第二十八話 模写
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
ドアが、内側へ静かに開いた。
先に顔を出したのは、母親だった。
室内を一瞬だけ見渡し、ミナトの姿を認めると、深く頭を下げる。
「本日は……よろしくお願いいたします」
声は低く、擦れている。
謝罪と依頼が、混ざったような響きだ。
母親はそのまま身体を引き、ドアを押さえた。
開口部を最大限に確保する動きだった。
続いて、井出耕造が入ってくる。
腕に抱えているのは、板状の荷物。
厚い緩衝材に包まれ、角だけが輪郭を主張している。
通路は狭く、角度を誤れば壁に当たる。
井出は、ミナトを見ない。
正確には――視界に入れていない。
視線は、部屋の奥、
白い壁の一点だけに固定されている。
一歩。
また一歩。
床に靴音が重なるたび、呼吸が荒くなる。
肩が上下し、額に汗が滲んでいる。
母親が、後ろから小さく声を掛ける。
「ゆっくりでいいのよ」
井出は答えない。
荷を落とさないことだけに、全神経を集中させている。
部屋の中央まで来ると、井出は膝を折り、慎重に荷を床へ下ろした。
短く、息を吐く。
息を二、三度整える。
それから、ゆっくりと緩衝材を剥がし始めた。
段ボール製の、組み立て式だ。
井出耕造は慣れた手つきで、段ボールの一角、一辺を解いていった。
ミナトはカウンターテーブルに寄りかかって、腕組をしながらその様子を無言で見ていた。
約十分後、解体された段ボールの中から、仰々しい額に収められた一枚の絵が現れた。
井出はそれを抱え上げ、壁際へ運ぶ。
ためらいなく、立て掛ける。
絵が、露わになる。
井出耕造は、そこで初めて顔を上げた。
荒い息のまま、満足そうに、ミナトに向かって言う。
「――俺の、美しい女、実物だ」
ミナトは何も言わない。
視線だけを、その絵に移す。
母親は、少し離れた場所で立ち尽くしている。
両手を胸の前で重ね、祈るような姿勢のまま。
室内に、沈黙が落ちた。
ミナトがゆっくりと絵に近づく。
絵の前で止まると、腕組をして絵を見ながら口を開いた。
「どちらをお使いになりたいのですか?オフィーリアですか?それとも髑髏の方ですか?」
ミナトの背後で井出耕造が怒鳴りだす。
「あ、あんた目が悪いのか!?この絵の一体どこに髑髏が見えるんだ!ふざけるのもいい加減にしてくれ!!」
ミナトは微動だにせず、オフィーリアの模写を見ている。
「あんた、俺をバカにしているだろう」
ミナトはゆっくりと、自分に敵意の視線を向けている井出耕造の方を振り向いた。
「分かっているぞ、あんたは、今こう思っている。
この男はこれまで"本物"を見た事がない。
いや、"本物"の概念すらないだろう」
ミナトは何も言わない。
その美しい瞳は、井出耕造を冷たく射抜くような視線を放っている。
「いいか。
この絵が模写だということくらい、俺だって知っている。
"本物"の価値は、純度と希少性で決まる。
そして"本物"は常に"実物"であるが、"実物"は"本物"であるとは限らない。
一般的には"模写"は"実物"の対義語だ。
それくらい俺だって分かっている」
井出耕造の母親は唇を震わせて、珍しく興奮状態にある自分の息子を見ている。
「だがな、原画だろうが模写だろうが、俺には関係ない。
この絵はな、俺に普遍の美しさを与えてくれる唯一無二の女だ。
俺の眼の前に、こうやって触れば感じる事ができる"実物"なんだ。
それを伝えたくて、わざわざここまで運んで来たんだ」
ミナトは紅潮した井出耕造から視線をずらさない。
そしてゆっくりと口を開いた。
「ご説明は理解しました。
ですが、ここにその"実物"を運んで頂く理由は、やはりございません。改めてデジタルコピーを送って下さい」
井出耕造は何か言いたげに口を動かすが、言葉が出てこない。
「井出耕造さん。我々がこれから作るのは、あなたのデュプリカント、つまりあなたの"模写"なのです。そのオフィーリアの模写の絵に命を吹き込む事は、我々の仕事ではありません」
紅潮する井出耕造に母親が近づく。
ミナトの温度の低い声が二人を追い立てる。
「今日はこれでお引き取り下さい」
母親は息子の肩を軽く叩くと「立派だったわよ」と何度も頷いた。
井出耕造と母親は、無言で絵を緩衝材で包み直すと、来た時と同じ様に絵を抱えて部屋を出ていった。
腕時計を見ると、6時を回っていた。
窓の磨りガラスには街灯が滲んでいる。
ミナトは応接スペース横の細いロッカーに掛けてあった、黒のレザーコートを纏った。
カウンターテーブルの引き出しから、黄金色の重厚な真鍮製のキーを取り出す。
ハイヒールの音を響かせ、ドアを開けて外に出る。
ドアが閉まると同時に「ガチャッ」と重たい金属音が鳴った。
そして、ハイヒールの足音が遠ざかっていった。




