第二十二話 尾行
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
フリーランチャーの爆破から、一年が過ぎた。
リサは、東京のマンションの一室にいた。
この一年間、彼女に定期的な収入はない。
だが、一年前にFriendsへ売却した映像で得た七千万円は、
無駄を削ぎ落とした彼女の生活には、十分すぎる額だった。
余計な契約はしない。
取材の約束も入れない。
時間を売らない代わりに、時間を溜め込む。
それができるだけの余白が、今の彼女にはあった。
だが、費やした時間に見合った収穫がない、そうも感じていた。
ノートPCの画面では、画像再生ソフトの再生バーが、
すでに何度も往復した位置で止まっている。
リサは、椅子に腰掛けたまま動かない。
部屋の照明は落としてある。
画面の白だけが、彼女の指先と頬の輪郭を冷たく照らしていた。
映像は、一年前のものだ。
北九州郊外。
フリーランチャー研究所建設現場。
「事故」と呼ばれた爆破を、
「事件」だと示した映像。
モニターに映っているのは、
燃え盛る倉庫の外壁に空いた穴と、
そこから必死で“何か”を運び出そうとする二人の静止画像だった。
Friendsには売らなかったカットだ。
あれから一年。
リサは、この“何か”だけを追ってきた。
白い粉塵。
斜めに傾いた平屋倉庫の外壁。
剥がれ落ちた外装材の向こうに、欠けた四角い穴。
そして――
その穴へ、逆に入っていく人影。
リサは、マウスに触れない。
このフレームは、もう身体に染みついている。
逃げていない。
助けに行っているわけでもない。
取りに行っている。
最大限に拡大された画面の端に、
その“何か”の表面に刻まれた、かすれた文字が残っている。
「N……T……」
それだけだ。
他の文字は、爆風と粉塵に削られて判別できない。
リサは、この刻印の正体を追わなかった。
文字の組み合わせは、ほぼ無限にある。
かすれた部分を推測しても、それは想像でしかない。
想像は、売れない。
彼女が欲しいのは、
“見たままの事実”だけだった。
この一年、リサは何度か北九州を訪れている。
爆破から一年後、異例の短工期で完成した
フリーランチャー研究所を、遠くから眺めるために。
破壊からの復旧が早すぎる理由について、
フリーランチャーはこう説明していた。
――基礎部分は破壊されなかったため。
説明としては、成立している。
だが、リサは気づいていた。
あの倉庫が、存在しない。
研究所の外ゲート前には、
黒い御影石の慰霊碑が建てられている。
刻まれている名前は、二つ。
リサは思う。
――おそらく、映像に映っていた
倉庫から“何か”を運び出した、あの二人だ。
慰霊碑は、亡くなった人間に捧げられるものだ。
だが、リサにはそうは見えなかった。
これは、
二人が何をしたかを、忘れないための碑だ。
フリーランチャーにとって、
それほどまでに重要な“何か”。
それは、彼女の撮影した映像から、
すでに十分すぎるほど伝わっていた。
爆破以降、
フリーランチャーには数え切れないほどの取材依頼が舞い込んだ。
バイオAI開発の危険性。
倫理。
人体実験。
社会的不安。
どれもが推測で、
どれもが憶測だった。
それでも新聞は売れ、
雑誌は刷られ、
視聴率は上がる。
だが、リサはそうしない。
彼女の仕事は、
市場価値が最も高い情報を、最も適切なタイミングで売ることだ。
――三ヶ月前。
リサは、一年前に爆破を撮影した位置に車を停め、
完成したフリーランチャー研究所を眺めていた。
外ゲートには警備員が立ち、
車両の出入りが淡々と管理されている。
その前に、
ひとりの女が歩いてきて、立ち止まった。
背が高い。
白いブラウス。
黒いパンツ。
大きな黒縁の眼鏡。
何か違和感を感じた。
リサは、慌ててビデオカメラを構え、その女を撮影し始めた。
女は歩き出し、研究所から少し離れたバス停で足を止めた。
