第十六話 選定
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
一週間後。
井出耕造と母親が、廃屋のようなビルの階段を上がってきた。
雨ではない。だがこのビルは、晴れの日でも濡れているように見える。
壁の剥がれたペンキが、光を反射しない。
三階。突き当たり。
角の浮いたプレート――古物診断所。
母親は一度だけ息を整え、ノックした。
返事はない。
ノブを押し、ドアが軋み、静かに開く。
室内の匂いは同じだった。
紙と金属。
そして、窓のない場所特有の、空気が動かない匂い。
カウンターの奥で、ミナトが立ち上がる。
白いシャツ。黒いタイトスカート。
顔から温度だけを削ぎ落としたみたいな表情。
「こちらへ」
指先で、二人をパーティションの向こうへ誘導する。
低いガラステーブル。二人掛けのソファ。
背もたれが浅い。落ち着かせる気がない。
母親は背筋を伸ばし、耕造は背中を丸めて座った。
ミナトはテーブルの端に、小さな銀色のトレーを置いた。
「お荷物を」
母親は一瞬たじろいでミナトを顔をみる。
だが、トレーをただ見つめるミナトの顔を見てすぐに理解した。
何故、などという質問は無駄なのだ、と。
母親は無言でバッグを置く。
耕造も、肩掛け鞄を遅れて置く。
ミナトは中を見ない。重さと形だけを確認し、ロッカーへ運ぶ。
金属が金属を飲み込む音。
鍵を回す音。
それで終わり。
戻ってくると、ミナトは母親の前に立った。
目線は顔に向かない。
襟元、袖口、腰回り。
布の縫い目を指でなぞり、指先で“硬さ”を探す。
母親は身じろぎしない。
ミナトが行うことに疑問を呈する余地が無いことを理解したからだ。
次に耕造。
ミナトの白い手が耕造の肩に触れた瞬間、耕造の肩の微動が伝わった。
耕造は視線を床に落としている。
ミナトの白い手が耕造の体の線をなぞる様に、
耕造のジャケットの内側、胸元の折り返し、ベルトの位置――へと移動する。
耕造の微動が、やがて止まらなくなる。
「お座りください」
二人はソファに座ると、同時に長い息を吐きだした。
ミナトはタブレットを開き、デジタルペンを抜き出した。
「本日は、デュプリカントのモデルの選定です」
母親はすぐに頷いた。
頷きの角度が、面談ではなく“契約”の角度だった。
「お願いします。前回、選別は通過したと伺いました。
……次に進むには、ここで決めなければならないのですね」
ミナトは肯定もしない。否定もしない。
ただ、話を進める。
「デュプリカントは、形態によって“維持の構造”が変わります。
構造が変われば、費用も、責任も、事故の種類も変わる」
母親は息を吸う。
一言も逃さない顔だった。
ミナトは、口頭で“仕様書”を読み上げるように説明を始めた。
その美しい唇が無機質に動き出す。
1)クラウド型(リモート人格運用)
「外形を持たない。
対話は端末――音声、テキスト、映像を介して行う。
設置場所は問わない。移動は不要。物理リスクは最小」
母親がすぐに質問を挟む。
「端末というのは、スマホのようなものですか?」
ミナトは一拍置く。
答えるが、丁寧ではない。
「既存端末でも可能。専用端末も可能。
ただし専用端末は、ログの改竄防止と、常時暗号化のために必要になる場合がある」
母親は頷き、メモを取ろうとして――
自分のペンが手元にないことを思い出す。
荷物はロッカーの中だ。
母親の指が、膝の上で軽く握られる。
ミナトは続ける。
「費用は二段階。
起動費――人格生成と初期同期。
維持費――稼働と再同期、バックアップの保持」
数字が出る。
「起動費:二千四百万円。
維持費:月八十万円。最低契約二十四ヶ月」
母親の喉が動いた。
驚きではない。覚悟を飲み込む動きだ。
2)ハイブリッド型(局所端末+クラウド冗長)
「基本はクラウド型。
ただし、家庭内に“局所ノード”を設置する。
通信断、障害、遮断が起きても、最低限の対話は継続する」
母親が食い下がる。
「遮断……というのは、災害のような?」
ミナトは母親を見ない。
言葉だけを投げる。
「災害。停電。回線障害。意図的遮断。
理由は問わない。
“外の世界が切れたとき”に何が残るか、という設計」
母親は、その言い方に僅かに背筋を固くした。
この場では、災害より“意図的遮断”の方が現実味がある。
