第十九話 同調
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
十五分後、
ノックが二回あった。
間隔は正確だった。
急がず、迷いもない。
「どうぞ」
返事を待たずに、ドアが開く。
田村メイコが入ってきた。
白いボックスを両腕で抱えている。
田村メイコーー
痩せている。
背が高い。
肩から落ちる白衣は、体の線を誤魔化さない。
黒縁の大きな眼鏡。
レンズ越しの目は動かない。
肌は透き通るように白く、血色だけが最低限に整えられている。
黒いパンツ。
足音はほとんどしない。
化粧は薄い。
“整えている”という程度。
だが、その唇は妖しく紅い。
三ヶ月前にフリーランチャーに入社したPMOのヘッドだ。
プロジェクトマネージャーとして、数々のITのビックプロジェクトを成功させてきた実績がある。
村上はメイコを採用すると、すぐに非公開プロジェクトのPMOを担当させた。
そして一ヶ月後にはPMOのヘッドに任命した。
このスピード昇格には、メイコのPMとしての卓越したスキル以外に、もう一つ理由があった。
メイコは何も言わない。
村上を見ることもない。
そのままデスクに近づき、
手にしていた白いボックスを、静かに置いた。
音は出なかった。
炭素繊維強化樹脂。
軽量だが、叩けば鈍い音が返る素材だ。
村上は椅子から立ち上がらない。
村上の脳裏に、二人の研究員の顔が浮かぶ。
一年前の爆破の際に、命懸けでこのボックスを倉庫から運び出した二人の顔だ。
ボックスの表面に刻印されたロゴ”Neural Transcription”は、あの爆風でかすれ、”N”と”T”だけが判読できる。
デスクに置かれたボックスの表面に、両手を翳す。
反応は即座だった。
表面に走った微かな光が、認証を示す。
次の瞬間、
ボックスの一面が、抵抗のない動きでゆっくりと開いた。
内部は暗い。
だが、並べられた金属片が、淡く発光している。
薄い。
不規則な形状。
指で摘めば折れそうに見えるが、実際には折れない。
――神経同調キー。
村上は、その中の一枚を取った。
軽い。
重さはほとんど感じない。
田村メイコが視線を落とすと、
デスクのタブレットには、井出耕造のカルテが表示されている。
名前。
年齢。
識別コード。
依頼内容。
村上は、タブレットの横に置かれたカートリッジに、
神経同調キーを差し込んだ。
クリック音はない。
正しく入ったことは、指先の感触だけで分かる。
タブレットの画面が切り替わる。
《SYNC》
村上は、指でそれをタップする。
画面表示が変わる。
《Your Hands》
村上は、カートリッジ側面のスキャナーに、両手を翳した。
赤外線でも可視光でもない、判別のつかない光が一瞬だけ走る。
画面が切り替わる。
《Next》
今度は、メイコが一歩前に出る。
躊躇はない。
彼女も同じように、
カートリッジの側面に両手を翳す。
タブレットのプログレスバーが、
一気に右端まで走った。
《Completed》
短い表示だった。
村上は、神経同調キーを引き抜く。
そして、何も言わずにメイコへ差し出す。
メイコはそれを受け取り、
白いボックスを閉じる。
カチリ、と小さな音。
それで、作業は終わりだった。
部屋には、
機械の余韻も、
確認の言葉も残らない。
残ったのは、
同期が完了した、という事実だけだ。
田村メイコは、再びデスクに残されたタブレットへ視線を落とした。
画面に表示されているのは、井出耕造のカルテだった。
スクロールはしない。
数行を見るだけで十分だ。
メイコの口角が、ほんの僅かに上がる。
「さっそく、プロジェクトを立ち上げてください」
村上の声に感情はない。
業務指示として、過不足のない響きだった。
「承知致しました」
村上の瞳が、田村メイコの体の線に沿ってゆっくりと動く。
「まず、マスタースケジュールと原価ベースのコスト見積もりを。早急に」
「承知致しました」
それで会話は終わった。
確認も、補足もない。
メイコは白いボックスへ手を伸ばした。
だが、その瞬間――
村上の手が、素早くその動きを遮った。
触れはしない。
遮るだけだ。
次の瞬間、村上は一歩踏み込み、
メイコの背後に回る。
白衣の上から、
彼女の胸部に、ゆっくりと圧がかかる。
指先ではない。
逃げ場を作らない、手のひらの圧だ。
「……はっ」
田村メイコの口から短い息が、漏れた。
メイコは反射的に、
右腕を村上の首に回す。
距離が消える。
彼女は振り返り、
白衣を肩から滑らせるように脱ぎ捨てた。
床に落ちる音はしない。
黒いパンツの上で、
両腕が村上の腰へ回る。
視線が絡む。
村上は彼女の耳元へ顔を寄せ、
低く囁いた。
「その唇の色……やはり、私好みだ」
メイコは、間を置かずに答える。
「お忘れですか?69の色です」
彼女は大きな黒縁の眼鏡を外し、
デスクの上に置いた。
レンズ越しではない目が、
静かに閉じられる。
唇が重なる。
深くはない。
だが、離れない。
二人はそのまま、
パーティションで仕切られた応接ブースへと歩く。
窓から差し込む午後の光が、
パーティションの向こう側に、
重なり合う二つの影を映し出していた。