ためらいはない。
時刻表を確認する仕草もない。
ただ、そこに立つ。
リサは車内から、その背中を見ていた。
エンジンは切ってある。
研究都市の静けさの中で、冷却音だけが微かに残っている。
二十分ほど経っただろうか。
遠くから、低いエンジン音が聞こえてきた。
坂道の向こうに、バスの屋根が現れ、やがて全体像が見える。
研究都市と繁華街最寄駅を結ぶ、シャトルバスだ。
空気圧の抜ける音。
女は迷いなく乗り込んだ。
リサは、車のドアを開けると外へ出た。
小走りでバス停へ向かう。
十数秒遅れ。
ドアが閉まりかける。
「……すみません!」
運転手がちらりとこちらを見る。
ドアが再び開いた。
リサは息を整えないまま乗り込んだ。
料金箱はない。
車内はまばらだった。
通勤用のシャトルバス。
この時間帯に使う人間は、限られている。
女は後方の座席に腰を下ろした。
窓側。
背筋は伸びたまま。
一切、周囲を見ない。
リサは前方の通路側に座る。
視線は窓の外。
ガラスの反射で、女の位置を確認する。
バスが動き出す。
研究都市の均一な風景が、ゆっくりと後方へ流れていく。
女は窓の外を見ている。
表情は分からない。
首の角度が、微動だにしない。
研究都市内のバス停を二つ、通過した。
リサはバッグの中で、ビデオカメラに触れる。
まだ、回さない。
このバスは、このまま繁華街最寄駅まで止まらない。
三十分ほどで、終点に着いた。
地方都市特有の、密度の低い繁華街。
人は多いが、どこか間がある。
リサはバッグの中でカメラのスイッチを入れた。
レンズは、カモフラージュされた小さな穴から外を覗いている。
女は、人の流れを読むように歩く。
ぶつからない。
急がない。
だが、迷いもない。
リサは距離を取る。
だが、人混みに慣れていない身体は、無意識に歩調を速めてしまう。
(……まずい)
女は、ストリップ劇場の角で進路を変え、路地へ入った。
リサは、数秒遅れて小走りになる。
路地へ入る。
――いない。
路地は細く、両脇に立ち呑み屋、風俗店、作業着屋が並ぶ。
光が途切れ、空気が変わる。
細かな十字路が次々と現れる。
まるで、構造そのものが迷わせるためにある。
完全に見失った。
リサはバッグに手を入れ、カメラの電源を切った。
その瞬間――
右腕を強く引かれた。
抵抗する間もなく、バラックのような建物へ引きずり込まれる。
ドアが閉まる音。
外の喧騒が、一気に遮断された。
(ヤバイ)
暗い。
カビ臭い。
リサは即座に理解した。
"尾行の落とし前"だ。
暗闇に目が慣れてくる。
バーカウンター。
カウンターチェア。
そして、その奥に立つ人影。
目出し帽。
ひとりではない。
「尾行など、やめろ」
男の声。
高くも低くもない。
感情を想像させない声だ。
「お前の仕事は、観察、収集、記録、編集、そして売却だ」
唾を飲み込む音が、やけに大きく響く。
「秩序を乱すな。
そのためのネタは、こちらで用意してやる」
一拍。
「前回のようにな」
(……ETHIC)
「カメラのメモリチップを外せ。カウンターの上に置け」
リサは、ゆっくりと指を動かした。
逆らっても意味はない。
チップを外し、古びた木製カウンターの上に置く。
「理解したなら、行け」
それだけだった。
リサは建物を飛び出し、走り出した。
どこへ向かっているかは、分からない。
とにかく走った。
十五分ほどで、公園に辿り着く。
自動販売機の前で立ち止まり、炭酸水を買う。
ベンチに崩れるように座り込む。
キャップを回す。
泡と水が溢れ、ジーンズを濡らす。
構わず口をつけ、一気に飲み干す。
息が苦しくなるまで。
ペットボトルを置く。
呼吸が荒い。
目から涙がこぼれている。
やがて、息が整い始める。
(あの目出し帽の言う通り……尾行は、私の流儀じゃない)
(この一年間、何も掴めなかったことに焦っていた)
「私がやるべきことは……」
そう言うと、リサは立ち上がり、繁華街の灯りへ向かって歩き出した。