「起動費:三千二百万円。
局所ノード設置:九百万円。
維持費:月百二十万円。最低契約二十四ヶ月」
母親の眉が、わずかに寄る。
「高くなるのは……安全のため?」
ミナトは頷かない。
ただ、事実を置く。
「冗長性のためです」
3)3Dホログラム型(空間投影)
ここでミナトの声が、ほんの少しだけ低くなる。
重くなるのではない。
現実味が増す。
「外形を持ちます。
ただし、物理的な身体ではありません」
母親が、わずかに身を乗り出す。
「……映像、ということですか」
「三次元投影です」
ミナトは言い直さない。
「視線が合います。
距離が生じます。
同じ空間に“立つ”ことになります」
一拍。
「会話ではなく、同席です」
母親の喉が鳴る。
「触れることは……?」
「できません」
即答だった。
「触れられない。
しかし、避けることもできない」
母親の表情が、僅かに硬くなる。
「その代わり、物理的な事故は起きません」
母親が、ほっとしかける。
だが、ミナトは続けた。
「破損。盗難。暴力。
そういったリスクはありません」
一呼吸。
「代わりに――
他者に見られるリスクが、常に発生します」
母親の目が揺れた。
“見られる”という言葉だけが、深く刺さる。
この女は知っている。
富は、見られることで価値になり、
同時に、見られることで壊れる。
ミナトは淡々と続ける。
「3Dホログラム型は、費用の大半が“運用”に出ます」
母親は視線を逸らさない。
「転写そのものの費用に加え、
常時投影のための環境構築、
監査、ログ保全、表示制限、
そして、投影領域の管理」
母親の唇が乾く。
だが、引かない。
「金額は」
ミナトは、躊躇なく口にする。
「起動費:二千四百万円(転写・人格起動)。
投影環境構築:一千八百万円から。
外観オプション:別途。
維持費:月百五十万円。
定期監査:四半期ごとに二百万円」
数字が、空気を押し下げる。
母親は一拍、目を閉じた。
高い、ではない。
“ここまで来た”という確認の目の閉じ方だ。
説明が終わり、部屋に沈黙が落ちた。
蛍光灯の唸りだけが、音として残る。
母親が言う。声は低い。真剣の声だ。
「……カタログは、ありませんか。
持ち帰って、落ち着いて検討したい」
ミナトは首を振らない。
肯定も否定もしない。
ただ、淡々と事実を置く。
「持ち帰って検討するのは問題ありません。
ただし、カタログはありません」
母親が食い下がる。
「記録がないと……数字も条件も、私の記憶だけになります」
ミナトは前を向いたまま何も答えない。
母親の指が、膝の上で強く組まれた。
この女は“交渉”をしているのではない。
息子の未来を、値段のついた選択肢に変換している。
母親は、決めた。
「……分かりました。ここで決めます」
彼女は耕造を見る。
母親の目線は命令ではない。懇願に近い。
だが、耕造にはそれが重い。
「耕造。あなたが使うのよ。
……どれがいい?」
耕造は何も言わない。
視線は床。肩は内側に縮む。
母親は焦らない。焦れない。
焦った瞬間、この十年の忍耐が壊れる。
「あの、この子にはどのタイプが良いのでしょうか...費用は厭いません」
ミナトが言う。
「答えられません」
母親が反射で顔を上げる。
ミナトは冷静だ。冷淡ではない。
ただ、最初から温度がない。
「ユーザーはご子息です。
ご子息自身が確認し、決めなければなりません」
母親は唇を噛み、耕造を見た。
耕造は、ようやく口を開く。
声は小さい。受け身の声だ。
だが、最後の一行だけ、歪む。
「……3Dホログラムがいい」
母親の目が揺れる。
驚きでも、拒絶でもない。
“言った”ことへの安堵だ。
息子が、選んだ――その事実だけが救いになる。
耕造は続ける。視線は上がらない。
「ホログラムなら、見かけは自由に選べるんですよね?」
ミナトの口角が、ほんのわずかに上がる。
「はい」
「では……美しい女にしてほしい」
部屋の空気が、ひとつ沈んだ。
母親の表情が固まる。
羞恥ではない。恐怖に近い。
“息子の内側”が、初めて外へ出たからだ。
ミナトは何も言わない。
否定もしない。肯定もしない。
ミナトのデジタルペンがタブレットをなぞる音だけが微かに聞こえている。
ミナトは「カルテ」と表示されている画面の備考欄にこう記した。
「極上玉」




