第二話 醸造
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
ミナトは奥の給湯部屋でコーヒーを淹れている。
九条はサイフォンで淹れたコーヒーしか飲まない。
使っているサイフォンは日本の老舗メーカー製だ。
細いアルコールランプの炎が、丸いフラスコの底を淡く照らしていた。
透明なガラスの中で水がゆっくりと泡を立て、
やがて「ゴボッ」という低い音とともに上部のロートへ押し上げられていく。
ミナトは無駄のない動きで挽きたての粉を投入した。
粉が湯に触れ、ふわりと花のように開く。
黒褐色の渦が静かに広がり、芳香が給湯部屋に満ちる。
かき混ぜ棒で一度だけ円を描くように混ぜると、
ミナトは炎をそっと弱めた。
数秒後、コーヒーは「コポ、コポ……」と音を立てながらフラスコへ戻っていく。
その音は、九条のラボでよく響く脳波解析装置の駆動音にどこか似ていた。
抽出が終わると、ミナトはロートを外し、
白磁のコーヒーカップに琥珀色の液体を静かに注いだ。
それをソーサーに乗せ、
さらに銀のプレートの中央に真っ直ぐ置き、応接スペースへと歩いた。
「先生、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
九条は淹れたてのコーヒーをひと口啜る。
「うまい……」
ミナトはテーブルを挟んで九条の向かい側に座った。
「先生、先ほどの紹介者ですが……」
「分かっている。選別は君に一任しているのだ。問題はない」
「ですが、今月来た"ラムダ"は五人。そのうち一人も選別をパスしておりません。つまり、"アルファ"がまだ一人もいないという事です。
あの仲介業者にはこちらの選別基準を伝えております。
彼らに、もう少しこちらの基準を満たす案件を紹介するよう……」
「君は生産性を問題にしているんだろうが、奴らは金さえ入れば何でもよいのだ。
こちらとしても、かなりヤバイ依頼をしている以上、あまり口を出さない方が良い。
奴らに手を引かれたら、こっちはそれこそ干上がってしまう。
それに、奴らが受け取った法外な仲介料の十パーセントは、こちらに入ってくる。“看板料”としてな」
「……今回の仲介料、あの紹介者は二百万払っておりました」
「ほう、随分ふっかけたもんだ。払う方も払う方だが。
まぁ奴らにしてみればリスクもデカいし、アフター・コストもいろいろ掛かっている。
紹介後の"ラムダ"の監視や情報漏洩の防止策とか。
その辺の企業なんかより、よほど堅牢なセキュリティ・システムを運用しているはずだ。
それには大金が必要だからな。まぁ、こっちの感知することではないが」
ミナトは背筋を伸ばし、その美しい顔は微動だにせず、
まるでビスクドールのようにコーヒーを啜る九条を真っ直ぐ見ていた。
「お言葉ですが、こちらにしてもあの“ラボ”の莫大な維持費がございます。
そろそろこちらの“本業”で収入を得る時期かと」
九条はカップを空にすると立ち上がった。
「とにかく選別は君の役目だ。
ここでの選別は、一般企業でいう“営業”にも相当する。
つまり普通のビジネスにおいて財務と両輪の関係にある。
私は君の選別に一切口出ししない。
君が選別した"アルファ"の依頼を実現するだけだ」
「かしこまりました」
ミナトは立ち上がり、体を正確に四十五度前方に傾けた。
「ごちそうさま」
九条はそう言うと、また奥の部屋へ戻っていった。
九条が奥の部屋に戻ると、
薄暗い空間の中央に据えられた古いデスクランプだけが、孤独な島のように灯っていた。
机の上には、膨大な数のノートが積み重なっている。
製本もバラバラで、紙質も統一されていない。
どのノートにも、細かな数式と神経配列の図が埋め尽くされていた。
九条は無言で、一冊の黒いノートを開いた。
ページの中央に、複雑に絡み合ったニューロンマップ。
その周囲には、走り書きでこう書かれている。
――“人の意志は、複製され得るか”
――“コピーではなく、連続性”
――“世界とは誰のものか”
九条はゆっくりと指先でニューロンマップをなぞった。
その指先の動きは、研究者のそれではなく、
失われた何かを撫でるような仕草だった。
「……もう、そう遠くは...ない」
誰に向けた言葉でもなく、呟きがこぼれる。
机の奥には、分厚いファイルが積まれている。
“内部告発書類”“倫理審査会議録”“研究停止通達書”
茶色い封筒の表紙に貼られた古い印鑑が、鈍く光っている。
九条はそれらを見下ろし、薄く笑った。
冷たく、乾いた笑みだった。
「奪われたものは……取り返すべきだろう。
それが世界の仕組みというのなら、
その世界ごと……書き換えればいい」
照明の揺れが九条の影を歪ませる。
黒く長い影が壁に滲むように広がり、
その形がどこか、巨大な“別の何か”のように見えた。
九条はノートを閉じ、
ゆっくりと机の引き出しを開けた。
中には小型のケースがひとつ。
蓋を開くと、内部に並ぶ金属片が淡く光る。
“神経同調キー”
世界中で彼だけが理論を完成させた、
脳の全構造を同調させるためのプロトタイプ。
九条はそれを手に取った。
その瞳には、人類の未来など映っていない。
ただ、静かで深く、底の見えない復讐の怒りだけが宿っていた。
「世界を転覆させる、か……」
彼はキーを指先で転がしながら、
小さく、愉しげに笑った。
「そんな大それた話じゃない。
ただ――元に戻すだけだ。私の“正しさ”の方へ」
その声は、光を失った部屋に吸い込まれるように消えていった。




