第二十六話 配役
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
ノックに対する返事はなかった。
だが、拒否でもない。
リサはドアノブに手を掛け、静かに押した。
室内は、想像よりも狭かった。
長方形の貸し会議室。
壁紙は白だが、新品ではない。
人の手で何度も触れられた跡が、光の加減で浮き上がっている。
天井の蛍光灯は均一な明るさを保っているが、
どこか冷たい。
影ができないように配置された光だ。
中央に、安価な会議用テーブル。
その奥、正面に二脚の椅子。
村上と、田村メイコが並んで座っていた。
二人とも、ドアの方を向いている。
書類も、PCもない。
視線だけが、こちらに向けられている。
測っている。
入室の仕方、間、呼吸。
テーブルから二メートルほど、ドア寄りに、
もう一脚の椅子が置かれていた。
わずかに孤立した位置だ。
リサは一歩、部屋に入る。
「面談に参りました。立花栞です」
声は、事前に何度も頭の中で鳴らしたものだった。
高すぎず、低すぎず。
感情を含ませない。
田村メイコが、ほんのわずかに顎を引いた。
「どうぞ、座ってください」
そう言って、空いている椅子を指し示す。
その瞬間だった。
リサの視線が、メイコの顔に触れた。
——この女だ。
研究都市のバス停。
白いブラウス。
黒いパンツ。
大きな黒縁の眼鏡。
自分が尾行し、
路地で見失い、
そして——
闇の中で警告を受けた、その起点。
一拍。
ほんの一拍、思考が止まる。
リサは、即座に視線を外した。
感情が表に出る前に。
表情筋が固まるのを、自覚する。
そのままではまずい。
——笑え。
指示は、内側から飛んだ。
慣れない動きで、口角を上げる。
作られた、無難な笑顔。
「失礼します」
声は、崩れていない。
椅子を引き、腰を下ろす。
背もたれは硬い。
座面も浅い。
長く座らせるための椅子ではない。
リサは、背筋を伸ばした。
私は、立花栞だ。
そう、もう一度だけ、心の中で繰り返した。
村上が口を開いた。
「フリーランチャー合同会社、代表社員の村上です」
名乗り。 肩書き。 それだけ。
リサは、座ったまま頭を下げる。
「立花栞です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
続いて、あの女。
「立花さん。お久しぶりです。田村です」
声に揺れはない。 視線も、測られている。
「お久しぶりです。田村さん」
リサは、淀みなく返す。
このやり取りが、演出であることを理解している。
——田村…この女が、ETHICの潜入者。
——そして、自分をここに連れてきた張本人。
村上が続ける。
「今回は、弊社PMOメンバー募集の件でお話を伺います。田村からあなたの推薦を受けました。これまでの経歴、スキル、実績については聞いています。書類選考は通過しています」
リサは、軽く頷く。
「今回の募集要件についても、田村から説明があったと思います。何か、確認しておきたい点はありますか?」
聞くべきことは、ない。 すべてが未知だ。
——何か、聞かなければ。
一拍。 リサの口が動いた。
「条件面を……」
村上は、わずかに口角を上げた。 右手を上げ、Vサイン。
(二千万……)
説明はない。 必要もない。 PMOとして働く人間なら、これで十分だと言っている。
「承知しました。他にはありません」
リサは言った。
村上が、少し身を乗り出す。
「立花さん。一つだけ聞かせてください」
視線が合う。
「あなたにとって、PMOとは何ですか?」
想定外の質問だった。
リサは、考える。
ーーPMO、田村メイコのメールで始めて知った言葉
PMOの役割は調べた。
リサが生きるフリーの世界では、主導権は、常に情報を握る側にある。
ファシリテーターの為に最初から権限を与えられたポジション...そんなモノは不要な存在だと思った。
フリーの世界は孤高でダイナミックな世界だ。
自分が代表するのは、チームでも組織でも肩書でもなく、常に自分自身だ。
協働はあるが、参加者は皆自立的に動いている。
競争と交渉が協働をドライブさせる、つまり、ファシリテートするのだ。
だが、スタティックな協働の世界には、必要な存在なのかもしれない。
リサは、静かに答えた。
「……必要悪、でしょうか」
村上の眉が、わずかに動く。
「ほう。続けてください」
リサは、言葉を選ぶ。
「理想的なプロジェクトチームを想定します。役割はフラット。自立、共有、連携。意思決定と実行が最短距離で結ばれている集団です」
村上は黙っている。 田村も、口を挟まない。
「そのチームにとって、PMOは“悪”です。介在し、遅延を生み、自由度を下げる存在だからです」
一拍。
「ですが——」
リサは続ける。
「そのようなチームは、現実には存在しない。これが、私にとっての“必要”です」
沈黙。
空調の音だけが、均一に流れている。
リサは、視線を上げる。
村上が笑っている様に見えた。
「いつから来れますか?」
「来週から可能です」
「田村さん、早速立花さんの契約書を作成して下さい」
田村メイコは立ち上がり、リサに近寄るとタブレットを渡す。
「契約事項を読んで、ここに電子ペンで署名してください」
リサは契約事項に目を通す。全3頁。
契約期間は一年間、報酬額は年俸で二千万円。
その他、勤務時間、勤務形態、守秘義務事項など、一通りに目を通すと、電子ペンで署名した。
立花 栞
そう——私は、立花栞だ。
その役割を、一年間演じ切るだけでいいのだ。




