第二十一話 詮削
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
北九州の研究都市は、夜になると余計に無機質だった。
昼の白さが消える代わりに、施設の輪郭だけが残る。
街灯の光は均一で、影だけが濃い。
人の気配はあるのに、生活の匂いがない。
フリーランチャー研究所。
三階奥。
村上の研究室の照明は落としてある。
モニターの白だけが机の上を照らし、紙の束と金属の縁を冷たく浮かび上がらせていた。
モニターには、井出耕造転写プロジェクトの、
二つのマスタースケジュールとコスト見積もりが並んでいる。
プロジェクトコードは異なっていた。
内容は”ほぼ同”じだ。
β-E9-0005:MSv1.0
Melancholia:MS
β-E9-0005 は、田村メイコが作ったもの。
Melancholia は、村上自身が作ったものだ。
村上はマウスを動かし、β-E9-0005 のガントチャートをスクロールした。
工程と各工程を結ぶネットワークは美しく無駄がない。
リスク係数もほぼ理想通りだ。
修正の余地はない。
だから"使える"のだ。
村上は Melancholia を見る。
工程は似ている。
だが、決定的な点が違う。
それだけで十分だった。
村上はそれを確認してから、チャットツールを立ち上げた。
相手は九条斎。
回線は暗号化されている。形式はいつも通りだ。
送信アイコンにカーソルを合わせたところで、村上の手が止まった。
指先の熱が、ほんの少しだけ抜ける。
――三ヶ月前。
フリーランチャーのPM採用面談は、研究所ではなく市内の貸し会議室だった。
企業の看板を出さない場所。
壁紙は白く、椅子は安く、空調は効きすぎていた。
村上は、敢えて研究室内のモダンで清潔な会議室を使わなかった。
田村メイコは、開始時刻の三分前に入ってきた。
白いブラウス。黒いパンツ。
背は高く、化粧は薄いが、唇だけがブラックライトを充てたルビーのように紅い。
座り方に無駄がない。瞬きが少ない。
大きな黒縁の眼鏡。レンズ越しに、目だけが静かに揺れていた。
履歴書には、IT系のビックプロジェクトの成功事例が並んでいた。
PMとしての経歴は申し分ない。
村上は尋ねた。
「なぜ、うちなのでしょうか」
非難も多い。
“危ない会社だ”という噂もある。
表向きはバイオAI。
だが、その裏の匂いを嗅ぎ取る者はいる。
そんなスタートアップを、彼女ほどの人間が選ぶ理由が要る。
メイコは少しだけ首を傾けた。
考えている素振りではない。
“その質問を、どう処理するか”を選んでいる角度だった。
「バイオAI……なんだか面白そうで」
それだけ。
村上は、一度だけ笑った。
面白い。
彼女ほどの人間なら、一流企業が好条件で囲う。
あるいは、海外でもっと大きな金を取れる。
なのに、この場所にいる。
非難が飛び交い、匿名掲示板では“人体実験企業”と罵られる会社に。
村上は田村メイコを採用した。
――採用後。
メイコの仕事は速かった。
PMOの基本を、説明なしで整える。
言葉の代わりに、仕組みを置く。
人を動かすのではなく、動かざるを得ない形にする。
一ヶ月で非公開案件を握らせた。
さらに一ヶ月で、PMOのヘッドにした。
異例の昇格。
だが、周囲は黙った。
結果が出ていたからだ。
ある夜、村上は田村メイコを研究室に呼んだ。
メイコが部屋に入るなり、村上は彼女を壁に押しやると、彼女の両腕をYの字に広げ、壁に押し付けた。
メイコの大きく吐く息がかかる。
村上はメイコを射抜くようにじっと見つめ、メイコも村上から視線を外さない。
メイコの体の力が、スッと抜けるのが伝わってくる。
村上は押さえていたメイコの腕をゆっくりと離し、彼女の黒縁の眼鏡を外す。
メイコは瞼を閉じていた。
村上はそっとメイコの頬をそっと撫でると唇を重ねた。
メイコは、抵抗しなかった。
その瞬間、村上の中の"ある感覚"が決定的なものになった。
メイコの言った「面白そう」という一言の意味が、別の色に変わった。
ーー
村上は送信アイコンをタップする。
二つのマスタースケジュールが九条に送信された。
暫くして九条のCALLが着信する。
「こんにちは、九条さん」
「Melancholia か...お前らしいネーミングだ。もう一方がダミーだな?」
「はい」
「ほう、できの良いマスタースケジュールだな。ETHICの潜入メンバーか?」
「まだ断定出来ません」
「聞くのもヤボだが、もし白だったら?」
「さあ、分かりません」
モニターに映る村上は肩をすくめる。
九条はチャットツール閉じた。
暗号化ツールを立ち上げる。
画面が立ち上がるまでの数秒、彼の表情は動かない。
暗号化ツールの原文ウインドウに、短い一文を打ち込む。
>mitochondria: Erase the interference.
修飾はない。
対象の説明もない。
誰に向けた言葉かは、書く必要がなかった。
続けて、村上から送られてきた
二つのマスタースケジュールを添付する。
ファイル名はそのまま。
改竄もしない。
見る者にとって重要なのは、内容ではなく「存在」だからだ。
そして、井出耕造のカルテも添付する。
九条は、テキストと添付ファイルをまとめてAESで暗号化する。
処理は即座に終わる。
生成された暗号文をコピーし、
Friendsのプロンプトを開く。
続けて、暗号文を貼り付ける。
>U2FsdGVkX1+J9N4vP6xF2M7cA1DkR9QzT5HnE0sW8ZxCqY4bLJrV+0P2aK7mD6uX
送信。
即時、Friendsのプロンプトにメッセージが返された。
>日本語以外の言語は受け付けません。
だが、ログは残る。
それで十分だった。
九条はノートPCを閉じる。
指が離れた瞬間、
あるはずだった「妨害行為」は、
計画になる前に消える。
誰にも知られず、
誰にも抵抗されず、
ただ――消去されるーーはずだ。




