第十五話 客体
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
外壁のタイルが剥がれ、露出したモルタルが雨筋を抱えた古いビルだった。
入口のガラス扉は蝶番が軋み、開閉のたびに乾いた音を立てる。
階段室は薄暗い。
昼間だというのに、光は途中で死んでいた。
踊り場に一本だけ残った蛍光灯が、点滅しかけの白で壁の剥離したペンキを照らしている。
足を乗せるたび、鉄骨が小さく鳴った。
建物がまだ崩れていないことだけを、音が教えていた。
三階。突き当たり。
角の浮いたプレートに、控えめな文字。
――古物診断所。
初老の女がドアの前で立ち止まっていた。
彼女の皮のロングコートやダイヤのイヤリング、ネックレス。
派手ではないが、彼女が富裕層に属する人間であることを十分に印象付けている。
ドア脇に無造作に置いてある傘立てに傘を差し込む。
傘の先から落ちた雨水が、底に溜まり、鈍い音を立てた。
暗い廊下には、濡れた自分と息子の足跡だけが残る。
「本当にこんな場所で...」
息子は女の背後にいる。
井出耕造。三十四歳。
猫背で存在の輪郭が薄い。
呼吸が小さい。
母親の後姿を、瞬きもせずに見つめている。
母親が二度、控えめにノックした。
返事はない。
ノブを押す。
軋む音が廊下に伸び、
止む。
室内は薄暗かった。
雨のせいか、木の湿った匂いがする。
安い蛍光灯、古い事務机、キャビネット。
乱雑ではないが、生活の気配もない。
紙と金属の匂いだけが漂っている。
カウンターの奥で、女が立ち上がった。
ミナトだった。
白いシャツに黒いタイトスカート。
髪は束ねられ、表情はない。
怒りも軽蔑もない。
温度が、そもそも存在しない顔だった。
「こちらへ」
短く言い、パーティションの向こうを示す。
低いガラステーブル。
二人掛けのソファ。
背もたれが浅く、落ち着くように作られていない。
母親が封筒を差し出す。
厚い。
紙の詰まった重さ。
ミナトは封を切り、一枚ずつ確認する。
紹介経路、登録番号、守秘義務契約、仲介手数料の受領証には三百万円と記させている。
「守秘義務契約については、ご理解されていますね」
母親が頷く。
「業務内容、場所、担当者に関する情報を外部へ漏らした場合、仲介組織による“処理”が行われます」
頷き。
ミナトは続ける。
「……では。依頼内容を」
母親が息を吸う。
「あの...息子を……転写していただきたいんです」
ミナトの書類を整える手が一瞬だけ止まる。
だが、不格好な間が空く前に即座に次の言葉を投げる。
「理由を」
「この子は対人恐怖症で……九年間、人と会話ができません。病院も、カウンセリングも……すべて試しました」
"病院も、カウンセリングも……すべて試しました"は嘘だ。
「なぜ、転写ですか」
「……自分自身となら、話せるかもしれないと思ったんです。
その……対人恐怖症から抜け出すきっかけになるのでは、と…」
「ご本人は同意していますか」
母親が答えかけ、止まる。
ミナトの視線が、ほんの僅かに息子へ寄った。
井出耕造はミナトの顔を見ず、ずっと俯いている。
だが、瞳だけは右隣にいる母親に不自然に向いていた。
ミナトは耕造を見つめながら足を組み直す。
黒のタイトスカートから伸びる、白い左右の脚が艶めかしく
入れ替わった。
ミナトは、耕造の瞳が右隣の母親から、
一瞬だけ自分の脚を追ったのを見逃さなかった。
井出耕造は軽く咳払いをすると、小さく呟く。
「……同意しています」
ミナトは反応しない。
その美しい瞳は、真っ直ぐに耕造を射抜いていた。
母親が、その間に耐えきれないように口を挟む。
「すみません……ひとつだけ。転写した息子のコピーは……対人恐怖症の改善に、効果はあるのでしょうか」
声には、具体的な希望が混じっていた。
「人と話す練習に、なるんでしょうか。いきなり他人じゃなくてもいい。最初は……自分自身で」
息を吸う。
「この子は……目を合わせるだけで手が震えて、声が出なくなる。でも……この子自身なら……間違えても、黙っても……少なくとも“理由”は分かると思ったんです」
顔を上げる。
ミナトの紅い唇が、ほんの少しだけ冷笑する。
(でも、私の脚は盗み見した。)
「それが分かれば……外に出られるんじゃないかって」
ミナトは即答した。
「お答えできません」
声色は変わらない。
母親は食い下がる。
「仲介と"選別"は別だと聞いています。あの……"選別"の基準は?」
「お答えできません」
「息子は選別をパスしますか?」
暫し沈黙が落ちる。
ミナトは母親を見ずに、俯いている耕造を見つめて答える。
「はい。ご子息は選別を通過しました」
耕造の両手が一瞬ピクッと痙攣するように動いた。
母親は目を閉じて大きく息を吐いた。
「あぁ〜、よかった。ありがとうございます」
母親深々と頭を下げる。
ミナトは書類を整理しているが、瞳はじっと耕造を見ている。
書類が揃えられ、控えが渡される。
「詳細は、後日連絡します」
二人は立ち上がり、頭を下げ、部屋を出た。
ドアが閉まり、金属音が消える。
室内に残ったのは、蛍光灯の唸りと紙の匂いだけ。
ミナトは手帳を開き、一行を書き込む。
《井出耕造:自己客体化案件》
ペン先が止まる。
(……ミトコンドリア)
思考が、わずかに動く。
(井出耕造……上物ね)
称賛ではない。
愉悦でもない。
純度の高い変化源を確認したというだけの事実。
(面白くなってきたわ)
ミナトは手帳を閉じ、椅子を元の位置へ戻した。
世界はまだ、動いてはいない。
だが――
もう、同じでもいられない。




