第三十五話 連環
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
フリーランチャー合同会社。
一年ほど前に創業したスタートアップだ。
北九州の研究都市に、本社兼研究所を構える。
本社兼研究所ビルは、地上三階、地下三階。
約千名を収容できる規模を持つ。
だが、実際の業務は、ほぼすべて仮想空間で行われている。
業務用VRオフィス。
「ノマドアーズ」と呼ばれるメタバースだ。
ノマドアーズという名称は、ノマドとドアーズを組み合わせた造語だ。
移動と接続を、同時に意味する。
ノマドアーズでは、全員が何らかのアバターに扮している。
アバターのキャラクターは自由。
性別も、年齢も、外見も、業務上の意味は持たない。
ノマドアーズのプロジェクトルームは自由に作成できる。
部屋のデザイン、レイアウトも任意。
最近人気なのは、「ゲル」と呼ばれるモンゴルの移動式テント風デザインだ。
キャンプしながら仕事をしているような開放感が得られる。
——そう、説明されている。
実際に、研究所のビルの外に出る者はほとんどいない。
物理的なオフィスは、すべてフリーアドレス。
全員が常にフレックス・シートと呼ばれるタブレットを携帯し、ノマドアーズを介して作業するため、物理的な位置に業務上の意味はない。
約款上の事業目的は、
「AIソリューション・サービス」とだけ記されている。
社員数は三十九名。
全員が出資者だ。
前年度の年商は十億六千万円。
スタートアップとしては、かなり高いパフォーマンスを発揮している。
定款に記載されている代表は、村上俊哉。
それ以外は、業務委託、フリーランス、短期契約。
常時、約三百名が稼働している。
総務、経理などの間接部門は存在しない。
それらの業務は、すべてAIが処理している。
主力事業は、AIをベースとしたクラウド・アプリケーションサービスの提供だ。
ーーフリーランチャーが公表している主たるサービスメニュー
AI採用面接官サービス
従業員のAI査定サービス
バーチャルAI秘書サービス(多国語対応)
即興楽曲生成AIサービス
これらのサービスに加えて、最近、バイオAI開発とサービスの提供を新規事業として打ち出し、激しい論争の渦中にある。
フリーランチャーは、主たる顧客は官、民間企業だと説明しているが、具体的な企業名、および受注に至る営業手法は一切明かしていない。
「これらのノウハウは秘匿性が高い貴重な経営資源だ」
フリーランチャーはそう説明している。
北九州の研究都市。
翌朝。
リサはフリーランチャーの研究所ビルのフラッパーゲートの前に立っている。
ガードマンボックスから出てきた警備員がリサに近づいてくる。
警備員がリサに声をかけた。
「ご用件は?」
リサはQRコードがプリントされたカードを差し出す。
警備員はそれをハンディスキャナーでスキャンする。
警備員はガードマンボックスにいるもう一人の警備員に手を上げた。
フラッパーが開き、リサはゲートの中に入っていく。
リサは研究所のエントランスに向かって歩く。
ガラス張りのピラミッドを模したエントランス。
リサはエントランスのガラス張りのドアの前で立ち止まる。
降り注ぐ朝の光が、エントランスの大理石の床に幾何学模様を描き出していた。
2枚のガラスのドアは斜めにカットされており、音もなくゆっくりと両側に開いていった。
ドアの向こう側には、田村メイコが立ってリサを出迎えていた。
メイコはリサを見るなり、笑顔を浮かべて声をかけた。
「立花栞さん。
ようこそ——この国で、最も危険な研究所へ。
さあ——
一緒に、高みの見物といきましょう」
リサは軽く頷くと、ゆっくりとメイコに向かって進みだす。
リサの顔には笑みが浮かんでいた。
それは、昨夜の自分を守るための笑顔でも、自嘲の笑顔でもない。
表情筋の自然な動きによって作られた笑顔だった。
リサは知っている。
この笑顔は自分のものではない。
——立花栞のものだ。
そして——
もう、後戻りできない道を、歩き始めたことを。
九条、ミナト、村上、エコー、リサ、メイコ、ミトコンドリア、ETHIC、井出耕造、西崎千尋、そして国家。
——彼らは、まだ知らない。
九条の手によって生み出されたデュプリカントの軌道上を、散在する衛星のように公転する無数のプレイヤーたちの存在を。
そして、そのプレイヤーたちが、
ブラックホールのようなデュプリカントの強烈な引力によって、
気づかぬうちに、
ゆっくりと、だが確実に、
そのコアへと引き寄せられつつあることを。
そして——
その重力圏に入ったことに、
まだ誰も気づいていなかった。
毎日投稿してきましたが、この三十五話で一区切り付け、投稿をペースダウンさせます。
まだまだ続きます。
今度とも読んで頂けたら嬉しいです。




