けている。
やがて、男はメイコに向かって小さく頷いた。
そして、リサに向かって右手の平を上に向ける。
「指輪を外してください」
リサは、指輪を外し、男の手の平にそっと乗せた。
「立花さん、こちらへ」
メイコが、一台のフラッパーゲートを指して手招きする。
リサは、その前に立った。
「このフィンガー・ディンプルに、左手の人差し指を置いてください」
メイコは、フラッパーゲートのトッププレートにある、指型の窪みを指さした。
リサは、言われた通り、左手の人差し指をフィンガー・ディンプルに乗せる。
再び、ピッ、という微かな振動。
次の瞬間、フラッパーが静かに開いた。
メイコと男も、それぞれ別のフラッパーを通過する。
それを確認してから、リサもゲートを抜けた。
ゲートの先は、エレベーターホールだった。
エレベーターは三基。
「入館の手順は、理解したわね?」
メイコが、リサを見る。
「ええ。でも、今のは……」
間を置かず、男が答えた。
「トータル・バスキュラー・レングス認証です」
リサの表情に変化がないのを見て、男は淡々と説明を続ける。
「指先に流した微弱な高周波電流が、血液という“電解質”をガイドとして、全身の血管網を駆け巡ります」
「血管の全長、枝分かれの角度、血管壁の弾力性によって、電気信号は特定の周波数で共鳴します」
「それを“血管の指紋”ではなく、“血管の譜面”として読み取る方式です」
「ありがとう」
メイコがそう言うと、男は軽く頭を下げ、一基のエレベーターの前に立った。
男が右手の人差し指と中指を上に立てる。
エレベーターのドア表面のスクリーンに、《2F》の文字が浮かび、
ドアが音もなく開いた。
男が乗り込む。
ドアは、ゆっくりと、静かに閉じていった。
リサの表情は、無表情というよりも、
——感情の判別が不能な表情だった。
メイコは、エレベーターホール脇の大きなドアへと歩き出す。
リサを振り返らず、静かに言葉を放つ。
「全血管網長で個人を識別する生体認証よ」
メイコはその大きなドアの前に立つと、ドア脇に立つ太いポールのトップに設置されたフィンガー・ディンプルに人差し指を置いた。
ドアがゆっくりと両側に開いてゆく。
まるで、銀行の金庫室に通じる、分厚い鋼鉄扉のような重々しさだ。
リサはメイコの後に続き、ドアの向こう側に入っていく。
ドアの向こう側は、広大なワンルーム・オフィスだ。
パーティションが迷路の様に張り巡らされている。
窓は一切ないが、壁の隅々に設置されたスクリーンには、野鳥が飛び回る広大な渓谷の映像が、屏風絵のように壁一面へと投影され、屋外にいるような明るさと開放感を醸し出している。
リサは、壁のスクリーンをグルリと見回した。
「日替わりなの。今日はグランドキャニオン」
メイコはリサを見ない。
「ここにしましょう」
メイコはそう言うと、パーティションで仕切られた四人用のブースに入る。
「座ってください」
リサは椅子に腰掛けた。
メイコはリサの隣に座る。
「では、これからこの研究所内を案内します」
そう言うと、メイコはデスクのドロワーから二組のVRゴーグルを取り出した。
そして、一つをリサに渡すと、リサの顔を見て、フッと笑みを漏らした。




